私も姉もともに私立の高校で学んだ。姉は中学校は地元の公立高校に通ったのに対して私は中学校から私立であったが。
私は、姉がどういういきさつでその私立高校に入ったのかを全く知らなかった。姉がその高校を受験する際に姉の受験のことが家族のなかで話題にのぼることはなかった。私は姉がいつ入学試験を受けたのか、いつ合格通知をもらったのかも知らなかった。姉がその入学試験に合格したときに家族でお祝いをすることもなかった。当時、私はまだ小学6年生であった。まだ幼い私の前で姉の受験の話を持ち出すことを両親は避けたのであろうか。
父親が生前、懇意にしていた老婦人から、つい最近、こんな話を聞いた。私と姉とは3歳違い。姉の高校の受験の時期は私の中学校受験の時期と重なった。私は私立中学校を受験するつもりであった。「弟を私立中学校に通わせるならば、姉弟間に差をつけないよう、姉も私学に通わせてあげなくてはいけない。」老婦人によると、父親はこう考えて姉を私立高校に進学させたという。
姉が入学した私立高校は決して進学校ではなかった。しかし父親は、私の姉の頭は決して悪くないとずっと言っていた。姉は単に野暮なだけだと父親は言った。「野暮」とは、土佐弁で「引っ込み思案で人前に出ることを嫌がる」という意味である。実家の隣には姉より1歳年下の女の子がいた。彼女は何事にも積極的で目立った。利発そうに見えた。父親は、彼女は「りこそうに(賢そうに)見えるが」、頭の出来は彼女よりも姉の方がいいと私と私の母親に言った。
事実、姉の4人の子は、いずれも学力優秀であった。そして全員が国立大学に進学した。長男は東京大学に合格した。他の3人(いずれも女)も、姉の家が裕福でありさえすれば旧帝国大学に進学できるだけの能力を有していたが、経済的な理由で地元の国立大学に進学した。「4人の子を国立大学に入学させた親は高知県のなかにそんなに数多くいるはずがない。」そう言って私の父親は姉を賞賛した。4人が大学に入学し卒業するまでには、私の両親が多額の経済援助をした。そうだとしても、姉の家族が贅沢な生活ができるようになったわけではなかった。姉も努力したに違いない。父親は姉の陰の努力を褒めた。
しかし、姉は、昔から、他人の好意を喜び感謝するアンテナが殊の外低い。口を開けば、父親を口汚く罵った。「ジジイは早う死ね」という言葉も度々口にした。両親の最晩年は、私と姉に対する両親の愛情を肌で感じる貴重な期間であったと思う。東京と高知とを往復しながら帰省のたびに弱っていく両親を介護するのは辛かったが、私にとっては得ることが多かった。この貴重な機会を、姉は自ら放棄した。