2018年4月24日火曜日

母の思い出 1

忘れぬうちに書き綴っておこうと思う。

2013年6月下旬に父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れ、緊急入院した。そして身体が不自由な母親は実家で一人暮らしをすることになった。母親は50歳代から慢性関節リウマチに侵され、歩くことすらままならなかった。手は大きく変形し、箸を持つこともできなかった。

こんな母親が一人暮らしすることになったことを見かねたご近所の方が、私の実家で私の母親と一緒に暮らし母親の介護をしてあげようかと申し出てくれた。私にとっては嬉しい申し出であったので、このことを母親に告げた。母親はきっと喜んでくれるだろうと思った。

ところが私の予想に反して、母は強くその申し出を拒んだ。拒む理由も私に告げた。私は何度か、その申し出を受けてはどうかと母親に話した。しかし母親が頭を縦にふることはなかった。そしてこんなことを言った。「幸伸、私は寂しくないで。これまでずっと、お父さんに圧迫され続けてきた。我慢の連続だった。やっと、人生で初めて自由が得られた。」

このことを母親から聞かされても、私は母親が心配でならなかった。実家から東京に戻っても母親のことが心配で、たびたび電話をかけた。しかし手の不自由な母親が携帯電話を操作することは難しく、母親が電話に出ることは稀であった。

母親が倒れたという連絡を受けたのは、2013年8月中旬であった。その日、高知県では日本での最高気温を記録していた。母親は暑さのために熱中症様の症状が起き、自分で救急車を呼んだ。そして、その救急車が実家に着く前に寝室に置いてあったオマルで用を足そうとして立ち上がった際に転倒し、脊椎の圧迫骨折を起こしたのだ。

ご近所の方たちが駆けつけてきてくれたとき、母親の衣類は尿でびしょびしょになっていたという。駆けつけてくれたご近所の方たちは、その汚れた母親の衣類を脱がし、洗濯してあった衣類を着せてくれた。そして救急車に母親を乗せ、救急車の後を追って病院にまで駆けつけてくれた。なんとありがたいことであろうか。

その日、私は、家族で軽井沢に出かけていた。お盆の帰省ラッシュの時期であり、すぐには高知に帰れそうもなかった。母親の介護をご近所の方たちに頼む以外に選択肢はなかった。母親が入院した病院に行けたのは母親が倒れてから3〜4日後のことであった。

2018年4月7日土曜日

義兄の死

義兄が3月23日に亡くなった。つい数日前に叔母に電話をかけた際に叔母から義兄の死を聞かされた。h叔母も私の姉に電話をかけた際に初めてそのことを姉から知らされたという。おそらく姉は、私の親族のごく一部にしか夫の死を知らせなかったのであろう。ただ、姉夫婦には4人の子と少なくとも4人の孫がいる。家族葬ではあっても決して寂しい葬儀ではなかったであろう。

2013年6月下旬に私の父親が出血性脳梗塞で緊急入院した。そのとき、私は数日間帰省した。姉と姉の長女から國弘家との絶縁を一方的に告げられたのはその時であった。2013年7月1日。この日のことは生涯忘れられない。

その日の夕方、私は姉の家を訪ね、姉が住む集合住宅の敷地内で姉と雑談を交わしていた。私がさあホテルに戻ろうとしたとき、姉と姉の長女がかしこっまって私の前に立ち、「幸伸、話がある」と真剣な表情で話し始めた。「何?」と私が尋ねると、「私たちはお母ちゃんと縁を切るから」と姉は言った。その時、私は、またいつもの親子喧嘩でもしたのか、程度にしか受け取らなかった。しかしその3週間ほどあとに姉は両親宛に絶縁状を送ってきた。その絶縁状の末尾には「さようなら」と書かれていたらしい。「らしい」と表現したのは、私は、その絶縁状を母親の死後まで手に取って読まなかったからである。3回目に私が帰省したとき、母親は姉から送られてきた絶縁状の文面を何度も私に繰り返し話しては悲しんだ。このときの母親の嘆き様を私は生涯忘れないであろう。

姉が両親宛に絶縁状を送りつけてきた直後の2013年8月13日、母親は自宅で転倒し、救急車で国立高知病院に搬送された。救急車が実家に着く前にご近所の人たちが病院に駆けつけてくれ、姉に電話連絡し、母親の搬送先が決まったら病院に来てくれるよう繰り返し頼んだ。しかし姉は、「國弘家とはすで縁を切った。絶縁状も送ったので母親を見舞いにはいかない、葬式にもいかない。これは家族会議で決めた。ご近所の人たちに迷惑をかけるわけにはいかないから、母親はおいたまま帰って」と言ったという。

