2016年12月29日木曜日

墓参

12月23日から4日間、高知に帰省した。帰省中、母親の実家の墓参りに行った。従兄が道案内してくれた。

私がその墓を最後に訪れたのは昭和35年に叔父が亡くなったときであった。当時、私は3歳であった。私の伯母(父親の姉)は30歳の若さで未亡人となった。伯母夫妻には2人の男の子がいた。まだ小学生であった。彼らも幼なくして父親を亡くした。叔父(その子たちの父親)を荼毘に付すとき、下の子は伯父が納められた棺にすがりついて泣きじゃくったという話を、後年、私の父親から聞かされた。

伯母は実家である私の家には戻らず嫁ぎ先に留まり、女手ひとつで2人の男の子を育てた。義父母の介護もひとりで行なった。生活は苦しかっただろうと思う。しかし、伯母が悲しそうな表情を私に見せたことはなかった。不満を口にしたこともなかった。私の顔を見ると伯母はいつも笑顔を見せた。満面に笑みを浮かべて私を抱きしめてくれたこともあった。そして少額ではあったが、時々、小遣いをくれた。

今も鮮明に憶えているのは、私が小学校低学年だった頃のことである。天気のいい日であった。私は縁側で昼寝をしていた。そのとき、実家である私の家に帰ってきた伯母がにこにこ笑いながら私に近づき、「幸伸に小遣いをやろう(土佐弁:あげよう)」と言って50円玉をひとつ私に手渡してくれた。当時の50円玉は今の500円玉ほどの大きさがあった。そして今の5円玉や50円玉のように真ん中に穴が開いていた。

私の父親は、若くして未亡人となった伯母の不運を、自分のことのように悲しんでいた。伯母の2人の子にも同情していた。

その伯母が亡くなったことを私に知らせてきたのは一昨年亡くなった父親であった。「伯母ちゃんはよう良うならんかった(土佐弁:伯母ちゃんの病状は結局回復しなかった)」というのが父親の第一声であった。伯母が何日前に亡くなったのかも告げぬまま父親は電話を切った。そのときの寂しそうな父親の声は今も鮮明に憶えている。しかし伯母がいつ亡くなったのかは記憶が定かでなかった。今回の墓参りの際に伯母の墓石を見て、伯母が亡くなったのは平成2年であったことを知った。

伯母の命日を知った瞬間、ひとつの思い出が頭に蘇ってきた。

伯母が亡くなる前年(昭和64年・平成元年)に、私は伯母が入院している病院を家内といっしょに訪れたことがあった。私が結婚した翌年であった。伯母に家内を紹介することが目的であった。私は結婚披露宴を東京と高知で聞いたが、病気のため、おそらく伯母はどちらの披露宴にも出席していなかったのであろう。

私と家内が伯母を見舞ったとき、伯母は血液検査の結果が思わしくないことを話した。卵巣癌の再発を強く疑わせるデータであった。しかしそのことを語るときにも伯母は笑みを絶やさなかった。私たちが伯母の病室にいる間、伯母はずっとベッドの上で座って話した。

これが伯母と話す最後となった。

先日、伯母の墓の前に立ったとき、その墓石を見つめながら私は伯母との思い出に浸った。伯母は私の心の中に今も生きている。伯母を一言で表現すれば、非常に情のある女性であった。どんなときにも愚痴を言わなかったのは、伯母の父親(私の父方の祖父)譲りであった。

伯母の人生を振り返り、人生の価値はその人の生前の地位とも富とも関係がないと、改めて思った。




2016年12月23日金曜日

帰省

羽田空港に着いた。これから高知に帰省する。今年3度目の帰省である。昨年8月に母親が亡くなって以来、高知からはすっかり足が遠のいてしまった。

今朝、自宅を出たときにはまだ薄暗かった。玄関のドアを開け周りの暗い景色を見た瞬間、辛かった数年間の思い出が蘇ってきた。

父親が1993年6月下旬に2度目の脳梗塞の発作で倒れた。その1か月半後の8月中旬に母親が脊椎の圧迫骨折で緊急入院した。東京と高知とを往復しながら2人を介護せねばならなくなった。

我が家では全ての財布を父親が握っていた。母親の年金が振り込まれる口座の通帳までも父親が管理していた。母親は自分名義の預金がどれほどあるかすら知らなかった。父親の預金口座のことなど母親が知る由もなかった。母親は身体は動かせなかったが会話はできた。しかし肝心の父親からは何も聞き出すことができなかった。

私は途方に暮れた。両親ともいつまで生きるのかわからない。ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない。どうやって介護しようか。

