2017年11月21日火曜日

今年2度目の帰省

11月18日から20日まで高知に帰省した。高知医療センター歯科口腔外科と高知市歯科医師会の合同研修会で講演することが目的であった。両親が亡くなって以来、高知とはすっかり縁遠くなってしまったが、高知を離れて42年経った今でも高知は私のアイデンティティの源である。今回は足摺岬まで車で足を伸ばしたが、道すがら両親と同じ道を走ったときの記憶が次から次へと蘇ってきた。両親が生きていたとき、私は決して両親と仲がよくなかった。特に父親とは話せばすぐ喧嘩になった。1年以上会話しない時期もあった。しかしそんな時期でも父親はずっと私に愛情を抱き続けてくれていたことを、父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れた後、知った。実家の近隣の人たちがいろいろな父親との思い出話を私に聞かせてくれたのだ。

東京と高知を往復しながらの介護は肉体的にも精神的にも大変であった。東京にいても、いつ病院から電話が入るかもしれない。気持ちは常に張りつめていた。高知に帰る際に乗る飛行機は必ず始発便であった。朝5時に起き、重い荷物を抱えてまっ暗い道を駅までかけていった。高知に帰っても休む暇はなかった。雑用に終われ、両親の面会に病院を訪れることすらままならなかった。東京に戻るのは月曜日。平日でなければ済ませられない用事がたくさんあったからだ。月曜日には朝食も昼食も摂る時間がなかった。夕方、帰りの飛行機を待つ短い時間に空港のレストランでうどんを呑み込んだ。

孤独であった。両親と相談しながら介護を行うことさえできたならば、どんなに忙しくともあのような孤独感に苦しむことはなかっただろうと思う。

2017年10月24日火曜日

叔父の墓参り

11月16日から19日まで高知に帰省した。その際に叔父の墓参りをした。この叔父は2012年9月に亡くなった。そのときの衝撃は、叔父の妻の心から今も抜けないという。 この叔父を私はとても尊敬していた。頭が良かったからだけではない。どんな苦労をしていても愚痴ひとつ漏らさず、黙々と苦労に立ち向かっている叔父の生き様が私には美しいと感じられた。 

叔父の墓は、高知龍馬空港に近い小高い山の中腹にある。今年は叔母(叔父の未亡人)とふたりでその墓を訪れた。

叔父の墓碑には「享年77歳」と刻まれていた。おそらく数え年であろうと叔母は言った。

叔母は満年齢で78歳になるという。叔母は、今も、叔父の死が悲しくて仕方がないようだ。叔父と叔母の間には二人の息子がいるが、二人ともまだ独身である。子孫が絶えるかもしれないことも叔母はたいそう気に病んでいる。

私の父親は2014年に亡くなった。その翌年、母親も亡くなった。両親の墓地は東京にある。高知からはすっかり縁遠くなった。高知に帰省した際に叔父の墓前で手を合わせることは、私の帰省時の儀式になった。


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11か月ぶりの帰省

久しぶりに高知に帰省した。両親がなくなってから、高知からはすっかり足が遠のいていた。今回帰省したのは、母校である高知学芸高等学校の1年生に対して進学ガイダンスを行うためであった。卒業生にとり、後輩たちに対して母校で授業ができることほど嬉しいことはない。みずみずしい感受性溢れる生徒たちと話すことも実に楽しい。授業が終わった後の先生方との懇親会もとても有意義であった。母校の現状を憂えている卒業生は少なくない。私も何人かの先生方に対して自分の思いを率直に話させていただいた。どの先生も真剣に私の話に耳を傾けてくださった。

数年前に母校に訪れたときと比較して、校舎は少し古くなっているように感じられた。しかし校庭にも校舎内にも塵は落ちていなかった。綺麗に掃除されていた。

学校の敷地に接して男子寮がある。この寮も建て替えられてからかなり年月が経っているように見えた。寂しいことに、私が寮生活を送っていた時期には寮生が280人余りいたが、今、寮生はわずか30人しかいないという。地方の経済が疲弊し、高知市から遠く離れた地域に住む子どもたちに親元を離れて生活させる経済的余裕がなくなったことが寮生減少の主な原因であるということであった。空き部屋が多くなったため、当時は二人部屋であったが今は個室になっているという。また寮内に寝泊りしている寮母さんもいなくなったとのことであった。私が寮生活を送っていたとき、私はたびたび寮母さんの部屋を訪れ、いろいろな悩みを聞いてもらった。当時、3人いた寮母さんたちは、親元から離れて暮らす寮生たちの母親代わりであった。

 少子高齢化と地方経済の疲弊は、私の母校にも情け容赦なく暗い影を投げかけている。

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2017年6月5日月曜日

軽井沢にて イングリット・フジコ・ヘミング ピアノ ソロ リサイタル 2017

6月3日と4日、軽井沢に行った。今回も家内とふたりであった。息子は6月3日に水泳の試合があるため来なかった。6月4日にも水泳の練習があるとのことであった。

ラッキーだったのは、軽井沢大賀ホールで6月4日にも開かれたフジコ・ヘミングのピアノリサイタルの当日券が手に入ったこと。彼女は既に80歳を越している。もう彼女の生演奏は聴けないかもしれないと思っていた。

