2018年6月24日日曜日

軽井沢 発地

今朝、東京を発って軽井沢に出かけてきた。車で2時間あまり。自宅を出たときには雨が降っていたが、途中で雨が止み、晴れ間が出てきた。発地にある「たんぽぽ」というレストランでランチ。浅間山が美しい。

今回も、水泳の試合があると言って、息子は今朝早く出かけていった。息子も軽井沢は好きであるが、なかなか時間が取れなくなった。









2018年6月23日土曜日

記録

このところ、亡くなった両親の介護をめぐる姉および姉の家族との確執について書くことが多い。しかし、姉と姉の家族に対して何か激しい感情があるかといえば、いまはもう彼らには何の憎しみも怒りも抱いていない。彼らにはもう関心がない。しかし、両親の介護をめぐって彼らとの間で起きたことについてはきちんと記録を残しておこうと思っている。私の一人息子のために。私の父親は、親戚との確執について私に多くを語らなかった。そのため、両親が倒れたあと、私は親戚からの言いがかりに随分と苦しめられたからである。

2018年6月18日月曜日

父親 2

姉は口を開けば父親を詰った。このことは本ブログで繰り返し述べてきた。しかし父親が姉を批判する言葉を私が聞いたことは一度もなかった。姉の嫁ぎ先が経営していた会社が倒産して以来、父親は姉と姉の家族のことをずっと心配していた。そればかりではない。父親は特に姉の4人の子たちの教育には強い責任感を抱いていた。全員に大学教育を受けさせることは祖父である私の父親の責務であると考えていた。そのことを私に向かって度々口にした。

父親がそう考えていたのは私の祖父つまり私の父親の父親の影響であった。私が私立大学の医学部の入学試験に合格し、いざ翌日、東京に発つという段になって、突然、父親が国立大学に言ってくれないかと言い出したのだ。私は旧帝大の医学部にも合格していた。そのとき、財産を売り払ってもいいから私が希望する大学に行かせてやれと言ってくれたのが私の祖父であった。

結果的には、私の大学在学中に父親が金に困ることはなかった。当時は高度成長期であったこともことも手伝って父親の仕事は順調であり、私の学費の支払いや生活費の仕送りは全く負担にはならなかったと、後年、父親は私に語った。

私の大学入学時ばかりではなかった。私の中学校進学時にも祖父は父親の背中を押して私を私立中学校へ進学させてくれた。

父親は、私の人生の節目で祖父が「財産を売り払ってもいい」と言って父親の背中を押してくれた祖父に感謝していた。そして祖父を見習って、父親も自分の孫たちに大学教育を受けさせねばと考えていた。

姉の4人の子たちは全員国立大学を卒業した。父親はそれを心から喜んだ。高知の片田舎の4人の子たちが全員国立大学を卒業することは極めて稀である。父親は近所の人たちに向かって、自分は幸せであると語っていたという。そのことを、父親が倒れたあと、私はご近所の人たちから直接聞かされた。姉がたくさん子を産んでくれたことに対しても、父親は姉に心から感謝していたということである。

姉は子を4人産み育て、既に孫が何人もいる。自分自身の両親が如何に自分のことを心配してくれていたかについて、なぜ気づこうとしないのであろうか。

甥 2

父親は私の姉の長男のために保険に加入していた。姉の長男が病気になったり怪我をした際に保険金が姉の長男に支払われるという保険であった。その保険は期限付であった。父親の死後、数ヶ月ほど後に満期を迎えていた。

家庭裁判所の審判によって、その保険の掛金を私が相続することになった。そのため、その掛金を受け取る手続きを行うために郵便局に出向いた。書類に必要事項を記載、捺印して、窓口の近くで長時間待った。やっと私の名が呼ばれた。私が立って窓口に行くと、申し訳なさそうに郵便局の担当者が話し始めた。その担当者は、保険は既に満期を迎えているので掛金は私の口座には振り込まれず、被保険者である姉の長男の口座に振り込まれると言った。私は驚いた。父親は他にも保険をかけていた。私の家内そして私の息子が被保険者となっている保険であった。これらも既に満期を迎えていた。何ということであろう。裁判官も弁護士もそして税理士もそのことを見落としていたのだ。

しかし私は単にこのことを悲しんだわけではなかった。息子はまだ大学生である。卒業するまでに多額のお金を必要とする。息子の生活費やクラブ活動費は息子が受け取る保険の掛金から一部出してもらえばいい。家内も何らかの方法で受け取る保険の掛金を私に返すと言ってくれている。

問題は姉の長男が受け取る保険の掛金であるが、その分の金は姉から返却してもらうつもりである。さすがの姉も、そのことには同意するであろう。姉が同意すれば、姉が受け取ることになっている父親の遺産の一部が姉の長男に直接渡ることになる。いいことである。姉は実家から受け取った援助をひた隠しに隠してきた。姉の長男のために私の父親が支払った掛金が姉の長男に直接入れば、姉の長男は私の父親すなわち彼の祖父の愛情を感じることができるであろう。

「外孫と内孫を区別することは許さん!」と私に怒鳴りかかってきた姉の長女の顔を見てみたいものである。

問題は、私の相続税が過払いになってしまうことだけである。

甥 1

今から15年ほど前のことになろうか。甥は1年間、自宅で浪人生活を送った後、東京大学に入学した。

甥が浪人生活を送っている頃、私は姉の家に度々電話をかけ、甥を励ました。甥は東京大学を目指して勉強していたが、時折弱気になり、受験する大学のランクを少し下げようかと言い出すことがあった。そんな甥を、私は「気迫で負けてはいけない。たとえ受験校のランクを下げてもその大学に縁がなければ受からない。試験に受かりさえすればお金のことはどうにでもなる」と言って励ました。姉も私に対して、時々電話をかけてきて長男(私の甥)を励ましてくれと言った。結局、甥は東京大学を受験し、無事、合格した。

甥が受験のために上京してきた日の晩、私は甥を私の自宅に呼んだ。そして一緒に食事しながら短時間雑談を交わした。どんなことを話したかは忘れてしまったが、気迫で負けるなといったことは話したかもしれない。食事の後、私の車で、甥が宿泊していた本郷のホテルの近くまで送っていった。甥は試験が終わったら東京で遊んで帰ると言って、車を降りた。車から降りた後、ホテルに向かってトボトボと力なく歩いていったそのときの甥の後ろ姿が今も忘れられない。   