両親を預かってくれる東京の施設を探すべく家内は手を尽くしてくれた。しかし、施設が見つかる前に父親の病状がどんどん悪化していった。東京に連れてくることは無理と判断した。それでも、私は、施設が見つかり次第、なんとかして両親を東京に連れてこようと思っていた。しかし、母親は、東京に住むことを頑として拒んだ。東京に行くようにと親戚が繰り返し母親を説得してくれたが、無駄であった。元気な頃から母親は、「高知で一生を終える。東京には絶対出ていかない」と私に何度も告げていた。父親ひとりが残っても、父親も東京には住まないだろうと、同様に母親から聞かされていた。理由は言わなかった。私にはふたつしか理由が思い浮かばなかった。生まれ故郷への愛着と私たち夫婦への遠慮であった。

ふたりが揃って入院することになった年の秋、私たちは両親を東京に連れてくることを断念した。高知で片づけなければならない雑務があまりにも多すぎたのだ。父親が所有していた山林や田畑の処分と墓地の移設(改葬)であった。予想どおり、これらに実に多くの時間と労力を取られることになった。それらを父親が生きているうちに片づけなければならなかった。帰省しても、両親が入院している病院に長時間いる余裕はなかった。父親の病状は帰省のたびに悪化した。時間との競走であった。私はどんどん精神的に追いつめられていった。

土曜日の早朝に自宅を出て始発便に乗り、月曜日の最終便で東京に戻る生活が父親が亡くなるまで続いた。平日に仕事を休まなければ、高知で何の手続きもできなかった。仕事に大きな皺寄せが来た。私は自分の仕事を犠牲にせざるをえないと心を据えた。学会出席も控えた。

嬉しかったことは、幼ななじみでもあるひとりの再従姉妹が自分の家の駐車場に父親の車を置かせてくれたことだ。私が帰省するときには毎回その車を高知空港まで届けてくれた。東京に戻るときにはその車を高知空港に乗り捨てておけばよかった。彼女が車を自宅まで運んでくれた。私は彼女に心から感謝した。

私の家内や親戚が奔走してくれたこともあり、幸運にも父親が亡くなった直後に新しい墓地が完成した。父親の四十九日の納骨にぎりぎり間に合った。父親の遺骨を代々の先祖の遺骨と一緒にできあがったばかりの墓に埋葬できた。

しかし、不動産が十数筆残った。 父親の訃報が届いたとき、私の頭にまず浮かんだのは売れ残った不動産のことであった。この残った不動産が私の姉との争いの種になるだろうとずっと不安に思っていた私は暗澹たる思いに襲われた。私の不安は的中した。




2016年12月19日月曜日

喪中の知らせ

今年も喪中の葉書が十数通届いた。そのうちの2通は大学時代の同級生からのものであった。奥様が亡くなったという。

2人の奥様とは会ったことがあった。彼らが結婚する前のことである。

ひとりのクラスメートは見合い結婚であった。婚約中、私たちの飲み会に奥様(当時はまだ婚約者)を何度か連れてきた。彼は元々、賑やかであったが、酔うとますます陽気になった。そして奥様の目も気にせずに職場の女性たちとチークダンスを踊った。奥様は終始無言で、踊っている彼をじっと見つめていた。私には、奥様が彼を睨みつけているように見えた。そのときの奥様の険しい表情が今も忘れられない。

その奥様が重病で入院していると聞かされたのは2年近く前であった。彼のお父様から聞かされた。見舞いに行きたかった。しかし彼は奥様の病気を家族以外には伏せておきたいと思っているということであった。

奥様の訃報が届いたのは1年ほど前であった。

2か月ほど前に彼に会ったとき、彼はすっかり元気になっていた。しかし奥様が亡くなった直後には、体重が10キロ減っていたということを、その後、他の同級生から聞いた。

もうひとりのクラスメートの奥様は、彼が大学生のとき、ダンスパーティで知り合った女性であった。彼女の実家は埼玉県。そこから文京区の女子大学に通っていた。

彼はよく彼女の自宅を訪れたという。彼らしいのは、彼は玄関からではなく、トイをよじのぼって彼女の部屋にこっそり忍び込んでいたということである。

私は結婚と同時に武蔵境から西荻窪に転居したが、彼らはちょうどその頃、吉祥寺に住んでいた。学生結婚した彼らには、すでに一人の男の子がいた。一度だけであるが、私の妻といっしょに彼らの家を訪ねたことがあった。そのとき、彼の奥様はずっと自分の息子の自慢話を私と私の家内にし続けた。いかに自分の息子がお利口な子であるかを事細かく語った。

私たちにはまだ子がなかった。しかし、来客に対して自分の息子の自慢話しかしない彼の奥様はきっと女性として「正常」であり、母としてもきっと幸せなんだろうと思いつつ私は帰宅した。30年近く昔のことである。

その奥様も亡くなった。

人生は短い。


2016年9月14日水曜日

久禮八幡宮

高知県高岡郡中土佐町にある久礼八幡宮(くれはちまんぐう)は海の守護神として古来より漁業関係者に崇敬されている。この神社の秋季例大祭である久礼八幡宮大祭は、土佐の三大祭りの一つとなっており、県内外から多くの観光客が訪れる。

