2015年6月13日土曜日

又従兄弟


私の父親は昨年3月7日に亡くなった。二度目の脳梗塞発作で倒れたのが一昨年の6月末。8ヶ月あまりで亡くなったことになる。

一昨年の6月に父親が倒れて以来、ずっと私を助けてくれている又従姉がいる。彼女は私と同い年。小学校、中学校、高等学校と12年間同じ学校に通った。小学校1年生と2年生のときにはクラスも同じであった。

彼女は大学在学中に結婚した。しかし数年後に離婚し小学校入学前の一人息子を連れて高知に帰ってきた。しかし実家には戻らず、息子と二人暮らしを始めた。彼女が離婚して高知に戻ってきた直後に一二度彼女に会ったことがあった。一人息子のかかとの形が元の夫のかかとにそっくりだと彼女が笑っていたことを思い出す。

彼女は薬剤師であった。したがって生活に困ることはなかった。今は、息子も結婚し、二人の孫がいる。自分自身は息子の家から歩いて5分ほどの場所に家を借りて住んでいる。以前、住んでいた家は売り払ったという。

彼女の家から高知龍馬空港までは車で10分ほど。父親が倒れたとき、彼女の家の駐車場に車を停めてもらってかまわないと彼女の方から申し出てくれた。そればかりではなかった。私が東京から帰省する際には、自宅の駐車場から空港まで車を届けてくれる。私が東京に戻る際にも車を空港の駐車場に乗り捨てておくと彼女が自宅の駐車場まで運んでくれる。もう2年間になる。

彼女がこんなことをしてくれるのは、自分自身の父親が脳出血で倒れたときの思い出があるからである。彼女は自分の父親とは決して仲良くなかった。しかし父親が初回の発作を起こしたあとは献身的に父親の面倒をみた。父親の最後の入院の際には、仕事を終えた後、一日も欠かさず数十キロ離れた病院を訪れた。そして父親のベッドのそばに消灯までいたという。父親に意識がある時期には、母親を説得して父親を車椅子に乗せ、母親、そして彼女の3人で沖縄旅行にでかけたこともあるということであった。

彼女は、私に、少しでも長い時間、両親(今は母親のみであるが)のそばにいてあげてもらいたいと話す。

私は地元の小学校を卒業後、高知市内の私立の中学校に進学した。私といっしょにその私立中学校に進学したのが、彼女ともうひとり。3人が同じ私立中学校に進学した。この二人とは長いつきあいになる。50年を越した。

高知に帰ると、時々、彼女といっしょに食事をする。彼女が地元のレストランを案内してくれる。つい先日帰省したときには、高知市内のホテルのレストランで彼女といっしょに食事しながら3時間ほど語り合った。

重い荷物をさげて一人で帰省し、病院の母親を見舞う。その合間をぬって空き家になった実家の草刈りや布団干し、実家の片付け。母親が元気になってもう一度実家に戻ることはもう期待できない。帰省しても心身の疲れが残るだけである。彼女との接点は、一抹の明かりを私の心に灯してくれる。

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