合格発表の日、合格通知がなかなか届かなかった。姉と甥は不合格だったと思い込み、二人して大泣きに泣いたという。ちょうどそのとき、姉の次女から姉に電話が入った。インターネットで調べたところ、合格者名簿の中に甥の名前があるという知らせであった。

4月に甥は東京に出てきたはずであった。しかし、夏になっても甥からは連絡がなかった。そにため、私はその年の8月に姉に電話をかけた。そして甥がどこに住んでいるのかを尋ねた。たまには甥を自宅に呼んで一緒に食事をしたり、小遣いもやりたいと思ったからであった。ところが、甥の住所を私が尋ねるや否や、姉から大声で罵声が飛んできた。「〇〇(甥の名前)には、叔父ちゃんには絶対連絡たらいかんと言うちゅう!」と。

私はあっけにとられた。私は「それはどういうこと? どうしてそんなことを言うが?」と怒った。私が声を荒立てたのは当然のことであった。私が怒ると、姉はガチャっと一方的に電話を切った。受話器を置いたあと、私は甥の姿を思い浮かべ、暗澹たる気持ちになった。姉に電話をかけ直す気力はなかった。ただ、私はその電話を職場の医局からかけたので私と姉の会話を聞いていた人たちがいた。たまりかねてひとりの秘書が姉に電話をかけた。そして「お姉さん、さっきの会話をそばで聞いていましたが、あれはひどすぎたのではありませんか」と言ってくれた。その問いかけに姉は何も答えなかったという。

結局、甥は大学を卒業するまで私に連絡してくることはなかった。大学卒業と同時に甥が外資系のコンピュータ関連企業に就職したことは私の父親から聞かされた。私は、甥は大学院に進学したかったのに家庭の事情で断念したのではないかと思い、甥が不憫になった。父親は、甥は、東京のある女子大学の学生と交際しているということも私に話した。これらのことを父親が知っていたことから、たまには父親と甥とは連絡を取り合っていたのではないかと私は推測した。

甥が社会人になったということを知った私は思いきって甥に連絡した。電話番号は父親に教えてもらった。以来、甥と私とは、時々、メッセージで連絡をとるようになった。2回か3回だけであったが、甥と会うこともあった。甥と会ったとき、思いきって甥に尋ねた。甥の浪人中、私が予備校の学費の一部を出してあげたことや大学の入学試験を受けるために上京した際の交通費も私が出したことを知っているかと。案の定、甥は知らないと答えた。

甥は、自分で学資ローンを組んで大学に通ったということであった。数百万円のローンが残っていると言った。私は甥が不憫でならなかった。私の父親は、甥に対して、いつでも金を出してやると繰り返し繰り返し言っていた。それは、父親の人生最後の生きがいのように私には思えた。甥が入学したとき、父親は甥に二百万円渡したが、それが父親からの最後の援助になったのではないかと私は危惧した。ひょっとしたら、姉は、私の父親と連絡を取ることすら甥に禁止していたのではないか。私は心配した。電話をかけてもなかなか甥からは折り返し電話が来ないと父親が寂しがっていたことがあった。どうやら私の危惧は当たっていたらしい。

姉は、自分の秘密で受け取れる金はスポンジが水を吸い取るように、無条件で両親や私から受け取った。嫁ぎ先の家族にはそのことをおくびにも出さなかった。そして「実家の両親は1円たりと援助してくれない」と自分の家族ばかりでなく親戚や実家のご近所に触れ回った。

もし姉が、父親と連絡をとるな、私とも連絡をとるな、と甥に言わなければ、甥は学生時代にあれほどまで経済的に辛い思いをすることはなかったであろう。父親は甥が必要とする金は惜しまず出したはずである。甥は大学院にも進学できたかもしれない。

私は、これからの甥の人生が幸福に満ちたものとなることを心から願わずにはいられない。




2018年6月17日日曜日

父親 1

私の姉は、口を開けば父親を口汚く罵った。父親の晩年には、「早く死ね!」といった言葉を度々口に出した。私は姉を窘めなかった。無駄だと思ったからである。姉は父親だけを罵っていたわけではなかった。義理の両親、義理の兄夫婦、夫、そして自分の子たちをも、事ある度に言葉の限りを尽くして罵倒した。人の悪口を言うのは姉の生涯のミッションのようなものであった。当然、私も私の家内も私の義理の母親も姉の標的となった。私の母親も然り。姉の小学校、中学校、高校のクラスメートも、姉は誰一人褒めなかった。

ただ、一度だけ姉が人を褒めるのを聞いたことがある。姉は、自分の三女だけは、「心が優しい」と言って褒めた。三女は姉にたびたびメッセージを送ってくれたり電話をかけてきては「お母さん、元気?」と尋ねてくれるからだという。

娘から労りのメッセージや電話をもらうと嬉しいという姉の言葉は母親としての率直な気持ちを表したものであろう。ところが、娘から連絡をもらうことが嬉しいと話す姉は、その一方で、自分の両親(私の両親でもある)からの電話は長年にわたって着信拒否設定していた。そしてそれは当然のことであると考えていた。姉は、何事によらず自分がすることはどんなに酷いことであっても自分に非はなく相手が悪いと常に考えた。その着信拒否設定についても自分の正当性を私に主張した。

晩年の両親がどれほど寂しい思いをしていたか、姉はわからなかったのであろうか。わかっていたはずだと私は思う。わかっていたからこそ着信拒否したのだ。姉は晩年の両親を虐めることを生きがいとしているように私は感じていた。そう思わずにはいられなかった。私は、姉から、父親を懲らしめるために私も父親からの電話を着信拒否するようにと何度か要求されたからだ。(母親からの電話を着信拒否するようにとは要求されなかった。)

