羽田空港に着いた。これから高知に帰省する。今年3度目の帰省である。昨年8月に母親が亡くなって以来、高知からはすっかり足が遠のいてしまった。
今朝、自宅を出たときにはまだ薄暗かった。玄関のドアを開け周りの暗い景色を見た瞬間、辛かった数年間の思い出が蘇ってきた。
父親が1993年6月下旬に2度目の脳梗塞の発作で倒れた。その1か月半後の8月中旬に母親が脊椎の圧迫骨折で緊急入院した。東京と高知とを往復しながら2人を介護せねばならなくなった。
我が家では全ての財布を父親が握っていた。母親の年金が振り込まれる口座の通帳までも父親が管理していた。母親は自分名義の預金がどれほどあるかすら知らなかった。父親の預金口座のことなど母親が知る由もなかった。母親は身体は動かせなかったが会話はできた。しかし肝心の父親からは何も聞き出すことができなかった。
私は途方に暮れた。両親ともいつまで生きるのかわからない。ひょっとしたら百歳まで生きるかもしれない。どうやって介護しようか。
両親を預かってくれる東京の施設を探すべく家内は手を尽くしてくれた。しかし、施設が見つかる前に父親の病状がどんどん悪化していった。東京に連れてくることは無理と判断した。それでも、私は、施設が見つかり次第、なんとかして両親を東京に連れてこようと思っていた。しかし、母親は、東京に住むことを頑として拒んだ。東京に行くようにと親戚が繰り返し母親を説得してくれたが、無駄であった。元気な頃から母親は、「高知で一生を終える。東京には絶対出ていかない」と私に何度も告げていた。父親ひとりが残っても、父親も東京には住まないだろうと、同様に母親から聞かされていた。理由は言わなかった。私にはふたつしか理由が思い浮かばなかった。生まれ故郷への愛着と私たち夫婦への遠慮であった。
ふたりが揃って入院することになった年の秋、私たちは両親を東京に連れてくることを断念した。高知で片づけなければならない雑務があまりにも多すぎたのだ。父親が所有していた山林や田畑の処分と墓地の移設(改葬)であった。予想どおり、これらに実に多くの時間と労力を取られることになった。それらを父親が生きているうちに片づけなければならなかった。帰省しても、両親が入院している病院に長時間いる余裕はなかった。父親の病状は帰省のたびに悪化した。時間との競走であった。私はどんどん精神的に追いつめられていった。
土曜日の早朝に自宅を出て始発便に乗り、月曜日の最終便で東京に戻る生活が父親が亡くなるまで続いた。平日に仕事を休まなければ、高知で何の手続きもできなかった。仕事に大きな皺寄せが来た。私は自分の仕事を犠牲にせざるをえないと心を据えた。学会出席も控えた。
嬉しかったことは、幼ななじみでもあるひとりの再従姉妹が自分の家の駐車場に父親の車を置かせてくれたことだ。私が帰省するときには毎回その車を高知空港まで届けてくれた。東京に戻るときにはその車を高知空港に乗り捨てておけばよかった。彼女が車を自宅まで運んでくれた。私は彼女に心から感謝した。
私の家内や親戚が奔走してくれたこともあり、幸運にも父親が亡くなった直後に新しい墓地が完成した。父親の四十九日の納骨にぎりぎり間に合った。父親の遺骨を代々の先祖の遺骨と一緒にできあがったばかりの墓に埋葬できた。
しかし、不動産が十数筆残った。 父親の訃報が届いたとき、私の頭にまず浮かんだのは売れ残った不動産のことであった。この残った不動産が私の姉との争いの種になるだろうとずっと不安に思っていた私は暗澹たる思いに襲われた。私の不安は的中した。
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