2008年1月15日火曜日

お年玉

私の息子は9歳であるが、息子が生まれてこの方、私たち夫婦は息子にお年玉をあげたことがない。息子からお年玉をせがまれたことはないし、私たち夫婦の間で息子にお年玉をあげようかどうしようかと話し合ったこともない。

もちろん、私たちからお年玉をもらわなくても、息子にお年玉をくれる人はいる。私の両親、家内の母(義父はすでに他界)、そして私の実家の近所に住む人たちである。私たちは帰省すると必ず実家の近所を挨拶廻りする。田舎のしきたりといえばそうであるが、年老いた両親が平素お世話になっていることへの率直な感謝の気持ちを伝えなくてはならないという思いもある。

例年、私と息子とふたりで手土産を持って挨拶廻りするのである。しかし今年の正月は息子が率先して挨拶に行ってくれた。何軒かにはひとりででかけた。残りの家には私の父がついていった。

どちらかといえば引っ込み思案の息子が挨拶回りに元気よく出かけていくわけはお年玉目当てではないだろうかと私たち夫婦は苦笑いしながら話し合った。息子は何も言わなかったが、確かにそうであったかもしれない。実際、息子が訪れたほとんどの家から息子はお年玉をいただいて帰った。私は、ご近所に申し訳ないと思った。

しかし家内は、それほど気を遣う必要はないのではないかと言った。私たちは息子が生まれるずっと前から年始のご挨拶を欠かしたことがなかったからである。

昨年7月からずっと我が家の食後の皿洗いは息子がしている。1日50円である。今年3月に遠足に行くのに必要な6千円をクラス全員が自宅で手伝いをすることによって貯めることに決まったと聞いた。すでに6千円以上貯まったが、息子はまだ皿洗いを続けている。家内が床についた後、黙々と一人で流し台の前に立って皿洗いをしている息子の姿は微笑ましい。

生まれてこの方、私たち親からお年玉をもらったことのない息子は、お年玉は両親からもらうものではないと思い込んでいるのかもしれない。それならそれで結構なことだ。

2008年1月12日土曜日

「親の心、子知らず」は悪いことか

「親の心、子知らず」、「子を持って初めて親の心を知る」、「後悔先に立たず」といった表現は子の親不孝を諌める言葉である。私自身もこれまで長い間、子である私が自分の両親の私に対する愛情や心配を理解できない「親不孝者」であった。そして常にこのことに対して罪悪感を抱いてきた。しかし自分自身が親の介護をしなくてはいけないようになってからは、「親の心、子知らず」は逆にいいことではないかと思うようになった。

人は死ぬ。ほとんどの場合、親が子よりも先に死ぬ。もし親の死が子の死と同程度あるいは子の死よりも悲しいことであったとしたらどうなるのであろう。ほとんどの人の人生は悲嘆に満ちたものとなるであろう。そればかりではない。子を持ちたいという欲求も衰え、人類は滅亡へと向かうに違いない。

「親の心、子知らず」はある程度、必要悪なのであろう。