祖父母の存命中、私は祖父母に連れられて、毎年この祭りに出かけた。久礼には伯父(祖父母の次男)一家が住んでいた。祖父母にとっては息子家族と会うのも目的であったと思う。

私の楽しみはいか焼を食べることであった。その祭りにはイカ焼の店が必ず出ていた。炭火で焼いたばかりの、タレが滴り落ちるイカの美味しさは格別であった。私はマグロのトロよりもイカの刺身や握りが好きであるが、当時から既に「イカ好き」であったのであろう。

 
祭りが開かれる2日間、八幡宮の境内には所狭しと数多くの店が並んだ。当然、おもちゃの店もあった。おもちゃ屋の前で力(かたな)を見つけた私は、無性にその刀が欲しくなり、買ってくれと祖父母にねだったことがあった。値段は300円であった。今の物価に換算するといくらになるであろうか。当時の私の小遣いは1日5円~10円であった。

いずれにしろ、我が家の生活レベルから考えると、法外に高かったに違いない。祖父母は直ぐには私の希望を聞き入れてくれなかった。翌日も私は刀を買ってくれとその店の前で強くせがんだ。そしてやっとのことで私の希望を聞き入れてもらった。その刀は何年間か私の宝物になった。

 
このときのことは祖父の頭の中に長く残ったようであった。「あの刀は高かった」と後々まで祖父は感慨深げに私に語った。

私が小学校2年生のときに祖母が亡くなった。以来、その祭りに行くことはめっきり減った。

 
当時、伯父の家は堤防の直ぐ内側にあった。今もその堤防は残っているが、数十メートル沖に新たに堤防が築かれ、辺りの気色はすっかり変わった。伯父の家も最近、空き家となった。

数年前に父親が倒れて以来帰省することが多くなった私は、久礼の町を度々訪れるようになった。しかし何度久礼の町に来ても、頭に思い浮ぶのは祖父母も叔父も両親も元気だった頃の思い出ばかりである。

2016年9月13日火曜日

祖母

私の父方の祖母は私が小学校2年生のときに亡くなった。祖母が生きていた頃、私の実家は古い藁葺きの家屋であった。柱はどれも虫に食われており真四角の柱は1本もなかった。高知は毎年必ず台風に襲われるが、台風が来るたびに家はギーギーと音を立ててきしんだ。家が揺れると、祖母は両腕を天井方向に伸ばして「ホーッホーッ」と大きな声で叫んだ。家が倒れないようにというおまじないか祈りであろうと私は思った。何故か解らぬが、どんなに激しく家が揺れても、祖母は家の外に避難しようとはしなかった。当時の自宅の家屋には蛇もよく入ってきた。睡眠中に百足に噛まれたことも何度かあった。当然、冬はすきま風のために身体は凍えた。

私が幼い頃、祖母と父親との間には喧嘩が絶えなかった。祖母も父親も気性が荒かったので烈しい口論になることが珍しくなかった。感情が高まると、父親は暴力を振るうことがあった。そんなとき、祖父母は父親の暴力から逃れて離れで寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。畳3畳ほどの広さの、文字どおりの「小屋」であった。祖父母がこの小屋で寝るときには、私も必ず祖父母に挟まれて眠った。

祖母と父親とが何を巡ってあれほど激しく言い争うのか、まだ幼なかった当時の私には全くわからなかった。

二人の喧嘩の原因を知ったのは、数年前に父親が初回の発作で倒れた直後のことであった。父親と私が車で移動中、突然、父親がその話を始めた。喧嘩の原因は、どうやって我が家の収入を増ゃすかということについての考え方の違いであったという。祖母は「芋をつくれ」と言ったらしい。しかし父親は、芋づくりでは貧乏暮らしから脱することはできないと考えた。

父親はこんなことも話した。父親が洗濯機を購入した。母親が家事に取られる時間を減らし、もっと仕事ができるようにと考えてのことであった。しかし、当時、洗濯機がある家はまだ多くなかった。祖母は「無駄遣いだ」と父親に怒った。

要は、祖母も父親も貧乏暮らしから這い上がろうと必死だったのだ。

祖母が近所の農作業の手伝い出て仕事中に倒れたのは12月中旬の寒い日であった。その日の朝、祖母が家を出るとき、父親は「家を新築する」と祖母に告げていた。祖母はその言葉を聞いて喜び勇んで出かけていったという。「お婆に家を建てると話ちょいてよかった」と祖母の死後、父親は繰り返し話した。喧嘩が絶えなかった祖母ではあったが、父親はその言葉で祖母を喪った悲しみを癒そうとしていたのであろう。祖母と喧嘩が絶えなかったことを後悔していたのかもしれない。