姉は自分に甘く他人に殊の外厳しい。これは姉の最大の欠点である。生涯、治りはしないであろう。

2018年6月15日金曜日

遺産相続 8

2013年6月下旬に父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れた翌日、私は高知に帰省した。そして数日間、高知に滞在した。高知滞在中の6月30日に私は姉の家を訪れて姉の家の庭で短時間雑談を交わした。別れ際に私が自分の財布の中を覗き数千円しか入っていないのを見た姉は、私に金を貸そうかと言ってくれた。その翌々日には東京に戻る予定であったし高知滞在中はもう多額の金を必要とすることはあるまいと思った私は、姉から金を借りようかどうしようかと一瞬迷った。しかし、当時、高知にはATMが少なかった。それに私は高知市内の地理にも不案内であった。もし高知滞在中に金を引き出さなければならなくなったら時間がかかるかもしれない。そう考えた私は、姉に金を借りておくことにした。姉は家の中に戻り、再び庭に出てきて私に3万円手渡してくれた。姉は、いつ返してくれとも言わなかった。私は次に帰省する際にその金を姉に返すつもりであった。

ところが、何度も述べたように、その翌日の7月1日つまり私が東京に戻る日の前日、私は姉と姉の長女から母親との絶縁を告げられた。そのため、2週間後、再度高知に帰省した際には、姉に会わないまま東京に戻った。そしてその晩、姉に電話をかけた。父親が死んだ後、父親が所有する不動産を相続したいと思っているかどうかを姉に確認するためであった。田舎では山林や田畑を欲しがる人はもういない。父親が所有している山林や田畑などは誰が相続しても手に余るものであった。もし姉が相続を希望しないのであれば、父親が生きているうちに可能な限り不動産を処分しておかなければならない。東京に住む私とて、高知県内のどこにあるのかもわからない田畑や山林を相続することはできない。不動産を処分するとすれば、両親の介護のために私が度々高知に帰る時期しかなかった。

姉は不動産は要らないと答えた。私は、私が出来る限り不動産を処分するが残ってしまうかもしれないと言った。そして父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉と私が半分ずつ相続しようと提案した。しかし姉は、不動産は要らないの一点張りであった。母親は身体が不自由だから母親には山林や田畑は相続させられないではないかと私は声を荒立てた。すると姉は、「要らんものは要らん」と言って一方的に電話を切った。姉から借りた3万円のことは話せなかった。

その晩、姉は自分の長女に電話をするとともに、なんとその深夜(正確には、7月16日の午前1時過ぎ)にひとりの従姉に電話をかけて散々私をなじったという。姉がそんな深夜、従姉に電話したことはその数日後に従姉本人から聞かされた。「不動産はやるが銭は一銭もやらん」と私が言ったといって姉は憤慨していたという。その何日か後で再びその従姉と電話で話したときには、「幸伸は金を3万円取って行って返さん!」と言って姉が憤慨していると告げられた。どちらも心外であった。

7月中旬といえばまだ父親が倒れてから2週間余りしか経過していなかった。父親の病状がどうなるかはまだわからなかった。その時点では、父親は数十年以上生き続ける可能性もあった。父親の財産がどれほどあるのかもわからなかった。当然、父親の財産は父親の病気の治療に優先的に使うべきである。父親が倒れてまだ2週間あまりしか経っていない7月中旬の時点で、どうして私が父親の現金や預金の遺産分配について姉と話すことができよう。

私が姉から借りた3万円についても然り。私は姉の金を「取っていった」わけではない。高知に滞在中、少しでも多くの時間を両親の介護に費やしたいと思って姉の厚意に甘えただけである。私は、借りた3万円をそのまま姉に返すつもりはなかった。その頃はまだ、私はまさか本当に姉と姉の家族が私の両親と本当に絶縁するつもりだとは思ってはおらず、両親の介護に際して細々とした雑費も必要になるであろうからと考え、姉に少し多めに金を渡すつもりをしていた。

私は姉の讒言に腹が立ったが、現金書留で10万円姉に送った。しかし姉からは何の連絡もなかった。

三度目であったか四度目であったか記憶が定かでないが、私が再度高知に帰ったとき、姉から両親に送られてきていた絶縁状を母親から見せられた。その絶縁状には、姉が私に貸した3万円を返却してもらいたいということも書かれていた。その絶縁状が正確にいつ両親に送られてきたのかは知らなかったが、手紙の文面からは私が姉に10万円を送る前に届いたのであろうと推測された。

私が姉に送った10万円に関して何の連絡もよこさなかった理由は私が怖かったからであると、後に姉の長女は述べた。その言葉を聞いて、姉と姉の長女は私によほど負い目を感じていたのであろうとしか私には思えなかった。それまでの自分たちの言動が非常識だったことに気づいていたのであろう。そうでなければ私を恐れる理由などない。姉の長女は、私が姉に送った現金封筒に手紙が添えられていなかったので私が怖かったと述べた。私が送った10万円に対して何の連絡も寄越さないような礼儀知らずにそのようなことを言われる筋合いはない。百歩譲って彼女たちが私を恐れる正当な理由があったとしても、それを理由に何をしても逆に何をしなくても許されるとでも考えているのであろうか。姉ばかりでなく姉の長女も全く社会常識のない女である。

遺産相続 7

父親は2011年6月に出血性脳梗塞の初回発作のため数ヶ月間入院した。その際、私は友人の司法書士の勧めで父親と任意後見人契約を結んだ。もし父親の意識がなくなったり父親の判断力がなくなった場合には私が後見人を務めるという契約であった。脳梗塞のためか父親は当時、理解力に乏しく、その契約を結ぶことを嫌がったが、最終的には同意してくれた。

私の姉は、この契約がどのようなものであるのかを全く理解していないようだ。私が父親の財産をどうとでも処理できるようになると思っているようだ。父親がその2年後に二度目の発作で倒れた後、私はその契約にしたがって父親の任意後見人になったが、任意後見人となった私の裁量範囲はきわめて狭いものであった。まず、父親のすべての財産目録を作成して家庭裁判所に提出しなければならなかった。そして全ての入出金を、領収書や請求書を添付して報告しなければならなかった。改葬や不動産の処理に関しては、家庭裁判所の許可が必要であったが、それらの許可をもらうにあたっては、多大な事務処理を必要とした。幸い、後見監督人を務めてくれた私の古くからの友人が改葬許可や不動産処理の許可を家庭裁判所からもらうために骨を折ってくれた。友人のこの協力については以前にも少し述べた。

