2015年8月6日木曜日

母親から聞いたこと

一昨年の6月に父親が脳梗塞で倒れた。その後、間もなく、8月には母親が脊椎の圧迫骨折で入院した。ごく短かかったが、父親が入院して母親自身も入院するまでの期間、母親は実家で一人暮らしをしていた。

母親とゆっくり話すことができたのは、私の人生のなかでこの時が最初で最後となった。母親が父親と離婚しなかった理由を聞かされたのもこのときであった。「この男に付いていれば金に困らないと思った」というのが母親の答えであった。

父親と母親とは夫婦げんかが絶えなかった。このことがどれほど大きな心の傷を私に残したことか。私には両親が離婚しない理由がどうしても理解できなかった。しかし母親からこの言葉を聞いたとき、私はほっとした。母親が父親と離婚しなかった理由がひとつでもあったことを知って。このことについては既に書いたのでここではこれ以上書かない。

この時期に母親から聞かされたことのなかで、もうひとつ記憶に残っているのは、私の父方の祖母のことである。祖母は感情の起伏が激しい女性であった。喜怒哀楽が激しかった。息子である私の父親とは年中激しいけんかをしていた。けんかになると父親は祖母によく暴力を振るった。祖父母は父親の暴力から逃れるため、当時、我が家で「とりごや(鶏小屋)」と呼んでいた小さな離れでたびたび寝た。その「とりごや」は風が吹き抜ける、畳三畳ほどの小さな小屋であった。私は祖父母と一緒に鶏小屋で寝た。冬はとても寒かった。

私は祖父母に可愛がられて育ったが、祖母に関しては「怖かった」という記憶の方が強い。この激しい感情を持っていた祖母が、私の母親のことを近所に褒めてまわってくれたと母親は私に語った。「うちの嫁は働き者だ」と。このことは母親が父親と離婚しなかったもうひとつの理由となっていたのかもしれない。二人の間には、他の者にはわからない感情の交流があったに違いない。(我が家は、祖父母、両親、そして私と私の姉の6人が同居していた。)

この祖母は、寒い冬の日に近所の農家に手伝いに行った。その農作業中に脳卒中で倒れた。祖母が亡くなるまでの2週間、母親は献身的に祖母の介護をした。祖母は、囲炉裏のある部屋に寝かされていた。当時、私の家はいつ倒壊するともわからない藁葺き屋根のあばら家であった。私はまだ小学校2年生であったが、その献身的な母親の介護ぶりに驚かされた。

若い頃は両親とも実によく働いた。両親がいつ寝ていつ起きているのか、私にはわからなかった。

何年か前から、母は身体を全く動かせない。病院で寝たままである。食事すら自分一人ではできない。単に、病院のベッドで一人横になり、死を待つだけである。

この母親が死ねば、また父親の死と同じように、私の記憶から消えることのない悲しみが新たに加わる。私の悲しみが消えるのは、私が死んだときである。


死について

死について考えることがめっきり増えた。直接のきっかけは私の父親の死であった。私の父親が死んで1年5か月経ったが、まだ悲しみは消えない。和らぐこともない。多分、この悲しみは生涯消えることがないだろうと最近思うようになった。と同時に、父親の死を心から悲しんでくれる人はせいぜい数人しかいないだろうとしか思えないことに人生のはかなさを感じるようにもなった。

私が死んだあともそうであろう。私の死を心から悲しく思ってくれる人は家族を含めても数人しかいないだろう。他の人びとの記憶からは、私が生きていたという記憶すら一日ごとに消え去っていくことであろう。

ただ、私はこのことを寂しいと思っているわけではない。心から私を慕ってくれている人を大切にしなければいけないと強く感じるようになっただけである。

私は今も最低月に1回は帰省する。40年以上故郷を離れていた私を何かにつけて助けてくれる親戚や近隣の人たちもいれば、逆に私の悪口を言ったり罵ったり怒鳴りつけたりと、私の足を引っ張るだけの親戚もいる。この体験は、私に血縁というものを全く信じなくさせた。

父親が倒れて以来、思いもかけなかった人たちが私を助けてくれている。母親が生きている限りこの人たちにはお世話になり続けなくてはならない。今はその人たちの好意に甘える以外にない。しかし、母親が亡くなった暁には、その人たちに対しては心からお礼をしようと思う。逆に、私が困っているときに私の足を引っ張り続けた人たちの顔は、私の記憶の中で、鬼のような顔貌へと変っていくに違いない。

2015年8月5日水曜日

心に残ること

昨年の3月7日に父親が亡くなった。母親は身体が不自由なため葬儀には参列しなかった。幸い、父親は母親と同じ病院に入院していた。だから母親は父親の最期を看取ることができた。

父親の訃報が主治医から届いたのは3月7日の午後5時過ぎであった。そのとき、私はある学校で講義をしていた。電話を切ったとき、私の頭の中は真っ白であった。ある学生が、授業を途中で切り上げて帰宅してはどうかと言ってくれたが、私は終了のベルがなるまで授業を続けた。

