2019年4月16日火曜日

叔母

両親が亡くなってからは、高知に帰省する機会がめっきり減った。昨年帰省したのは2回だけであった。
 
帰省した際には、私は必ず叔父(私の母親の弟)の墓に参拝する。叔父の墓は高知龍馬空港近くの小高い山の南斜面にある。この叔父を私は子供の頃からずっと尊敬していた。
 
未亡人となったこの叔父の妻とも私は血縁関係にある。
 
この未亡人の家を私はよく訪問し、思い出話を聞かせてもらう。高校卒業と同時に東京に出てきた私は、実家の近隣の人たちとも親戚ととも接触がきわめて少なかった。自分の両親が日頃どのような生活を送っているのかすらほとんど知らなかった。数ヶ月以上、電話でですら両親と話を交わさないことも珍しくなかった。
 
未亡人から聞かされる話はどれも新鮮である。亡くなった叔父とこの未亡人は実に正直な生き方を通してきた。叔父が勤めていた会社が倒産したりとなにかと経済的には苦しかった時期もあったであろうが、金銭に関しても実に潔癖であった。私の父親がこの夫婦を最も頼りにしていたのも頷けた。
 
父親が亡くなったあとも、私は引き続き2週間に1回の頻度で帰省し、母親を見舞った。仕事を犠牲にして東京からはるばる高知まで帰ってきているのに一度も私が愚痴をこぼさないことに母親は感謝し喜んでいたということをこの未亡人から聞かされたのは、昨年の秋にこの未亡人宅を訪れたときであった。
 
私の母方の祖母は生前、長期にわたって入院生活を送っていたが、その祖母がどのような経緯で家を出されたのかについてもその未亡人から聞かされた。その経緯を聞かされたときには少なからず驚いた。祖母が入院生活を送っている時期、私は大学生であった。帰省するたびにその祖母を見舞った。単に祖母に会いたかったという理由であったが、祖母は私の訪問を殊の外喜んでくれた。そして、以前にも書いた通り、私が帰ろうとすると、病室から廊下まで私を追いかけてきてお金をくれた。いつも一万円であった。私は、祖母を見舞うたびにお金をもらうことが心苦しくなって、次第に見舞うことが減っていった。その祖母の訃報が届いたのは、私が大学を卒業した数年後であった。私の母親が、亡くなった実母(私の祖母)の最期の模様について語ることはなかった。
 
数年前に初めて祖母の墓に参拝した。この年齢に達すると、遠慮などせず、できる限り祖母を見舞いに訪れるべきであったと思う。
 
思い出はいつまでも新鮮である。
 
 

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