任意後見人契約を結ぶということは多大な負担を負うことである。任意後見人を務めたことがある者であれば誰でもわかる。単に病院に届け物をするといったことや両親と面会するといった簡単なことではない。私が父親の任意後見人として家庭裁判所から認められたとき、私がまず考えたことは、嫡男として、父親に名誉ある死に方をさせるにはどうすればいいのだろうかということであった。私が実家の掃除や草むしりを怠らなかったのも、嫡男として、父親の名誉を守るためであった。家庭裁判所から許可される必要があったので少額にはなったが、両親の介護を手助けしてくれる人たちにお礼として金を渡したのもそれが理由であった。そして東京から帰省する際には両手にいっぱい手土産買いご近所や親戚に配ったのも、父親に恥ずかしい思いをさせたくないという思いからであった。

しかし、家族に看取られながら死ぬのがやはり父親にとっては最も名誉ある死であろうと考えた私は、なんとしても父親の最期は実娘である私の姉やその子たちに看取ってもらいたいと願った。私が実家で見つけた姉の小学校時代の通知簿や姉の結婚式の写真を姉の夫に届けたのもそういった気持ちがあったからであった。しかし姉は、結局、父親を見舞うことはなかった。父親の最期にも立ち会わなかった。葬式にも参列しなかった。姉は父親の人生を、そして死を汚した。

姉は今、このことについて、心の中で如何なる言い訳をしているのであろうか。

遺産相続 6

姉と姉の長女が、私の一家との絶縁を決断した理由は、私の母親が姉よりも私に多目に遺産を残したいと行ったことが理由であったことは既に書いた。このことを聞かされたのは2013年7月15日の晩であった。姉の長女からであった。この晩、姉の長女とはもうひとつのことで言い争った。

父親が倒れる半年前の2013年1月のこと。帰宅すると現金書留封筒が2通、リビングのテーブルの上に置かれていた。1通は私宛、もう1通は私の家内宛であった。差出人は私の父親であった。どういう趣旨の金であるのかわからなかったが、私の家内はその晩直ちに父親に電話をかけ、礼を述べた。そしてその金は大切に預かり、いつでも返却すると父親に告げた。

父親は私に現金書留を送ったのとほぼ同時期に姉の家を訪れていた。このことは、その直後に姉から直接電話で聞いた。父親が姉の家を訪れたとき、父親が家の外から大声で姉の名前を繰り返し呼んだという。父親と顔を合わせたくなかった姉は頑として玄関を開けなかった。しかしあまりにも長時間にわたって父親が姉の名を連呼するため、ご近所に恥ずかしく思い、止むを得ず玄関の鍵を開けたと姉は言った。ただし、姉は、そのとき父親が玄関で姉に現金を渡したことは私に話さなかった。

父親が姉に現金を渡したことは、その6ヶ月後に父親が入院した後、実家で母親から聞かされた。母親から聞いたところによると、姉は親戚やご近所の人たちに対して「要らない金を押しつけられた。この金は返す」と繰り返し話していたそうである。その一方で、父親にも母親にも一言も礼を言わなかった。そればかりか、両親がかけた電話にも出ず、金も両親に返してはこなかった。父親が倒れる直前、「親と口もきかぬ者には、もう銭はやらない」と言って憤慨していたという。父親が怒ったのは当然である。

姉はすべてにおいてこうであった。姉は、自分の嫁ぎ先が経営する会社が倒産した後、私の両親から多額の援助を受けてきた。それらの援助の大半を姉は自分の夫や子たちに伏せていた。私の両親はそのことを知っていたが、姉が嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしてはいけないと考え、姉の家族には何も告げないでいた。それをいいことに、姉は家族や実家のご近所の人たちに対して、「両親は1円の金もくれない」と言いふらしていた。私もことことを耳にタコができるほど姉から聞かされていた。

話を戻す。2013年7月15日の晩、私と私の家内が父親から送ってもらった現金書留のことが姉の長女との間で問題になった。彼女は、私の家内には金をやる必要はないと頑強に主張した。私は、私と私の家内が受け取った合計金額は彼女の母親つまり私の姉が一人で受け取った金と同額であることを理由に、彼女の主張には合理性がないと言った。しかし姪は理由も告げず、私の家内には金をやる必要がないという言葉を繰り返した。私は腹が立ち、私の家内は我が家の長男の嫁であること、私の家内が受け取った金は私の姉のものでもなくましてや姉の長女のものでもなく父親の金であることを告げ、私の父親の孫である姉の長女が口出しすることではないと言った。それでも姉の長女は納得しなかった。姉の長女が尋常でない憎しみを私の家内に対して抱いていることを私は知った。おそらく彼女が私の家内に対して抱いている憎しみは、私の姉の影響であろうと思った。

私は、私の母親の実家から経済的援助を受けることなど想像したことすらない。母親の実家の遺産を母親が相続し、それを私がもらうといったことも考えたことすらない。姉の長女は、自分の母親の実家からの経済的援助を当然のことだと考えてきたようだ。その後の彼女の言動からは、自分の母親が相続する実家からの遺産を彼女が相続することまで想像していたのではないかと思わざるを得ない。情けない姪である。卑しい。

2018年6月13日水曜日

又従姉妹 1

2013年6月に父親が倒れて亡くなるまでの8ヶ月間は、精神的にも肉体的にもとても辛い時期であった。父親を追うようにして母親も入院した。ふたりの介護をするには、帰省したときにはどうしても平日に最低1日は高知に滞在しなければならなかった。週末には市役所も銀行も閉まっており、何の事務手続きもできなかった。したがって必然的に土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多くなった。

土曜日と日曜日には、実家を訪れ、天気がよければ家の窓を開け布団を干した。庭の草むしりも欠かさなかった。夏には汗まみれ泥まみれになった。しかし実家をきれいに保つことは両親に対する私の責務であると考えた。実家では、倉庫に山のように積み上げられていた農機具などの始末もせねばならなかった。自宅にあった重要書類も急いで整理する必要があった。家庭裁判所に父親の財産目録を一日も早く提出しなければならなかったからだ。

実家に母親が住んでいる時期には母親と雑談しながらそれらの作業を行うことができたので気が紛れた。しかし母親は父親の後を追うかのごとく1ヶ月半後に腰椎圧迫骨折のため入院した。母親が入院した後は、実家に帰っても会話を交わす人はいなかった。私は一人、黙々と実家の清掃と書類の整理を続けた。このような孤独な作業の最中に古いタンスの引き出しに仕舞われていた私と私の姉の小学校時代の通知簿を見つけたときには驚いた。通知簿は紫色の風呂敷の中に入れられていた。風呂敷を紐解くと、当時のままの通知簿が出てきた。
 