父親は翌年の2014年3月に亡くなった。姉の言葉どおり、父親が亡くなるまで、姉も姉の子供たちも誰一人として両親の見舞いに来ることはなかった。実家も放りっぱなしであった。父親の葬儀にも、姉も姉の子供たちも誰一人として出席しなかった。病院で一人残された母親を見舞ってくれることもなかった。2015年8月に母親が危篤に陥ったとき、病院に駆けつけてくれていた実家のご近所の方が姉にそのことを電話で伝えてくれた。しかし姉が病院に着いたときには、母親は既に息絶えていた。姉は母親の遺体にしがみついて大泣きに泣いたという。泣きじゃくっている姉に対して、母親の死を看取ってくれたご近所の方の一人は、「友子ちゃん、ちっくと遅かったね」と言ったらしい。

姉が國弘家と縁を切った理由は、両親の看病や介護をしたくないことが理由であった。ただそれだけであった。



残酷な一家である。

父が亡くなってから4年

父親が亡くなってからもうすぐ4年になる。父親は2013年6月下旬に出血性脳梗塞で入院。容体は回復することなく、翌年の3月7日に亡くなった。父親死亡の連絡を従姉から受けたときの衝撃は今も忘れられない。

私が現在住んでいる東京の家の仏壇には父親と母親の遺影を飾っている。その遺影を見るたびに両親への感謝の気持ちが湧いてくる。

先日、中学・高校時代の友人が私の実家の写真を送ってきてくれた。冬なので実家の庭の草は枯れているが、暖かくなるとまた草が鬱蒼と生い茂るに違いない。実家には誰も住んでいない。

その友人は、今、車で四国八十八ケ所巡りをしている最中だという。四国が広いのに驚かされたと彼からのメールには書かれていた。彼の父親が心身深かったので親孝行をしようと思って八十八ケ所巡りをしているとのこと。私には彼の気持ちがよくわかる。ひとつひとつ寺を回りながら、彼は亡くなった自分の父親の生前の姿を思い出しているにちがいない。

私の父親の生前、私と父親とは喧嘩ばかりしていた。加えて、私は高校に入学して間もなく実家を出たこともあり父親とはあまり話す機会がなかった。だから父親の平素の生活ぶりを私はほとんど知らなかった。父親の生活の様子を知ったのは、父親の介護をするためにしばしば帰省するようになってからであった。ご近所の方々が私にいろいろと話してくれた。それらのひとつひとつが私の胸を打った。貴重な思い出となった。

2013年11月に父親を見舞ったとき、もう意識はないものと思っていた父親が、「よう来てくれるね。嬉しい」と突然2回しゃべった。私は驚いた。その翌月、私が家内と息子を連れて父親を見舞った際には、父親は麻痺のない右腕を伸ばして私の手を握った。それにも驚かされた。帰り際、父親は目を閉じたまま「気をつけて帰りなさいよ」と二度と繰り返した。聞こえるか聞こえないかのごく小さな声であった。それが父親の声を聞く最後となった。

父親と母親の介護を東京と高知とを往復しながら行うのは実に大変であった。この期間はほとんど仕事が手につかなかった。夜も寝つけないことが多かった。父親に次いで2015年8月に母親が亡くなくなった。私は心身ともにへとへとに疲れた。しかし悔いはなかった。

2017年11月21日火曜日

今年2度目の帰省

11月18日から20日まで高知に帰省した。高知医療センター歯科口腔外科と高知市歯科医師会の合同研修会で講演することが目的であった。両親が亡くなって以来、高知とはすっかり縁遠くなってしまったが、高知を離れて42年経った今でも高知は私のアイデンティティの源である。今回は足摺岬まで車で足を伸ばしたが、道すがら両親と同じ道を走ったときの記憶が次から次へと蘇ってきた。両親が生きていたとき、私は決して両親と仲がよくなかった。特に父親とは話せばすぐ喧嘩になった。1年以上会話しない時期もあった。しかしそんな時期でも父親はずっと私に愛情を抱き続けてくれていたことを、父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れた後、知った。実家の近隣の人たちがいろいろな父親との思い出話を私に聞かせてくれたのだ。