祖母は意識が戻らぬまま2週間後に亡くなった。大晦日であった。祖母が心待ちにしていた新しい家はその翌年の8月に落成した。



2016年9月6日火曜日

白駒池 2016年8月21日

 長野県には数多くの湖がある。白駒池は私が最も好きな湖のひとつである。8月21日の昼すぎに軽井沢を発って家内と2人で白駒池に向かった。息子は夏期講習を受講するために、その日の朝、新幹線で東京に戻っていた。息子が高校生になるまでは3人で長野県内を隈なく回ったが、最近は軽井沢に家族で出かけてきても、息子とは別行動をとることが増えた。白駒池に向かう道すがら車の中から見る景色は、息子と一緒にドライブしたときの昔の思い出を蘇らせた。家族揃って旅行できるときは長くは続かない。そう思って時間をつくっては家族とあちこちに出かけた。そうしておいてほんとうによかったと感じる。

    

2016年9月5日月曜日

林 耕史 展 2016年9月4日(日曜日)

きょう、昼すぎに軽井沢を発って群馬県の中之条町に出かけた。花の駅「花楽の里で開かれている林耕史展を観るためである。

林先生は現在、群馬大学教育学部の教授であるが、私の息子が1年生から3年生になるまでの3年間、筑波大学附属小学校でクラス担任を務めてくれた。息子が4年生になったとき、助教授として群馬大学に赴任した。

群馬大学に赴任した後も、展覧会を開くときには、林先生は案内状を息子に送ってきてくれていた。そのため、私も東京で個展が開かれる際には、何度か会場に足を運んだことがあった。

きょう、軽井沢から会場までは、車で1時間あまりかかった。私と私の家内と息子の3人が会場に着いたときには、既に林先生自身による作品の説明が始まっていた。来場者のほとんどが20歳代の若い女性であった。皆、熱心に林先生の説明に聴きいっていた。ほとんどが林先生の教え子だろうと私は思ったが、後で確認すると、林先生の教え子は2人だけであった。

長年、林先生の作品のテーマは「漂泊」であった。舟の彫刻が多かった。しかしきょう展示されていた作品のテーマは、月と山であった。

林先生は、何故、月と山に関心を抱くようになったのかを来場者に説明した。そして、今回の展覧会のタイトルを「月が眠る山」とした理由についても述べた。来場者からの質問が多かったこともあり、林先生の話は40分以上に及んだ。

作品についての林先生の説明が終わったあと、私と家内は林先生に挨拶をした。林先生は作品の説明中に私が来場していることに気づいていたという。そして私の家内にも気づいていた。しかし、教え子である私の息子には気づいていなかった。

私の息子が林先生に近づいて挨拶をすると、林先生は「オーッ」と大声をあげた。無理もない。息子が林先生にお世話になったのはまだ8~9歳のときであった。林先生は決して小柄ではないが、私の息子は林先生よりも背が高くなっている。林先生は息子に「握手をしよう」と声をかけ、2人は握手を交わした。私たちは林先生としばらく歓談した。そして別れ際に息子と並んで写真を撮らせていただいた。

 


林先生は息子が高校3年生であることを知っていた。そして受験勉強は大変だろうと心配してくれたが、「どんな知らせでも先生は嬉しい」と言った。「どんな知らせでも先生は嬉しい」というのは、一流の大学に入らなくとも知らせをもらえればそれだけで嬉しいという意味と私は解釈した。本心であろう。師とはありがたい存在だと思った。

軽井沢には、往きと思じルートで戻った。運転しながら、久しぶりに心が晴れ晴れとしてているのを感じた。

(敬称と敬語表現は省かせていただきました。)

2016年9月2日金曜日

介護 土佐市民病院

私の父親が2度目の出血性脳梗塞の発作に襲われたのは、2013年6月の最後の金曜日のことであった。その日の午後5時過ぎ、私が新宿西口のヨドバシカメラでの買い物を終えてJR新宿駅に向かっていたとき、姉から電話がかかってきた。姉は、興奮した声で、父親が2度目の発作で土佐市民病院脳神経外科に入院したこと告げた。そして、2日後には意識がなくなるのでそれまでに親族に会わせておくようにと主治医から指示されたと言った。

しかし、直接、空港に向かうことはできなかった。一旦は帰宅しなければならない。私は自宅にいる家内に電話をかけて父親が倒れたことを告げ、荷づくりをしておいてくれるように頼んだ。喪服も用意してくれるようにと言った。

当然、その日の飛行機の最終便には間に合わなかった。しかし、幸い、翌日の始発便の予約がとれた。

私は、父親の病気の治療は主治医に任せる以外にないと腹をくくった。ただ、命は助かっても闘病生活は長期になるだろう。治療費をどう捻出するか。また、自家で寝たきりの母親をどう介護するか。一人で途方に暮れた。

午後8時過ぎになって私は高知に住んでいる一人の友人に電話をかけた。彼は司法書士であった。2011年6月に父親が初回の脳梗塞発作で倒れたとき、私は彼に仲介してもらって父親との間に任意後見人契約を結んでいた。

