2018年6月18日月曜日

父親 2

姉は口を開けば父親を詰った。このことは本ブログで繰り返し述べてきた。しかし父親が姉を批判する言葉を私が聞いたことは一度もなかった。姉の嫁ぎ先が経営していた会社が倒産して以来、父親は姉と姉の家族のことをずっと心配していた。そればかりではない。父親は特に姉の4人の子たちの教育には強い責任感を抱いていた。全員に大学教育を受けさせることは祖父である私の父親の責務であると考えていた。そのことを私に向かって度々口にした。

父親がそう考えていたのは私の祖父つまり私の父親の父親の影響であった。私が私立大学の医学部の入学試験に合格し、いざ翌日、東京に発つという段になって、突然、父親が国立大学に言ってくれないかと言い出したのだ。私は旧帝大の医学部にも合格していた。そのとき、財産を売り払ってもいいから私が希望する大学に行かせてやれと言ってくれたのが私の祖父であった。

結果的には、私の大学在学中に父親が金に困ることはなかった。当時は高度成長期であったこともことも手伝って父親の仕事は順調であり、私の学費の支払いや生活費の仕送りは全く負担にはならなかったと、後年、父親は私に語った。

私の大学入学時ばかりではなかった。私の中学校進学時にも祖父は父親の背中を押して私を私立中学校へ進学させてくれた。

父親は、私の人生の節目で祖父が「財産を売り払ってもいい」と言って父親の背中を押してくれた祖父に感謝していた。そして祖父を見習って、父親も自分の孫たちに大学教育を受けさせねばと考えていた。

姉の4人の子たちは全員国立大学を卒業した。父親はそれを心から喜んだ。高知の片田舎の4人の子たちが全員国立大学を卒業することは極めて稀である。父親は近所の人たちに向かって、自分は幸せであると語っていたという。そのことを、父親が倒れたあと、私はご近所の人たちから直接聞かされた。姉がたくさん子を産んでくれたことに対しても、父親は姉に心から感謝していたということである。

姉は子を4人産み育て、既に孫が何人もいる。自分自身の両親が如何に自分のことを心配してくれていたかについて、なぜ気づこうとしないのであろうか。

0 件のコメント: