7月11日と12日の両日、介護帰省した。高知を発つ直前、母親が入院している病院からすぐ近くに住む従姉の家を訪れた。玄関のチャイムを鳴らしたが応答がない。留守かと思って立ち去ろうとしたとき、玄関の扉が少し開いているのに気付いた。誰かいるらしい。玄関の扉を開けて「こんにちは」と大きな声で呼んだ瞬間、茶の間で孫と一緒にいる従姉の姿が目に入った。チャイムが故障してたらしい。
従姉は玄関に出てくるや否や「幸伸、知っちゅう?」と話し始めた。そして一人の従兄が亡くなったことを私に告げた。その従兄の死を私は知らなかった。7月10日に亡くなったようだが詳細がわからないと従姉は話した。
亡くなった従兄は筋萎縮性側索硬化症を患って高知市内の病院に入院していた。2年ほど前にその従兄を見舞ったことがある。そのとき従兄は一生懸命私に話しかけようとした。しかし気管切開されていて声が出ない。結局、一言も理解することができないまま、私は病室を後にした。それが、私がその従兄の顔を見た最後であった。
従兄の葬儀は家族葬ですませたらしい。
従兄は二人兄弟であった。弟が一人いた。私が中学生になるまではよく従兄の家を訪ねたが、喧嘩ばかりしていた。夏休みには従兄宅に一週間ほど泊めてもらったこともあった。従兄の母親つまり私の伯母(私の父親の姉)は誰に対しても愛情深い女性であった。私が尋ねていったときには心から私を歓待してくれた。
すでに述べたように、伯母は若くして夫を亡くした。そして女手一人で二人の息子を育てた。伯母の人生は苦労の連続であった。しかし伯母が私にしかめ面を見せたことは一度もなかった。
晩年、この伯母は乳がんを患って左側の乳房切除術を受けた。私が見舞いに訪れると、伯母は胸を大きくはだけて術創を見せた。
晩年、この伯母は乳がんを患って左側の乳房切除術を受けた。私が見舞いに訪れると、伯母は胸を大きくはだけて術創を見せた。
この伯母のことを思い出すと今も心が和む。私の父親は五人兄弟であったが、私の父親も含めて五人全員がすでに亡くなっている。
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