一昨年の6月に父親が脳梗塞で倒れた。その後、間もなく、8月には母親が脊椎の圧迫骨折で入院した。ごく短かかったが、父親が入院して母親自身も入院するまでの期間、母親は実家で一人暮らしをしていた。
母親とゆっくり話すことができたのは、私の人生のなかでこの時が最初で最後となった。母親が父親と離婚しなかった理由を聞かされたのもこのときであった。「この男に付いていれば金に困らないと思った」というのが母親の答えであった。
父親と母親とは夫婦げんかが絶えなかった。このことがどれほど大きな心の傷を私に残したことか。私には両親が離婚しない理由がどうしても理解できなかった。しかし母親からこの言葉を聞いたとき、私はほっとした。母親が父親と離婚しなかった理由がひとつでもあったことを知って。このことについては既に書いたのでここではこれ以上書かない。
この時期に母親から聞かされたことのなかで、もうひとつ記憶に残っているのは、私の父方の祖母のことである。祖母は感情の起伏が激しい女性であった。喜怒哀楽が激しかった。息子である私の父親とは年中激しいけんかをしていた。けんかになると父親は祖母によく暴力を振るった。祖父母は父親の暴力から逃れるため、当時、我が家で「とりごや(鶏小屋)」と呼んでいた小さな離れでたびたび寝た。その「とりごや」は風が吹き抜ける、畳三畳ほどの小さな小屋であった。私は祖父母と一緒に鶏小屋で寝た。冬はとても寒かった。
私は祖父母に可愛がられて育ったが、祖母に関しては「怖かった」という記憶の方が強い。この激しい感情を持っていた祖母が、私の母親のことを近所に褒めてまわってくれたと母親は私に語った。「うちの嫁は働き者だ」と。このことは母親が父親と離婚しなかったもうひとつの理由となっていたのかもしれない。二人の間には、他の者にはわからない感情の交流があったに違いない。(我が家は、祖父母、両親、そして私と私の姉の6人が同居していた。)
この祖母は、寒い冬の日に近所の農家に手伝いに行った。その農作業中に脳卒中で倒れた。祖母が亡くなるまでの2週間、母親は献身的に祖母の介護をした。祖母は、囲炉裏のある部屋に寝かされていた。当時、私の家はいつ倒壊するともわからない藁葺き屋根のあばら家であった。私はまだ小学校2年生であったが、その献身的な母親の介護ぶりに驚かされた。
若い頃は両親とも実によく働いた。両親がいつ寝ていつ起きているのか、私にはわからなかった。
何年か前から、母は身体を全く動かせない。病院で寝たままである。食事すら自分一人ではできない。単に、病院のベッドで一人横になり、死を待つだけである。
何年か前から、母は身体を全く動かせない。病院で寝たままである。食事すら自分一人ではできない。単に、病院のベッドで一人横になり、死を待つだけである。
この母親が死ねば、また父親の死と同じように、私の記憶から消えることのない悲しみが新たに加わる。私の悲しみが消えるのは、私が死んだときである。
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