彼は、主治医に診断書を書いてもらうようにと私に指示した。そして、診断書の見本をファックスで送ってくれた。

彼からのファックスが届くと、私は直ちに土佐市民病院に電話し、病院のファックス番号を尋ねた。

続く

2016年8月20日土曜日

母親の命日

8月7日は母親の命日であった。母親が亡くなってちょうど1年経った。きょうの午後、家内と息子を連れ、墓参りに行ってきた。一周忌の法要は行わなかった。3人で墓掃除をし、花を供え、墓前で祈っただけであった。

私は無神論者ではない。大した根拠はないが、死後の世界は存在すると信じている。ただ、私の母親とは全く面識もない僧侶のお経によって母親の魂が救われると私には思えないのだ。私と私の家内と私の息子の祈りによってのみ母親の魂は清められると私は思っている。

私は、父親が亡くなる直前に先祖代々の墓を東京に移した。わが家の代々の墓は、実家の裏山にあった。50年前に亡くなった祖母も30年前に亡くなった祖父も土葬であった。改葬にあたって江戸時代からの墓をひとつひとつ掘り起こしたが、遺骨が残っていたのは祖父と祖母の遺骨だけであった。他の先祖は、遺骨代わり墓石の下の土だけを丸めて東京に運んだ。

母親の生前、我が家の墓地を東京に移したいことを母親に話すと、母親は喜んでくれた。母親は生前は頑として東京に住むことに応じなかったが、自分の死後は息子たちの傍にいたいと願っていたのであろうと思う。父親も母親も懸命に生きた。あっぱれであったと讃えようと思う。



御巣鷹山 3度目の登山

一昨日、家内と一緒に御巣鷹山に登った。軽井沢から御巣鷹山の中腹にある駐車場までは車で2時間弱。途中で土砂降りになったが、駐車場についたときには幸い、小降りになった。御巣鷹山に登るのは3度目であった。



駐車場で車から降りたときには肌寒いと感じたが、事故現場に建てられている鎮魂の碑に辿り着いたときには汗びっしょりになっていた。天候が悪かったためか、今年は、途中ですれ違う登山客は少なかった。

飛行機が衝突した岩には大きくバツ「X」の文字が書かれている。そのすぐ側に機長、副操縦士、そして機関士の小さな石塔が並んで建てられている。事故後、彼らの家族は「加害者」として乗客たちの遺族から責められたという。しかし彼らもその家族もまた事故の被害者であった。



家内と私は3つの石塔の前で手を合せた。機長の娘さんは後に客室乗務員に、そして副操縦士と機関士の息子さんはパイロットになったという。


事故当時、家内も日本航空に勤めていた。この事故で、家内の知人や同僚も何人か亡くなった。事故のあったこの山を護り続けている黒沢完一氏に案内されながら、それらの犠牲者の発見現場も見て廻った。遺族が全く訪れないと黒沢氏が語った家内の同僚の発見現場には、名前が書かれただけの粗末な木塔がぽつねんと建てられていた。

御巣鷹山に来ると、私は死とは何かといつも考えさせられる。私の両親が亡くなったあと、殊更、死の意味について考えるようになった。この事故により事故の犠牲者の家族の人生は大きく狂ったに違いない。悲しみは今も癒えてはいまい。しかし彼らもやがては死ぬ。そして、事故の犠牲者がこの世に生きた証も消えてしまう。事故の記憶は誰からも失われ、単なる事故の「記録」だけが残る。

家内と私が山を下っている途中で黒沢さんが私たちに追いついた。雨天のためか、木の生い茂る山の中は既に随分暗くなっていた。「きょうはもう誰も来ないと思うから私も帰宅することにした」と黒沢さんは言った。私たちは駐車場まで一緒に下った。そして駐車場で別れた。



つい3年ほど前まで、家内と私の間で日航機墜落事故のことが話題に昇ることはなかった。家内も私も、長い間、無意識にこの話題を避けていたのだと思う。

行き帰りの車の中で、家内は亡くなった知人や同僚の思い出話を語った。事故から31年経った今も、家内の頭の中には彼らの思い出が新鮮なまま残っていた。「死んだらお終いよ。」家内がぽつりと放ったこの言葉は家内のどのような気持ちを表しているのであろうかと思いながら、私は車を運転し、軽井沢に戻ってきた。

軽井沢に一人で残っていた息子は、私たちの帰りが遅いので心配になったらしい。私たちが軽井沢町に入ったちょうどそのときに、「今、どこにいるの。警察に捜索願を出すよ」というLINEのメッセージが家内の携帯電話に届いた。

2016年8月13日土曜日

母親の一周忌

母親が亡くなったのは昨年の8月7日。その日のことは今も鮮明に憶えている。

金曜日であった。午前中の外来診療中に主治医からメールが届いた。母親の病状が思わしくないとのことであった。外来診療が終わると直ぐに私は主治医に電話した。場合によっては2~3日の命になるかもしれないと告げられた。