その日は帰省しようにも飛行機便がない。私は翌日の始発の飛行機で高知に帰った。高知龍馬空港から病院に駆けつけた。しかしそのとき、既に父親の亡骸は葬儀場に運ばれていた。父親の病室はもぬけの殻になっていた。しかし、まだ部屋の入り口には父親の名前が書かれた名札がかけられていた。

母親の病室を訪ね、母親には葬儀に参列する意志がないことを確認した。母は「お父さん、ここでお別れしょうぜよと最期の挨拶ができたからたから、もうえい」と答えた。母は涙を流していなかった。母の気丈さに驚かされた。私は葬儀場に急いだ。葬儀場に着くと葬儀場の担当者が父親の亡骸が寝かされている部屋に私を案内してくれた。父親は広くて清潔な和室に寝かされていた。顔には白いハンカチがかけられていた。私はそのハンカチをそっと取り除き、指先で父親の顔に触れた。ドライアイスのためか、父親の顔は氷のように冷たかった。


2015年7月25日土曜日

祖母

これから書くのは母方の祖母のことである。この祖母は、晩年、夫つまり私の母方の祖父と同じ高知市内の病院に入院していた。そして二人ともこの病院で亡くなった。

私は高校時代、時々、この祖母を見舞った。東京の大学に入学したあとも、帰省する度に祖母の病室を訪れた。誰から促されたわけでもなかった。単に足が自然にそちらに向いただけであった。おそらく、幼い頃から私を可愛がってくれた祖母の笑顔を見たいという気持ちが私を病院へと向かわせたのであろう。

祖母は私の顔を見ると、たいそう喜んでくれた。長い入院生活は苦痛であったと思うが、祖母から愚痴がこぼれることはなかった。祖母は家族と離れて病院でひとりで生活し、その病院で自分の生を閉じることを自分にとってごく自然のことと感じているようであった。

ただ、そう感じたのは、多分、私がまだ若く、祖母の心情を十分理解できなかったからであろうと最近は思う。祖母も当然、家族と一緒に生活したかったに違いない。私が祖母を見舞う度に心から喜んでくれたのは、ほんとうに嬉しかったからであろう。

私が帰ろうとすると、祖母はいつも病室から私を追いかけてきた。そしてお金をくれた。いつも1万円くれたように思う。私は、お金をもらうために祖母を見舞いにきているように思われることがいやで何度も辞退したが、祖母は無理矢理、裸のお札を私に握らせた。「幸伸が来てくれて嬉しいから渡しゆうがやけ」といって、祖母はきかなかった。

祖母を見舞う度にお金をもらうことが心苦しくて、祖母から足が遠のいた時期もあった。

祖母が亡くなったことは、祖母が亡くなってしばらく経ったあと、両親から知らされた。私が帰省しても、両親の口からその祖母のことが話題として出されることはなかった。「年を取れば、誰もが死んでいくもの。死んでいった者は時間とともに家族からすら忘れ去られていくもの。」両親はこのような死生観を抱いているように私は感じた。

2015年7月20日月曜日

従兄の死

7月11日と12日の両日、介護帰省した。高知を発つ直前、母親が入院している病院からすぐ近くに住む従姉の家を訪れた。玄関のチャイムを鳴らしたが応答がない。留守かと思って立ち去ろうとしたとき、玄関の扉が少し開いているのに気付いた。誰かいるらしい。玄関の扉を開けて「こんにちは」と大きな声で呼んだ瞬間、茶の間で孫と一緒にいる従姉の姿が目に入った。チャイムが故障してたらしい。

従姉は玄関に出てくるや否や「幸伸、知っちゅう?」と話し始めた。そして一人の従兄が亡くなったことを私に告げた。その従兄の死を私は知らなかった。7月10日に亡くなったようだが詳細がわからないと従姉は話した。

亡くなった従兄は筋萎縮性側索硬化症を患って高知市内の病院に入院していた。2年ほど前にその従兄を見舞ったことがある。そのとき従兄は一生懸命私に話しかけようとした。しかし気管切開されていて声が出ない。結局、一言も理解することができないまま、私は病室を後にした。それが、私がその従兄の顔を見た最後であった。

従兄の葬儀は家族葬ですませたらしい。

従兄は二人兄弟であった。弟が一人いた。私が中学生になるまではよく従兄の家を訪ねたが、喧嘩ばかりしていた。夏休みには従兄宅に一週間ほど泊めてもらったこともあった。従兄の母親つまり私の伯母(私の父親の姉)は誰に対しても愛情深い女性であった。私が尋ねていったときには心から私を歓待してくれた。

すでに述べたように、伯母は若くして夫を亡くした。そして女手一人で二人の息子を育てた。伯母の人生は苦労の連続であった。しかし伯母が私にしかめ面を見せたことは一度もなかった。