私はこれらの通知簿を破棄する気持ちにはなれず 、姉の通知簿を姉の夫(私の義兄)の勤務先に届けた。その日、義兄は出勤しておらず、義兄の同僚に通知簿を入れた包みを託した。その通知簿の入った包みを見て、姉が両親の愛情に気づいてくれることを願った。私自身の通知簿は東京に持ち帰った。

ただ、私が最も多く時間を取られたのは、田畑と山林の処分であった。両親が所有していた土地は50筆近くあった。それらの殆どの正確な場所も境界もわからなかった。場所も境界もわからなければ処分はできない。私は実家のご近所の人たちを頼って田畑や山林の場所と境界を教えてもらった。ただ、市役所でコピーした切り図と実際の区割りとが違っており、誰も正確な境界がわからない田畑も少なくなかった。田畑を荒らすと隣りの田畑を所有する農家に迷惑がかかる。そのため、東京では、時間を見つけてはインターネットで田畑を管理してくれる人を探した。しかしそのような人は見つからなかった。私は途方にくれた。

そんな私に手を差しのべてくれる人がいた。私の又従姉妹であった。彼女とは小学校から高校まで同じ学校に通った。彼女は、私が少しでも長い時間両親のそばにいられるようにと、高知空港のそばにある駐車場を貸してくれた。そればかりか、私が高知に帰る際には、予め車を空港の駐車場まで届けてくれた。そして私が東京に戻る際には車を空港の駐車場に乗り捨てて置くようにと言ってくれた。私は彼女の行為に甘えることにした。

彼女がこのような申し出をしてくれたのには理由があった。 彼女は自分の人生の進路を巡って父親と衝突することが多かったという。女性は大学進学も不要であると彼女の父親は彼女に行ったという。彼女は父親の反対を押し切って1年浪人した後、薬学部に入学した。今も薬剤師として働いている。また、彼女が離婚したときにも父親と大ゲンカしたらしい。彼女ははっきりとは言わなかったが、彼女の話からは、彼女の父親の存命中には何度か絶縁状態に陥ったこともあったのではないかと私は思った。

しかし彼女の父親が脳出血で倒れた後は、彼女は懸命に父親の介護をした。父親が入院したときには1日も欠かさず仕事を終えた後、病院を訪れたということであった。片道1時間を要した。彼女は、父親の側に行ってあげることが最大の親孝行だと考えたという。私の父親が倒れたとき、彼女が私のためにいろいろと便宜を図ってくれたのも、私が少しでも長い時間、父親の側にいてあげられるようにという配慮であった。嬉しかった。「棄てる」神あれば拾う神あり。

一方で、何の力もなくなった最晩年の両親を見捨てた姉を救う神はいるだろうか。

2018年6月12日火曜日

遺産相続 5

姉と姉の長女が私の母親と一方的に縁を切った理由は、私の母親が私の方に多目に遺産を残したいと言ったことが理由であったことはすでに書いた。姉の長女(つまり私の姪)から絶縁の理由を聞かされたとき、私は驚いた。私は遺産相続については母親ばかりでなく他の誰とも話したことがなかったからだ。しかし母親の考えは理解できた。

姉には4人の子がいるが、彼らは私の両親からの援助もあって既に全員が大学を卒業し社会人になっていた。4人の子のうち上のふたりは既に結婚して子もいた。その一方で、私の一人息子はまだ中学生であった。両親が亡くなれば、長男である私が実家の建物ばかりでなく田畑や山林の始末もしなくてはならない。田舎の田畑や山林は誰も欲しがらない。タダでも受け取らない。加えて我が家の墓も移す必要があった。両親が死んだ後、私は多額の金が必要になる。姉よりも私に遺産を多目に残すことによって両親の死後の整理を私に頼もうというのが母親の意図したことであろうと私は考えた。

私はその推測を姪に告げた。そうしたところ、姪はいきなり「外孫と内孫を差別することは許さん!」と怒り出した。私は呆れた。私の両親から姉の子たちはどれほど多額の援助を受けてきたのかを忘れたのであろうか。これに対して、当時はまだ中学生であった私の息子には何もしてやれないまま両親は死んでいく。どれほど父親も母親も気がかりだったことだろう。

私は姪に対して次のように言った。「お前ら4人はおじいちゃんとおばあちゃんのお蔭で大学も出て社会人になった。それに引き換え、私の息子は中学生だ。まだおじいちゃんとおばあちゃんには何もしてもらっていない。そのことだけでもおばあちゃんが私に多目に遺産を残したいと言ったとしても当たり前のことじゃないかえ。」

しかし、姪は、「外孫と内孫を差別することは許さん!」と繰り返すだけであった。怒りがこみ上げてきた私は続けて次のように言った。

「じゃあ、私の一人息子が百万円もらったらお前たちは四百万円もらわないと納得しないということかえ?」

この私の問いかけに姪は返事をしなかった。

最近、このときの姪との会話について家内と話した。外孫である姪たちがあれほどまで多額の援助を受けたのだから内孫である私の息子は更に多額の援助を私の両親から受けてきたに違いないと邪推していたのではないかというのが私の家内の考えであった。そうだったのかもしれない。

金に執着する者は哀れである。金の奴隷でしかない。

遺産相続 4

私は、母親よりも父親のことを思い出すことが多い。「思い出す」というよりも「考える」ことが多い。なぜだろうかと時々思う。おそらく、母親の最晩年があまりにも寂しいものであったため、母親が亡くなって3年近く経った今でも思い出すのが辛いからであろう。

父親は2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れて緊急入院した。母親は一人暮らしとなった。一人暮らし自体は母親にとっては寂しくはなかったようである。ご近所の方が母親と同居して母親をお世話してあげようかと言ってくれたことがあった。私は身体が不自由で歩くこともまままらない母親に一人暮らしさせることが心配で、そのご近所の方の申し出を母親に伝えた。しかし母親は頑としてその申し出を拒否した。母親は、「寂しくなんかない。今が人生で一番幸せだ」と言った。結婚以来、ずっと夫である私の父親に受けてきた圧迫からやっと解放されて幸せだということであった。