しかし私は、その日の午後、手術があった。すぐに帰省することはできなかった。実家のご近所の人や従兄弟に電話し病院に駆けつけてくれるように頼んで手術室に入った。夕方、手術を終えて携帯電話を確認すると、従兄から何通かのメッセージが届いていた。ご近所の人からのメッセージもあった。刻一刻と悪化してゆく母親の病状を告げる内容であった。

私は大急ぎで着替え、自分の部屋に戻りその従兄に電話をかけた。既に母親は亡くなっていた。ご近所の多くの人たちが母親の最期を看取ってくれたということであった。

その日はもう飛行機便はなかった。翌日の午後の飛行機のチケットがやっととれた。高知空港の近くに住んでいる再従妹が私の父親の車を空港まで運んでくれた。その車を運転して家内と一緒に葬儀場に急いだ。いつもは空いているルートを選んだ。ところが途中から大渋滞となった。花火大会とぶつかったのだ。

葬儀場に着いたときには既に暗くなっていた。2人の従兄弟とご近所の人たちが私たちを迎えてくれた。母親の遺体が横たえられていた部屋は、1年5か月前に亡くなっていた父親が安置されていた部屋と同じであった。驚いたことに2年間連絡の途絶えていた姉が葬儀場に来ていた。

私は既に冷たくなった母親の遺体の傍で泣きくずれた。母親の死に対する悲しみはさほどなかった。自分の娘(私の姉)の顔を見ることなく死んでいった母親の無念さを思い、悲しくて仕方なくなったのだ。

私の姉は母親が亡くなる2年前、つまり父親が2度目の脳梗塞発作で倒れた直後に、両親に対して絶縁状を送りつけてきた。そして私とも一方的に縁を切った。理由は全くわからなかった。2年余りの間、私は東京と高知とを往復しながら一人で懸命に両親の介護を続けた。孤独であった。



2016年7月5日火曜日

盛岡にて

7月1日の夜から昨日(7月3日)の夜まで二泊三日で盛岡に行っていた。第36回日本口腔インプラント学会東北・北海道支部大会に出席するためである。

残念ながら、学会での演題の中に耳を傾ける価値のあるものはなかった。しかし多くの歯科医師の方々と知りあうことができたのは収穫であった。特に、奈良で歯科クリニックを営んでいる堀内啓敬氏とじっくり話ができ、今回の盛岡行きの目的はほぼ達成された。会津で開業されている渡部好造先生にもずいぶんとお世話になった。

観光もできた。一度は行ってみたいとずっと思っていた中尊寺にも足を伸ばすことができた。昨日はレンタカーを走らせて浄土ヶ浜にも行けた。

ただ、耳鼻咽喉科医と歯科医との垣根は高い。より質の高いインプラント治療を患者に提供するために耳鼻咽喉科医と歯科医とが手を携えることができるときが果たして来るであろうか。今回の旅行を終えて、この点に関してはきわめて悲観的な思いを抱くようになった。

2016年7月3日日曜日

訃報 2

彼から返事が来た。通夜は家族だけで営むという。もらった返事には、数年前、彼が私に紹介してきた患者のの手術を見学に来た晩、自宅でその手術ビデオを亡くなったお父様と一緒に観ながら楽しく語り合った思い出も書かれていた。彼のお父様も歯科医師であった。

親が亡くなると、あのときああしておけばよかった、こうしておけばよかったといった後悔ばかり思い出されることが多い。私の手術を見学したことが彼のお父様との懐かしい思い出として彼の記憶の中に残ることは、この上なく嬉しい。

2016年7月2日土曜日

訃報

昨夜、新幹線で盛岡にやってきた。きょうから盛岡で開かれる学会に出席するためである。昨夜遅くホテルにチェックインしたあとメールを確認すると,友人から訃報が届いていた。彼のお父様が亡くなったという。淡々と事実だけを伝える内容であった。

彼は早くお母様を亡くした。歯科医師であったお父様も脳梗塞で身体が不自由になった。彼が今の奥様と結婚した理由は、彼女が自分の父親と同居すると言ってくれたからであると,彼の口から直接聞いたことがある。彼には一人の妹さんがいるが、この妹さんも若くして脳出血で倒れ、ほとんど意識もない状態で病院に入院しているということである。

しかし彼は、暗い表情を見せたことはない。いつも前向きである。彼はお父様と同じ歯科医師であるが、手術がうまくなりたいというのが彼の口癖である。彼は勉強にお金を費やすことを厭わない。つい先日も奥様と一人のお子様を連れてニューヨークに勉強に行っていた。つい3日ほど前に帰国したばかりである。彼が帰国した直後にお父様が亡くなった。

