2016年6月23日木曜日

2度目の知覧

昨日から鹿児島に来ている。きょうの午後、名古屋市立大学医学部の村上信五教授ご夫妻と3人で知覧に行った。知覧特攻記念館を訪れるのが目的であった。私は数年前に一度、同記念館に行ったことがあったが、村上教授ご夫妻は初めてということであった。

知覧からは20歳前後の多くの若者が特攻隊員として飛び立った。そして二度と戻ってくることはなかった。

記念館には、彼らの写真と彼らが家族に宛てた手紙が陳列されていた。手紙の中で彼らが最も訴えたかったのは、「死にたくない」という思いであったにちがいない。しかし手紙の中に綴られていたのは、両親への感謝の言葉と自分の妻や子、そして兄弟たちに対する別れの言葉だけであった。

母国のために特攻隊員の一人として恥ずかしくない最期を遂げるという決意も述べられてはいた。逃れることができない死。その死が目前に迫ったとき、自分の命を捨てることの意義を彼らはそこにしか見出せなかったのだろうと思う。

今の日本では、このような彼らの死に方は犬死であると言われるであろう。確かに犬死であったかもしれない。残された彼らの肉親の悲しみもどれほど深かったことか。

彼らの死に意味を持たせることは、今を生きる私たちの務めであろう。

記念館から出てきててとき、村上教授の奥様は涙ぐんでいた。村上教授も沈鬱な表情を浮べていた。

帰路の車の中で、村上教授の奥様が記念館から出てきたときに涙ぐんでいた理由を語った。特攻隊員たちとほぼ同年齢のご自身の子とが重なり合ったということであった。ご夫妻には、お嬢さんが一人、息子さんが一人いらっしゃる。奥様は、母親である奥様に息子さんが語った恋愛感と結婚感は男として情けないと嘆かれた。

しかし、国のために死んでいった特攻隊員を尊敬しつつも、周りから「卑怯」だとか「男らしくない」などとどんなに批判され侮蔑されても、我が子には彼らと同じ運命を歩ませたくないと思っているはずである。

私の父方の伯父は終戦の一か月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。この伯父の死は妻と生まれたばかりであった一人息子の人生を大きく狂わせた。

伯父の親である私の祖父母は、私が幼い頃は毎年、終戦記念日に高知市内で開かれた慰霊祭に参列した。私も祖父母についていった。そして見よう見まねで参列者たちと一緒に黙祷を捧げた。暑かったという記憶だけは今も鮮明に残っている。

しかし祖父母からその叔父の思い出話は聞いたことはない。息子である私の伯父を亡くした悲しみを祖父母は決して私に語ろうとはしなかった。

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