2018年6月6日水曜日

遺産相続 3

姉が高校3年生だった時のこと。秋であった。夕食の後、家族全員の前で突然、父親が次のように喋り始めた。静かで穏やかな口調であった。

「〇〇(姉の名前)、お前は大学に行きとうないかえ。幸伸は大学に行くことになると思うが。姉弟の間で差をつけたらいかんけ、訊いちょくけんど。行きたけりゃ行かしちゃるが、どうでえ。」

この父親からの問いかけに対して姉は「勉強は嫌いやけ、大学には行かん」と答えた。私が視線を姉の方に向けると、姉はうつむき、茶の間の畳をじっと見つめていた。

姉と3歳違いの私は、当時、中学3年生であった。大学進学などまだ全く考えたこともない時期であったので、父親と姉とのこのときの会話は今も鮮明に覚えている。

姉が大学に進学しなかったのは姉自身の選択であり、両親の強制によるものでも説得の結果でもなかった。姉は自ら就職を選んだのだ。

2013年に父親が出血性脳梗塞で倒れた後、私は父親と母親の介護のためにたびたび高知に帰省するようになった。姉が高校卒業後、大学には進学せず就職することに決まったあと、父親が姉の就職口を見つけるために奔走したことを私が実家のご近所の方から聞かされたのは、この時期のことであった。具体的にどのような活動を父親がしたのかも断片的ではあったが聞かせてもらった。

姉は地方銀行に就職した。目立って産業のない高知県では、銀行に勤められるというのは幸運なことである。少なくとも社会からは、一定の評価を受けられるであろう。

姉が銀行に就職するにあたってどれほど父親が奔走したのかを姉自身は今も知らないかもしれない。

はっきりと口に出していうことはなかったが、姉が銀行員になったことを父親は喜んでいるように私は感じていた。しかし姉本人からは、銀行に勤務し始めた姉から銀行員になった喜びを聞かされることはなかった。姉は口を開けば愚痴を言った。取るに足りないことばかりだったのでどんな愚痴だったのかはほとんど記憶していないが、特に窓口業務を嫌っていた。そして姉を銀行に就職させた父親を強くなじった。確かに、適正という面から考えれば、姉は銀行員向きではなかったかもしれない。姉は決して社交的ではなかった。人づきあいはうまくなかった。

幸か不幸か、姉の銀行員生活は長く続かなかった。姉は20歳で結婚退職した。当時、女性銀行員は結婚すれば退職せねばならなかった。皮肉なことに、姉が結婚した相手は、姉があれほどまで嫌った窓口業務をしている最中に姉を見初めた客の男性であった。

「あのときはイヤでイヤでしょうがなかったけんど、銀行に勤めてよかったと思う」と、後年、姉が私にポツリと言ったことがある。その前後の会話とは全く関係なく突然、姉はこう言ったのだ。姉がこのとき、なぜ突然このようなことを言ったのか今もわからない。いつのことであったのかも忘れてしまった。

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