彼にもし悔いがあるとすれば、わずか1週間程ではあるが、お父様が亡くなる直前にお父様の傍から離れたことであろう。

彼の妹さんにはほとんど意識がない今、彼のお父様の死を心から悲しむ人は彼しかいない。彼の奥様も悲しみはするであろうが、彼の悲しみほどではないであろう。まだ幼い彼のお子様は「おじいちゃんが亡くなった」ということの意味すら理解できないかもしれない。

そうではあっても親戚や友人が彼の悲しみを分かち合ってくれれば、いくばくかでも彼の悲しみは和らげられる。彼のお父様の葬儀に関する連絡はまだない。私が帰宅するのは明日の夜遅くになるが、なんとか時間の都合をつけて葬儀に参列したい。

私は、彼がいまどれほど自分の父親の死を悲しんでいるのかを想像できる。私自身が両親を亡くしたからである。私は両親を亡くしたあと、ずいぶんと人に対して優しくなったと思う。彼も両親を亡くした。彼が悲しみから立ち直ったとき。彼の心境にも何らかの変化が生じているにちがいない。

2016年6月24日金曜日

知覧 いのちの物語

さきほど鹿児島から帰ってきた。鹿児島空港で「知覧 いのちの物語」という本を買った。飛行機のなかで一気に読み終えた。本書は「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメ氏の生涯を描いた書である。涙なしには読めない。私の期待する日本人女性の理想像がここにあった。


2016年6月23日木曜日

2度目の知覧

昨日から鹿児島に来ている。きょうの午後、名古屋市立大学医学部の村上信五教授ご夫妻と3人で知覧に行った。知覧特攻記念館を訪れるのが目的であった。私は数年前に一度、同記念館に行ったことがあったが、村上教授ご夫妻は初めてということであった。

知覧からは20歳前後の多くの若者が特攻隊員として飛び立った。そして二度と戻ってくることはなかった。

記念館には、彼らの写真と彼らが家族に宛てた手紙が陳列されていた。手紙の中で彼らが最も訴えたかったのは、「死にたくない」という思いであったにちがいない。しかし手紙の中に綴られていたのは、両親への感謝の言葉と自分の妻や子、そして兄弟たちに対する別れの言葉だけであった。

母国のために特攻隊員の一人として恥ずかしくない最期を遂げるという決意も述べられてはいた。逃れることができない死。その死が目前に迫ったとき、自分の命を捨てることの意義を彼らはそこにしか見出せなかったのだろうと思う。

今の日本では、このような彼らの死に方は犬死であると言われるであろう。確かに犬死であったかもしれない。残された彼らの肉親の悲しみもどれほど深かったことか。

彼らの死に意味を持たせることは、今を生きる私たちの務めであろう。

記念館から出てきててとき、村上教授の奥様は涙ぐんでいた。村上教授も沈鬱な表情を浮べていた。

帰路の車の中で、村上教授の奥様が記念館から出てきたときに涙ぐんでいた理由を語った。特攻隊員たちとほぼ同年齢のご自身の子とが重なり合ったということであった。ご夫妻には、お嬢さんが一人、息子さんが一人いらっしゃる。奥様は、母親である奥様に息子さんが語った恋愛感と結婚感は男として情けないと嘆かれた。

しかし、国のために死んでいった特攻隊員を尊敬しつつも、周りから「卑怯」だとか「男らしくない」などとどんなに批判され侮蔑されても、我が子には彼らと同じ運命を歩ませたくないと思っているはずである。

私の父方の伯父は終戦の一か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。この伯父の死は妻と生まれたばかりであった一人息子の人生を大きく狂わせた。

伯父の親である私の祖父母は、私が幼い頃は毎年、終戦記念日に高知市内で開かれた慰霊祭に参列した。私も祖父母についていった。そして見よう見まねで参列者たちと一緒に黙祷を捧げた。暑かったという記憶だけは今も鮮明に残っている。

しかし祖父母からその叔父の思い出話は聞いたことはない。息子である私の伯父を亡くした悲しみを祖父母は決して私に語ろうとはしなかった。

2016年6月16日木曜日

腕時計

数日前に息子の腕時計が見当たらなくなった。その腕時計が息子の布団の中から出てきた。腕時計を見つけた家内が「よかったー」と大声で喜んだ。

そのとき、私はしばらく書斎の小物入れのなかにしまったままになっていた父親の腕時計のことを思い出した。そしてその腕時計を慌てて探した。腕時計は窓際の小物入れのなかから見つかった。埃にまみれていた。そして止まっていた。十時ちょうどを指し示していた。

この腕時計は、父親が私の家に来たとき、私が腕にはめていたのを見て、「その腕時計をくれ」と言って、私がいいとも言わないのに勝手に実家に持って帰ったものであった。私が実家に帰ったときには、父親はいつもその時計を左手にはめていた。

3年前、父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れた後、実家でその腕時計を見つけた私は、それを東京に持って帰った。その時には、それが間もなく数少ない父親の形見になろうとは思いも寄らなかった。