しかし母親は、程なくして娘(私の姉)と孫(姉の長女)から送られてきた絶縁状を読み、愕然としていた。母親は、私の姉と話そうと、繰り返し繰り返し電話した。何度電話しても電話は通じなかった。

母親が絶縁状を受け取る3週間ほど前の2013年7月1日に、私は私の姉と姉の長女から、母親と縁を切るということを告げられていた。しかし私は母親が酷くてそのことを母親に告げることができなかった。結局、このことは母親が死ぬまで話さなかった。

姉と姪が母親との縁切りを私に告げたとき、私はそのことをあまり重大には捉えていなかった。またすぐ仲直りするだろうという程度にしか考えていなかった。ただ、なぜ父親と縁を切るとは言わず母親と縁を切ると言ったのかは不思議だった。姉は父親を激しく憎悪していたが、それ以上に母親を憎んでいるとは知らなかった。

なぜ姉と姪が私の母親と縁を切ったのかは、2018年7月15日の番に私が姪と電話で話した際にわかった。いつことだったのかは聞かなかったが、私の母親が娘である私の姉よりも私に多目に遺産を残したいと言ったことが許せないと姪は言った。私は父親とも母親とも遺産相続について話したことは一度もなかった。ただ、姉は、両親の遺産を一日も早く相続したがっていた。そのため、私と電話で話す際には、必ず「祖父は早く死ね!」といった言葉を口にした。私の父親はちっとも金をくれないが、父親が死ねば遺産を手にすることができると姉は考えているようであった。私は「父親が生前に金を使わなければその分遺産が多くなるのだから、早く死ねなどと言う必要はない」と姉を諭したが、姉のくちぶりからはすぐにでも金が欲しいようであった。

父親は遺言状も残さずにほぼ意識がなくなった。父親には意志表示能力はない。後は母親だ。母親は私の姉よりも息子である私に遺産を多く残したいと言った。母親と縁を切り一切母親の介護はせず、母親を懲らしめなくては。ふたりはきっとそう考えたのであろう。

愚かであった。単なる欲のために親と縁を切ることが後にどれほど心の重荷となるのかを彼らは理解できなかったのだ。


2018年6月9日土曜日

人を動かすもの 1

人の行動を支配するのは嫉妬と憎しみであると主張する人がいる。この考えもあながち間違っていないと実姉との確執の過程で感じた。私の姉の行動を支配しているのは、まさに嫉妬と憎しみであるように思う。

ただ、嫉妬と憎悪に狂っている人が客観的に見て不幸かといえばそうではないことが多い。私の目には、姉も客観的には人並み以上に幸せな環境の中で生きてきたのではないかと映る。姉は長年病気を患っており、「床に伏していることが多い」と姉本人から聞かされたことがあるが、その病は自ら引き寄せたものである。

確かに、これまでの姉の人生の中で不幸な出来事がなかったわけではない。一番不幸だったのは、両親の不和である。父親は他人に対しては実に温和であった。父親が家族以外の者に対して声を荒だてたり暴力を振るったりといったことは一度もなかった。対照的に家族には厳しかった。母親や祖母にはすぐに暴力を振るった。このことは、これまでに何度も書いた。父親の暴力に耐えかねて、私は高校2年生のときに寮生活を始めた。姉も高校を卒業して2年足らずで結婚して家を出た。ただ、高校卒業と同時に東京に出てきた私と違って、姉は嫁いだ後も両親の喧嘩を身近で見聞きせざるをえなかった。父親に殴られて顔を大きく腫らし血を流している母親が姉の嫁ぎ先に逃げてきたこともあったという。    

私が留学中には、嫁ぎ先が経営していた会社が倒産し、姉の家族は家を失って借家住まいとなった。会社が倒産した後は、嫁ぎ先の親族や自分の夫との関係も壊れがちになったという。夫とは罵り合う毎日だったようだ。私の父親も家を失った姉に対して「乞食以下である」といった言葉も投げつけたという。まだ幼かった4人の子を抱え、姉は途方にくれる毎日を送っていたことであろう。

ただ、子は必ず育つ。最小限の食べ物と親の愛情がありさえすれば十分である。子は金を食べて育つわけではない。私の両親の援助もあって、姉の4人の子は全員国立大学に進学し無事卒業した。 

姉は口を開けば父親を罵った。「早く死ね!」といった言葉も度々口にした。しかし父親が姉を悪く言う言葉を私が聞いたことは一度もなかった。父親は常に姉と姉の家族のことを心配していた。

父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れた直後に姉と姉の長女は、私の家族との絶縁を一方的に告げてきた。姉と長女は私の母親と絶縁すると私に告げた。そしてその直後に父親と母親に対して絶縁状を送ってきた。私は直接絶縁を告げられたことはないが、実家のご近所の人に対して私とも縁を切ると告げたという。

父親は入院の8ヶ月後に亡くなった。父親が入院してから1ヶ月半後に腰椎の圧迫骨折のために入院した母親も、父親の死から1年5ヶ月後に亡くなった。この時期、私は度々帰省して両親の世話をした。土曜日の始発便で東京を発ち、月曜日の最終便で東京に戻った。いつもリッチモンドホテル高知に泊まった。このホテルの方すぐそばで日曜市が開かれる。日曜市で馴染みになった人たちと雑談を交わすのが唯一の気休めであった。高知での滞在中、姉にも姉の家族にも連絡したことは一度もなかった。

いま振り返ると、父親と母親の介護のために東京と高知とを行き来した2年あまりは私にとって貴重な体験であった。父親はほとんど意識がないように見えた。しかし少なくとも亡くなる3ヶ月前まで私がベッドサイドに来ていることに気がついていたようだ。父親が返事をすることはなかったが、私は改葬や田畑の処分状況について報告した。このときの父親との感情のやり取りはそれまで経験したことのないものであった。まもなく人生を終えようとしている父親を見つめながら、私は父親からの愛情を感じるとともに私も父親に対して心から感謝した。姉も、両親の最晩年の姿を身近で見ておくべきであった。おそらくそれまで抱いていた両親に対する憎しみも怒りも消え去り、長年の苦しみから解き放たれたであろう。親からの愛情に気づくことが姉にとって最良の薬となったはずである。

