2019年1月4日金曜日

留守番電話

姉がぞっとするような声で留守番メッセージを残したのは、父親が入院した約1か月後であった。その留守番メッセージの冒頭の文言は先日書いた。「あなたたち三人がしていることは全部知っちょります。」この『三人」が私と私の家内と私の一人息子のことであることを私が知ったのは2015年に亡くなった母親の告別式の翌日であったことも書いた。それまで「三人」は私と私の両親のことであろうと思っていた。私の家内とまだ中学生であった私の一人息子に対してあれほどまで激しい憎しみを姉が抱いているとは夢にも思わなかったからだ。
 
父親が出血性脳梗塞で入院した当初は、簡単な会話はできた。しかし込み入った話は全くできなかった。父親は自分がどの病院に入院しているのかすら知らなかった。病状はどんどん悪化していった。私は父親を東京の施設に移さなければならなくなる可能性を考え、家内に施設を探してもらった、その一方で、私は父親の後見人申請を裁判所にする手続きを急いだ。その2年前に父親が初回発作で倒れたとき、もしものときには私が父親の任意後見人を務める契約を父親と私は結んでいた。
 
私が家庭裁判所から任意後見人として認めてもらうにあたっては、父親の財産一式の目録を提出しなければならない。私は高知に帰省するたびに雑然とした書類をひとつひとつ整理し、父親の預金通帳や登記簿を揃える作業を続けた。わが家ではずっと父親が家計を握っていた。母親は自分名義の預金通帳すら持たしてもらえなかった。したがって何を母親に尋ねても母親にはわからなかった。唯一、母親が役に立ったのは、金庫の開け方を教えてくれたときだけであった。その母親も父親を追いかけるように1か月後に入院し、わが家は空き家となった。
 
誰も住まなくなった実家で、一人でどこにあるのかもわからない書類を探し、雑然と積み上げられた書類にひとつひとつ目を通して必要な書類と不要な書類を分けた。そしてたびたび市役所に足を運んでは父親が所有していた不動産の目録をコピーさせてもらった。不動産は土佐市内だけではなかった。他の市町村にもあった。それらの市町村から必要書類をもらうには多大な時間がかかった。手間もかかった。
 
私がこんな作業をしていたときのことを、姉は「幸伸が父親の財産をコピーして自分の名義に書き換えている」と解釈したのだ。そのようなことを姉に告げたのは一人の従姉であると姉は裁判の場で証言した。
 
私はこの従姉に電話をかけ、姉の主張の真偽を確認した。この従姉は、そんなことは言っていないと言った。しかし、私に有利になる証言は一切するなと(その従姉の)妹から言われているので、そのことは裁判では話さないと私に告げた。私は弁護士を通じて証言を依頼したが、従姉は拒否した。
 
「幸伸に有利になる証言はするな」と言ったのが誰であるかは、ここに書くまでもないであろう。

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