私は腕時計をウェットティッシュで丁寧に拭いた。そして書斎のテーブルの上に置いた。この時計は太陽光充電式である。明日の昼になれば、また父親が生きていたときのように再び時間を刻み始めるであろうか。


2016年6月11日土曜日

小林麻央の報道を耳にして

つい先日、患者の病室を訪れると、市川海老蔵氏の記者会見の模様がテレビで流されていた。海老蔵氏の妻である小林麻央さんが進行した乳がんと闘っているという。

私は、芸能人をほとんど知らない。「小林麻央」という名前すら耳にしたことがなかった。「海老蔵」という名前は時々耳にしていたが、フルネームは知らなかった。

テレビで流されている海老蔵氏の記者会見を聞きながら、私はある一人の女性のことを思い出していた。その女性は私が勤務する慶應病院の看護師であった。当時、30歳代前半であったと思う。耳鼻咽喉科外来によく手伝いに来てくれていた。しかし私は、彼女と会話を交わしたことはなかった。

彼女には3人の子がいた。そして4人目の子の妊娠初期に彼女が肺がんに侵されていることがことがわかった。しかし彼女は治療を拒否し4人目の子を出産した。4人目の子を生んだとき、担当医から、余命は11か月と宣告された。彼女は生まれたばかりの子を思い、「この子は母である私のことを覚えておいてくれない。この子には私の思い出が残らない」と言って身近の同僚に嘆いていたという。

まもなく彼女は病院から消えた。彼女がいなくなったあと、職場の誰も彼女のことを話題にすることはなかった。私も彼女について尋ねたことはない。おそらく彼女は出勤しなくなってから程なく亡くなったのであろう。

彼女の4人目の子は何歳になったであろうか。中学生にはなっているであろう。その子は、物心つく前になくなった自分の母親の写真を首にかけて毎日通学しているのかもしれない。

2016年1月23日土曜日

大崎瀬都 再び



きょう帰宅すると、一通の封筒が届いていた。差出人は「大崎瀬都」となっていた。私の高校時代の同期生である。 彼女は歌人として名が知られている。高校時代からすでに彼女は有名であった。彼女の歌は高校生向けの雑誌にしばしば掲載されていた。学生時代、私は彼女と一度も会話を交わしたことがなかったが、高校を卒業した後も長い間ずっと彼女の記憶は残っていた。

そんな彼女と初めて話したのは10年ほど前であった。高校の同窓会の二次会の席で彼女が歌集を出したことを聞き、同窓会に出席せず自宅にいた彼女にその場で電話をかけた。そして歌集を私に送ってくれないかと頼んだ。それが彼女との初めての会話であった。それ以来、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。また、彼女は後に出版した2つの歌集も送ってきてくれた。今回のように新聞や雑誌に掲載された自分の歌も時々送ってくれる。 

きょう届いた封書には彼女の直筆の手紙が添えられていた。彼女は私のこのブログ「私と家族」を読んでくれていたらしい。その感想が書かれていた。 私はこのところ、「死」についてよく考える。彼女もそうらしい。彼女の手紙にはこう綴られていた。「自分の死を悲しんでくれる数人の人を大切にしようという思いを私も新たにしました。」 

3年前に父親が倒れて以来、私は高知と東京を往復する生活を続けた。真っ暗い時刻に家を出て羽田空港空港に向かい、始発便で高知に帰った。そして高知で両親を見舞ったり実家の片づけをしたり、銀行や市役所に出向いたり・・・。食事をする時間もとれないことが珍しくなかった。東京への帰りもいつも最終便であった。身体に堪えたばかりでなく、孤独な3年間であった。

あのように孤独な生活を送るのは初めてであった。しかしその3年間、多くの人たちが私を支えてくれた。私はその人たちの恩を生涯忘れないと思う。その一方で、私をなじったり罵倒したり陰口をたたく人も何人かいた。私のブログを読んで「あなたは最低の医師だ」というコメントを寄越してきた親戚もいた。しかし私のこのブログ(「私と家族」)には私の医師としての仕事については何も書いていない。また私は親戚とも実家のご近所の人たちとも医師として接したことはない。50年近くほとんど会話を交わしたことすらない親戚から「最低の医師」というコメントを送ってこられる理由は見つからない。私の人生のなかで最も辛い時期に何かにつけて私の足を引っ張った人のことも同様に、私は生涯忘れないであろう。その人たちとは今後、顔を合わせることも言葉を交わすことも手紙をやりとりすることもないであろうが。私にも刻一刻と死が近づいている。彼らにかかわる余裕はない。




2016年1月7日木曜日

思い出の写真 タイ・メイホンソー

正月から、撮りためた古いDVテープの映像をハードディスクに取り込んでいる。懐かしい思い出の場面ばかりである。写真は、息子が小学校一年の終わりの春(2006年3月)にタイのメイホンソーに行った際に撮影したビデオをキャプチャーしたものである。