両親の最晩年の人生から目をそらした姉は立ち直る機会を自ら放棄した。放棄した最も大きな理由は、私と私の家内、特に私の家内に対する嫉妬と猜疑心であった。私と結婚後、波乱のない人生を送ってきた私の家内に対する激しい怒りであった。姉の長女と最後に話したとき、彼女の言葉の端々から姉と彼女の私の家内に対する憎しみが伝わってきた。父親が倒れたとき、父親の命が長くないと感じた姉と彼女は、私の家内に対する最後の復讐の機会だと感じたのであろう。私と私の家内に両親の介護の負担を担わせることによって復讐しようとした。大きな誤りであった。私の家内は、私の両親の介護を長男の嫁の当然の責務と考え、立派に責任を果たしてくれた。そして私と私の家内は、両親の最期を看取ったことに誇りを持つことができた。

これに対して姉が失ったものはあまりにも大きかった。





2018年6月8日金曜日

帰省

つい先ほど、高知龍馬空港に着いた。これから東京に戻る。2泊3日の旅であった。

こちらではいくつかの用事を済ませることができた。また何人かの知人、友人、親戚に会うこともできた。有意義な高知滞在であった。

今後は高知に帰る機会がめっきり減るだろうと思い、きょうは時折どしゃ降りになる中、午後、思い切って高知城を訪れた。ボランティアにガイドを頼んだ。ガイドを引き受けてくれた老人は須崎市生まれだということであった。私はガイドの説明を聞きながら時折、足を止め、写真を撮りながらゆっくりと石畳を登った。雨のため見晴らしは良くないだろうと思ったが、天守閣にも登った。もうこれが高知城を訪れる最後の機会かもしれないという思いに取り憑かれた私は、城下に広がる高知市の街並をじっと見つめた。

きょうは高知城を訪れる前に叔母の家も訪ねた。僅か1時間あまりであったが、これまで聞いたことがない、私の祖父母や両親の話を叔母から数多く聞かせてもらうことができた。最も驚かされたのは、母方の祖母のことであった。祖母は長男を亡くしていた。その若くして亡くなった長男の嫁から追い出されるような形で晩年は次男夫婦の家に身を寄せたという。ただ、祖母に会うときには、私はいつも病院を訪れた。したがって私は祖母が自分の家から出ていたことは全く知らなかった。当時、祖母がもらっていた年金は月に2万円だったということも、きょう叔母から聞かされた。祖母が受け取ったその年金は、祖母本人から頼まれて叔母が保管していたという。しかしそれを親戚はよく言わなかったらしい。祖母の年金を叔母夫妻が自由に使っていると思い込んでいた親戚もいたという。「お金のかからん扶養家族がおると税金が安うなってえいねえ」とイヤミを言う親戚もいたらしい。

まだ大学生だった私は、東京から帰省すると祖母に会うために祖母が入院している病院をよく訪れた。私が祖母に会いに行くと、祖母は帰り際に私を廊下にまで追いかけてきていつも私に1万円くれた。当時の祖母の年金が月に僅か2万円だったということをきょう叔母から聞かされて、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

祖母の遺体は死後、長男の家に戻された。そして長男の家の墓に埋葬された。叔母が保管していた祖母の僅かばかりの遺産は、長男の嫁が全額引き取ったという。






2018年6月6日水曜日

遺産相続 3

姉が高校3年生だった時のこと。秋であった。夕食の後、家族全員の前で突然、父親が次のように喋り始めた。静かで穏やかな口調であった。

「〇〇(姉の名前)、お前は大学に行きとうないかえ。幸伸は大学に行くことになると思うが。姉弟の間で差をつけたらいかんけ、訊いちょくけんど。行きたけりゃ行かしちゃるが、どうでえ。」

この父親からの問いかけに対して姉は「勉強は嫌いやけ、大学には行かん」と答えた。私が視線を姉の方に向けると、姉はうつむき、茶の間の畳をじっと見つめていた。

姉と3歳違いの私は、当時、中学3年生であった。大学進学などまだ全く考えたこともない時期であったので、父親と姉とのこのときの会話は今も鮮明に覚えている。

姉が大学に進学しなかったのは姉自身の選択であり、両親の強制によるものでも説得の結果でもなかった。姉は自ら就職を選んだのだ。

2013年に父親が出血性脳梗塞で倒れた後、私は父親と母親の介護のためにたびたび高知に帰省するようになった。姉が高校卒業後、大学には進学せず就職することに決まったあと、父親が姉の就職口を見つけるために奔走したことを私が実家のご近所の方から聞かされたのは、この時期のことであった。具体的にどのような活動を父親がしたのかも断片的ではあったが聞かせてもらった。

姉は地方銀行に就職した。目立って産業のない高知県では、銀行に勤められるというのは幸運なことである。少なくとも社会からは、一定の評価を受けられるであろう。

姉が銀行に就職するにあたってどれほど父親が奔走したのかを姉自身は今も知らないかもしれない。

はっきりと口に出していうことはなかったが、姉が銀行員になったことを父親は喜んでいるように私は感じていた。しかし姉本人からは、銀行に勤務し始めた姉から銀行員になった喜びを聞かされることはなかった。姉は口を開けば愚痴を言った。取るに足りないことばかりだったのでどんな愚痴だったのかはほとんど記憶していないが、特に窓口業務を嫌っていた。そして姉を銀行に就職させた父親を強くなじった。確かに、適正という面から考えれば、姉は銀行員向きではなかったかもしれない。姉は決して社交的ではなかった。人づきあいはうまくなかった。

幸か不幸か、姉の銀行員生活は長く続かなかった。姉は20歳で結婚退職した。当時、女性銀行員は結婚すれば退職せねばならなかった。皮肉なことに、姉が結婚した相手は、姉があれほどまで嫌った窓口業務をしている最中に姉を見初めた客の男性であった。

「あのときはイヤでイヤでしょうがなかったけんど、銀行に勤めてよかったと思う」と、後年、姉が私にポツリと言ったことがある。その前後の会話とは全く関係なく突然、姉はこう言ったのだ。姉がこのとき、なぜ突然このようなことを言ったのか今もわからない。いつのことであったのかも忘れてしまった。

