2018年4月7日土曜日

義兄の死

義兄が3月23日に亡くなった。つい数日前に叔母に電話をかけた際に叔母から義兄の死を聞かされた。h叔母も私の姉に電話をかけた際に初めてそのことを姉から知らされたという。おそらく姉は、私の親族のごく一部にしか夫の死を知らせなかったのであろう。ただ、姉夫婦には4人の子と少なくとも4人の孫がいる。家族葬ではあっても決して寂しい葬儀ではなかったであろう。

2013年6月下旬に私の父親が出血性脳梗塞で緊急入院した。そのとき、私は数日間帰省した。姉と姉の長女から國弘家との絶縁を一方的に告げられたのはその時であった。2013年7月1日。この日のことは生涯忘れられない。

その日の夕方、私は姉の家を訪ね、姉が住む集合住宅の敷地内で姉と雑談を交わしていた。私がさあホテルに戻ろうとしたとき、姉と姉の長女がかしこっまって私の前に立ち、「幸伸、話がある」と真剣な表情で話し始めた。「何?」と私が尋ねると、「私たちはお母ちゃんと縁を切るから」と姉は言った。その時、私は、またいつもの親子喧嘩でもしたのか、程度にしか受け取らなかった。しかしその3週間ほどあとに姉は両親宛に絶縁状を送ってきた。その絶縁状の末尾には「さようなら」と書かれていたらしい。「らしい」と表現したのは、私は、その絶縁状を母親の死後まで手に取って読まなかったからである。3回目に私が帰省したとき、母親は姉から送られてきた絶縁状の文面を何度も私に繰り返し話しては悲しんだ。このときの母親の嘆き様を私は生涯忘れないであろう。

姉が両親宛に絶縁状を送りつけてきた直後の2013年8月13日、母親は自宅で転倒し、救急車で国立高知病院に搬送された。救急車が実家に着く前にご近所の人たちが病院に駆けつけてくれ、姉に電話連絡し、母親の搬送先が決まったら病院に来てくれるよう繰り返し頼んだ。しかし姉は、「國弘家とはすで縁を切った。絶縁状も送ったので母親を見舞いにはいかない、葬式にもいかない。これは家族会議で決めた。ご近所の人たちに迷惑をかけるわけにはいかないから、母親はおいたまま帰って」と言ったという。

父親は翌年の2014年3月に亡くなった。姉の言葉どおり、父親が亡くなるまで、姉も姉の子供たちも誰一人として両親の見舞いに来ることはなかった。実家も放りっぱなしであった。父親の葬儀にも、姉も姉の子供たちも誰一人として出席しなかった。病院で一人残された母親を見舞ってくれることもなかった。2015年8月に母親が危篤に陥ったとき、病院に駆けつけてくれていた実家のご近所の方が姉にそのことを電話で伝えてくれた。しかし姉が病院に着いたときには、母親は既に息絶えていた。姉は母親の遺体にしがみついて大泣きに泣いたという。泣きじゃくっている姉に対して、母親の死を看取ってくれたご近所の方の一人は、「友子ちゃん、ちっくと遅かったね」と言ったらしい。

姉が國弘家と縁を切った理由は、両親の看病や介護をしたくないことが理由であった。ただそれだけであった。



残酷な一家である。

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