私の父方の祖母は私が小学校2年生のときに亡くなった。祖母が生きていた頃、私の実家は古い藁葺きの家屋であった。柱はどれも虫に食われており真四角の柱は1本もなかった。高知は毎年必ず台風に襲われるが、台風が来るたびに家はギーギーと音を立ててきしんだ。家が揺れると、祖母は両腕を天井方向に伸ばして「ホーッホーッ」と大きな声で叫んだ。家が倒れないようにというおまじないか祈りであろうと私は思った。何故か解らぬが、どんなに激しく家が揺れても、祖母は家の外に避難しようとはしなかった。当時の自宅の家屋には蛇もよく入ってきた。睡眠中に百足に噛まれたことも何度かあった。当然、冬はすきま風のために身体は凍えた。
私が幼い頃、祖母と父親との間には喧嘩が絶えなかった。祖母も父親も気性が荒かったので烈しい口論になることが珍しくなかった。感情が高まると、父親は暴力を振るうことがあった。そんなとき、祖父母は父親の暴力から逃れて離れで寝た。その離れを我が家では「鳥小屋」と呼んでいた。畳3畳ほどの広さの、文字どおりの「小屋」であった。祖父母がこの小屋で寝るときには、私も必ず祖父母に挟まれて眠った。
祖母と父親とが何を巡ってあれほど激しく言い争うのか、まだ幼なかった当時の私には全くわからなかった。
二人の喧嘩の原因を知ったのは、数年前に父親が初回の発作で倒れた直後のことであった。父親と私が車で移動中、突然、父親がその話を始めた。喧嘩の原因は、どうやって我が家の収入を増ゃすかということについての考え方の違いであったという。祖母は「芋をつくれ」と言ったらしい。しかし父親は、芋づくりでは貧乏暮らしから脱することはできないと考えた。
父親はこんなことも話した。父親が洗濯機を購入した。母親が家事に取られる時間を減らし、もっと仕事ができるようにと考えてのことであった。しかし、当時、洗濯機がある家はまだ多くなかった。祖母は「無駄遣いだ」と父親に怒った。
要は、祖母も父親も貧乏暮らしから這い上がろうと必死だったのだ。
祖母が近所の農作業の手伝い出て仕事中に倒れたのは12月中旬の寒い日であった。その日の朝、祖母が家を出るとき、父親は「家を新築する」と祖母に告げていた。祖母はその言葉を聞いて喜び勇んで出かけていったという。「お婆に家を建てると話ちょいてよかった」と祖母の死後、父親は繰り返し話した。喧嘩が絶えなかった祖母ではあったが、父親はその言葉で祖母を喪った悲しみを癒そうとしていたのであろう。祖母と喧嘩が絶えなかったことを後悔していたのかもしれない。
祖母は意識が戻らぬまま2週間後に亡くなった。大晦日であった。祖母が心待ちにしていた新しい家はその翌年の8月に落成した。
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