2018年6月5日火曜日

遺産相続 2

姉との遺産分割協議の過程でもうひとつ腹が立つことがあった。

私は中学校、高校、大学と12年間、日本育英会の奨学資金をもらっていた。そして卒業後に約10年間かけて完済した。完済したのはドイツ留学の前であったから、おそらく35歳の頃には完済していたのではないかと思われる。当然、自分で払った。

ところが、遺産協議のなかで、姉は奨学金を両親に頼らず自分で還したことを証明しろと言ってきたのだ。

驚いた。自分が学生時代に受けた奨学金は、卒業後に自分が還すのが当たり前ではないか。親に頼って奨学金を返済することなど、私は考えたことすらなかった。

しかし怒ってばかりもいられない。私は日本育英会の事務局に電話をかけて私の記録が残っているかどうかを尋ねた。電話に出た事務員は、奨学金が完済されたならば、その5年後に記録を全て削除するので、私の記録は20年以上前に抹消されているはずだと答えた。

ただ、姉が私に問いただしているのは、奨学金を返済する金を出したのは両親ではなかったのかということであった。バカバカしいとは思ったが、一応、古い預金通帳を調べた。当然のことであろうが、奨学金返済を証明する記録は通帳にはなかった。当時、奨学金の返済方法は特殊であった。旅館の宿泊台帳のような細長い振込用紙が送られてきた。毎回の返済額も自分である程度決められるようになっていた。

奨学金の返済は年に2回であったように記憶している。かなりまとまった金額を毎回振り込んだ。まだ薄給であった私には堪えた。家内にも申し訳なく思った。

私にこのように詰問してくる姉は大学には進学しなかったが、高校は私学であった。しかし姉は高校在学中、奨学金を受けなかった。申請すらしなかった。

身勝手な姉である。



遺産相続 1

父親が亡くなって4年余りが経過した。しかし、まだ私の姉との遺産分割を巡ってこじれている。父親が倒れて入院した直後に私の両親や私の家族と一方的に縁を切り、父親が死ぬまで一切の連絡を絶った姉が、父親が死ぬと同時に代理人を立てて父親の遺産を請求してきた。一度は裁判所の調停案を姉が受け入れた。ところが私と姉の意思の最終確認をするために家庭裁判所が設けてくれた調停委員との面談の場でなんと姉はその調停案を拒否した。つまり土壇場で姉は関係者全ての努力をゴミ箱へ葬り去ったのだ。全てが振り出しに戻った。2度目の調停案のとりまとめには数ヶ月以上を要した。その調停案も姉は拒否した。そのため父親の遺産相続は家庭裁判所での審判に委ねられることになった。今年3月末にやっと家庭裁判所の審判が降りた。この審判は過去の2回の調停案とほぼ同じであったが、今回、姉は異議を申し立てず、異議申し立て期限が過ぎて自動的に家庭裁判所の審判が確定した。

調停委員と裁判官とを挟んで私の代理人(弁護士)と姉の代理人(弁護士)が話し合いを4年間にわたって続けてきたわけであるが、驚かされることが何度もあった。

一番驚かされたのは、父親の葬儀の晩から私が3泊した高知市内のホテルの宿泊代は経費として認めないと姉が主張したことである。私が宿泊したのは、1泊1万円程度のビジネスホテルであった。しかもその3〜4日の間に支払ったわずか数百円の駐車料金も経費として認めないと姉が言っていると私の代理人が私に伝えてきた。

私は心の中で泣いた。

葬儀が終わればその日に全てが終わるというものではないであろう。國弘家の嫡男である私は父親の人生を締めくくるために多くの雑務を済まさなくてはならない。父親の葬儀の後、私は何日間か高知に留まり、葬儀に参列してくださった方々の家にお礼に伺うとともに、市役所で年金などの手続きをすませた。またいくつかの金融機関を回って父親の口座を凍結する手続きを行なった。父親の生前、後見監督人を務めてくれた友人の司法書士に書類一式を渡すことも必要であった。父親の銀行の預金通帳や父親の実印などを抱えたまま、鍵のかからない実家にどうして一人で泊まることができようか。

父親の葬儀の後、まだ私が高知に滞在していたとき、父親が加入していた生命保険会社の担当者にも会った。父親が契約者となっていた生命保険が4つあったが、そのうちの一つの保険の被保険者が姉の長男(私の甥)になっていた。「その保険の掛金は甥御さんに差し上げたらどう?」とその担当者は言った。私は彼女の勧めに従って甥に掛金を譲ろうと思い、メッセージを送った。私はまず、甥に父親(彼の祖父)の死を伝えた。彼からは「残念です」というだけの短いメッセージが戻ってきた。私は続けて、甥が被保険者となっている保険があること、その掛金を甥に譲ろうと思っていることを伝えた。そして書類を送るので必要事項を記載して返送してくれるようにと依頼した。しかし私の送ったそのメッセージには返事が返ってこなかった。

私のこのメッセージに対して甥が返事を寄こさないだろうとは思っていた。予想通りであった。甥が返事を寄こさない事情を知っていた私は、甥が不憫に思えて仕方がなかった。

話を元に戻す。

姉は一枚一枚の駐車場の領収書について、 なぜそれらの駐車場に車を停める必要があったのかについても説明を求めてきた。

私が仕事を犠牲にして東京と高知とを往復しながら両親の介護をし、父親が亡くなったあとは葬儀を済ませ、死後の整理をしている間、姉は私からの一切の連絡を拒否し、葬儀にも参列しなかった。この姉がこんなことまで私に説明を要求してくるなど、こんなにも馬鹿げたことがあろうか。

姉は狂っている。感情のある人間ではない。私は姉を呪った。遺産分割協議の途中でこのときほど激しく腹が立ったことはなかった。


2018年6月3日日曜日

軽井沢

今朝、東京を発って軽井沢に出かけてきた。軽井沢に来るのは1ヶ月ぶりである。自動車学校に行かなくてはならないからと、今回も息子は来なかった。

佐久にある「SOCCA」というカジュアルなフレンチレストランで昼食をとり、御代田の「ここらで」にやってきた。いつもお決まりのコースである。きょうは快晴。浅間山が山頂までよく見える。前回、軽井沢に来たときには浅間山の裾野まで山肌が見えていたが、きょうは7合目あたりまで新緑に被われている。日向に出ると頭が焼けるように熱い。いよいよ軽井沢にも本格的な夏到来である。