晩年、この伯母は乳がんを患って左側の乳房切除術を受けた。私が見舞いに訪れると、伯母は胸を大きくはだけて術創を見せた。

この伯母のことを思い出すと今も心が和む。私の父親は五人兄弟であったが、私の父親も含めて五人全員がすでに亡くなっている。

2015年6月14日日曜日

大崎瀬都 再び

 私の書斎の棚には3冊の歌集が立っている。「海に向かへば」、「朱い実」、「メロンパン」の3冊である。いずれも大崎瀬都の歌集である。

過去にも書いたとおり、彼女と私は高校の同期生である。クラスがいっしょになったことはなく、在学中に彼女と会話を交わしたこともなかった。しかし彼女の歌は、高校生向けの雑誌に毎月のように掲載されており、当時から彼女の感性に深い感銘を受けていた。

彼女と話したことはこれまで一度しかない。高校の同窓会が毎年秋に東京で開かれる。その二次会の席で同級生と彼女を話題が出て、誰かが同窓会に出席していなかった彼女に電話をかけた。そのとき短時間会話を交わしたのが最初で最後である。

しかし、それ以後、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。

下の切り抜きは、昨年9月に彼女が送ってきてくれたものである。消印は平成26年9月9日となっている。昨年3月に私の実父が亡くなり、残された母親の介護のためにたびたび帰省していた当時の私には、彼女が送ってきてくれた歌をじっくりと鑑賞する余裕はなかった。父親が倒れてから2年。この2年間は週末に自宅でのんびりできる日は全くなかった。

きのうは思い切って大切な会合への出席を取りやめて一日中家に籠もり、書類の山の整理をした。彼女が送ってくれた手紙は、リビングのiMacの下に置かれたままになっていた。その封筒の中には彼女の歌の切り抜きに加えて彼女の直筆の手紙が添えられていた。その添え書きには、彼女も2年前に実父を亡くしたと書かれていた。

「かつて父の身体でありし千の風千の分子を行き深く吸ふ」
「ゆっくりと水車の廻る四万十市安並に父と兄の墓あり」
「子どのものとき逝きし兄にはコーヒーを父にはやめてゐし酒を置く」
「ヘルパーさんに鍵を渡して何もかも明け渡したる母の起き臥し」




2015年6月13日土曜日

又従兄弟


私の父親は昨年3月7日に亡くなった。二度目の脳梗塞発作で倒れたのが一昨年の6月末。8ヶ月あまりで亡くなったことになる。

一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私を助けてくれている又従姉がいる。彼女は私と同い年。小学校、中学校、高等学校と12年間同じ学校に通った。小学校1年生と2年生のときにはクラスも同じであった。

彼女は大学在学中に結婚した。しかし数年後に離婚し小学校入学前の一人息子を連れて高知に帰ってきた。しかし実家には戻らず、息子と二人暮らしを始めた。彼女が離婚して高知に戻ってきた直後に一二度彼女に会ったことがあった。一人息子のかかとの形が元の夫のかかとにそっくりだと彼女が笑っていたことを思い出す。

彼女は薬剤師であった。したがって生活に困ることはなかった。今は、息子も結婚し、二人の孫がいる。自分自身は息子の家から歩いて5分ほどの場所に家を借りて住んでいる。以前、住んでいた家は売り払ったという。

彼女の家から高知龍馬空港までは車で10分ほど。父親が倒れたとき、彼女の家の駐車場に車を停めてもらってかまわないと彼女の方から申し出てくれた。そればかりではなかった。私が東京から帰省する際には、自宅の駐車場から空港まで車を届けてくれる。私が東京に戻る際にも車を空港の駐車場に乗り捨てておくと彼女が自宅の駐車場まで運んでくれる。もう2年間になる。

彼女がこんなことをしてくれるのは、自分自身の父親が脳出血で倒れたときの思い出があるからである。彼女は自分の父親とは決して仲良くなかった。しかし父親が初回の発作を起こしたあとは献身的に父親の面倒をみた。父親の最後の入院の際には、仕事を終えた後、一日も欠かさず数十キロ離れた病院を訪れた。そして父親のベッドのそばに消灯までいたという。父親に意識がある時期には、母親を説得して父親を車椅子に乗せ、母親、そして彼女の3人で沖縄旅行にでかけたこともあるということであった。

彼女は、私に、少しでも長い時間、両親(今は母親のみであるが)のそばにいてあげてもらいたいと話す。

私は地元の小学校を卒業後、高知市内の私立の中学校に進学した。私といっしょにその私立中学校に進学したのが、彼女ともうひとり。3人が同じ私立中学校に進学した。この二人とは長いつきあいになる。50年を越した。

高知に帰ると、時々、彼女といっしょに食事をする。彼女が地元のレストランを案内してくれる。つい先日帰省したときには、高知市内のホテルのレストランで彼女といっしょに食事しながら3時間ほど語り合った。

重い荷物をさげて一人で帰省し、病院の母親を見舞う。その合間をぬって空き家になった実家の草刈りや布団干し、実家の片付け。母親が元気になってもう一度実家に戻ることはもう期待できない。帰省しても心身の疲れが残るだけである。彼女との接点は、一抹の明かりを私の心に灯してくれる。