東京と高知を往復しながらの介護は肉体的にも精神的にも大変であった。東京にいても、いつ病院から電話が入るかもしれない。気持ちは常に張りつめていた。高知に帰る際に乗る飛行機は必ず始発便であった。朝5時に起き、重い荷物を抱えてまっ暗い道を駅までかけていった。高知に帰っても休む暇はなかった。雑用に終われ、両親の面会に病院を訪れることすらままならなかった。東京に戻るのは月曜日。平日でなければ済ませられない用事がたくさんあったからだ。月曜日には朝食も昼食も摂る時間がなかった。夕方、帰りの飛行機を待つ短い時間に空港のレストランでうどんを呑み込んだ。

孤独であった。両親と相談しながら介護を行うことさえできたならば、どんなに忙しくともあのような孤独感に苦しむことはなかっただろうと思う。

2017年10月24日火曜日

叔父の墓参り

11月16日から19日まで高知に帰省した。その際に叔父の墓参りをした。この叔父は2012年9月に亡くなった。そのときの衝撃は、叔父の妻の心から今も抜けないという。 この叔父を私はとても尊敬していた。頭が良かったからだけではない。どんな苦労をしていても愚痴ひとつ漏らさず、黙々と苦労に立ち向かっている叔父の生き様が私には美しいと感じられた。 

叔父の墓は、高知龍馬空港に近い小高い山の中腹にある。今年は叔母(叔父の未亡人)とふたりでその墓を訪れた。

叔父の墓碑には「享年77歳」と刻まれていた。おそらく数え年であろうと叔母は言った。

叔母は満年齢で78歳になるという。叔母は、今も、叔父の死が悲しくて仕方がないようだ。叔父と叔母の間には二人の息子がいるが、二人ともまだ独身である。子孫が絶えるかもしれないことも叔母はたいそう気に病んでいる。

私の父親は2014年に亡くなった。その翌年、母親も亡くなった。両親の墓地は東京にある。高知からはすっかり縁遠くなった。高知に帰省した際に叔父の墓前で手を合わせることは、私の帰省時の儀式になった。


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11か月ぶりの帰省

久しぶりに高知に帰省した。両親がなくなってから、高知からはすっかり足が遠のいていた。今回帰省したのは、母校である高知学芸高等学校の1年生に対して進学ガイダンスを行うためであった。卒業生にとり、後輩たちに対して母校で授業ができることほど嬉しいことはない。みずみずしい感受性溢れる生徒たちと話すことも実に楽しい。授業が終わった後の先生方との懇親会もとても有意義であった。母校の現状を憂えている卒業生は少なくない。私も何人かの先生方に対して自分の思いを率直に話させていただいた。どの先生も真剣に私の話に耳を傾けてくださった。

数年前に母校に訪れたときと比較して、校舎は少し古くなっているように感じられた。しかし校庭にも校舎内にも塵は落ちていなかった。綺麗に掃除されていた。

学校の敷地に接して男子寮がある。この寮も建て替えられてからかなり年月が経っているように見えた。寂しいことに、私が寮生活を送っていた時期には寮生が280人余りいたが、今、寮生はわずか30人しかいないという。地方の経済が疲弊し、高知市から遠く離れた地域に住む子どもたちに親元を離れて生活させる経済的余裕がなくなったことが寮生減少の主な原因であるということであった。空き部屋が多くなったため、当時は二人部屋であったが今は個室になっているという。また寮内に寝泊りしている寮母さんもいなくなったとのことであった。私が寮生活を送っていたとき、私はたびたび寮母さんの部屋を訪れ、いろいろな悩みを聞いてもらった。当時、3人いた寮母さんたちは、親元から離れて暮らす寮生たちの母親代わりであった。

 少子高齢化と地方経済の疲弊は、私の母校にも情け容赦なく暗い影を投げかけている。

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2017年6月5日月曜日

軽井沢にて イングリット・フジコ・ヘミング ピアノ ソロ リサイタル 2017

6月3日と4日、軽井沢に行った。今回も家内とふたりであった。息子は6月3日に水泳の試合があるため来なかった。6月4日にも水泳の練習があるとのことであった。

ラッキーだったのは、軽井沢大賀ホールで6月4日にも開かれたフジコ・ヘミングのピアノリサイタルの当日券が手に入ったこと。彼女は既に80歳を越している。もう彼女の生演奏は聴けないかもしれないと思っていた。

演奏は素晴らしかった。彼女が奏でるピアノの旋律に引き込まれていった。あのまろやかな音色はどうやって出しているのであろうか。ピアノがいいからなのであろうか。それとも彼女の演奏の技術か。

私が引き込まれたのはピアノの音色だけではなかった。音の世界そのものの中に吸い込まれていった。彼女が最後に演奏したラ・カンパネラは神がかっていた。

リサイタルが終わって大賀ホールの外に出ると、まだ日差しが強く、空気は澄み切っていた。