演奏は素晴らしかった。彼女が奏でるピアノの旋律に引き込まれていった。あのまろやかな音色はどうやって出しているのであろうか。ピアノがいいからなのであろうか。それとも彼女の演奏の技術か。

私が引き込まれたのはピアノの音色だけではなかった。音の世界そのものの中に吸い込まれていった。彼女が最後に演奏したラ・カンパネラは神がかっていた。

リサイタルが終わって大賀ホールの外に出ると、まだ日差しが強く、空気は澄み切っていた。




  

2017年5月28日日曜日

川添亜希 ピアノリサイタル

昨日、ルーテル市ヶ谷ホールで行われた川添亜希ピアノリサイタルに招待していただいた。楽しいひと時を過ごした。

「特攻の町 知覧」 (著)佐藤早苗 光人社NF文庫 を読み終えた

さきほど、「特攻の町 知覧」を読み終えた。

2017年5月23日火曜日

「月光の夏」 毛利恒之 講談社文庫

鹿児島県の知覧。ここには第二次世界大戦中、特攻隊の基地があった。現在、ここには知覧特攻平和会館がある。私はこの知覧特攻平和会館を2度訪れた。2度目にこの会館を訪れたときに会館の売店で買った文庫本の一冊を昨日読んだ。「月光の夏」という本であった。

知覧の特攻隊について書かれた本としてはは3冊目であった。最初に読んだのは「知覧からの手紙」。これは特攻隊に志願し戦死した婚約者との思い出を綴った手記である。この本をどこで買ったのかは記憶がない。この本を買ったときには知覧がどこにあり、どのような場所であったのかすら知らなかった。この手記を読んで、初めて、「知覧」という言葉の思い意味について知った。数年前に私が知覧を訪れるきっかけとなった。

2度目に知覧を訪れたのは昨年の6月であった。このときに記念館の売店で買ったのが昨日読んだ「月光の夏」であった。いっしょに買った「ホタル帰る」は昨年読んだ。

人の死は残された人のその後の人生を大きく変える。私の伯父も戦死したが、残された妻と子の人生を大きく狂わせた。狂わされるのは恋人や家族だけの人生ばかりではない。故人と全く関わりを持たなかった人たちの人生にも影響を与える。

残された人たちに課された使命は、日本のために命を落とした多くの特攻隊員たちの死が決して無駄ではなかったことを示すことであろう。

残念ながら外交努力だけで国民の安全を守ることはできない。平和憲法を叫ぶだけでも平和は守れない。

2017年5月20日土曜日

日本耳鼻咽喉科学会に出席して

今、広島から東京に戻るのぞみに乗っている。広島で開かれた第118回日本耳鼻咽喉科学会に出席していた。水曜日と木曜日の夜は新神戸のホテルに泊まり、昨夜だけ広島のホテルに泊まった。新神戸に泊まったのは、広島のホテルが予約できなかったためである。

水曜日の晩には、広島に住む知人が三宮まで出て来てくれいっしょに食事をした。彼女は51歳。結婚はしているが子はいない。自称、おっさん。私は、彼女のご主人には仕事の件でいろいろとお世話になっているが、ご主人はその晩、ちょうど私と入れ替わるように東京に出張していた。私は彼女の妹さんとも面識があり、美味しい穴子料理を食べながら、妹さんの話題で話が盛り上がった。彼女のご両親の話も出た。お父様は生前、ある大学の教授であった。そのお父様の定年退職後の生活を彼女から聞かされ、私自身もそのような老後を送りたいと心から思った。お母様はまだご健在。姫路の実家を引き払って横浜に住む妹さんと一緒に住むという。

食事の後、私が宿泊していたホテルの喫茶室に移動。そこで1時間ほど話した。私たちがその喫茶室を出たときには、客は私たちだけであった。彼女を新神戸駅まで見送った。彼女は新幹線で姫路まで帰った。彼女が家に帰り着くとご主人が1本早い新幹線で東京からですと姫路に帰っていたということであった。

木曜日には学会会場で偶然、20年前に一緒に働いた後輩と出会い、広島駅のなかのレストランでいっしょに夕食をとった。彼女も既に50歳。二人の子がいるが、上の女の子はイギリスに留学しているということであった。下の男の子は私の息子と同い年。都内の大学の医学部に入学したという。

彼女は私の留学中に結婚した。相手はアルバイト先の病院の整形外科医であった。昔話で話がはずんだ。彼女の二人の妹さんはいずれも独身だということであった。彼女は独身の妹さんの生き方に強い共感を抱いていた。彼女は毎日、東京から静岡県の三島まで出かけ、実家のお父様が院長を務めるクリニックを手伝っている。仕事中はしょっちゅうお父様と喧嘩をするという。東京と三島との間を往復するのは大変であるが、彼女が実家に泊まらないのは、お父様との喧嘩を避けたいからであるということであった。

昨日は、午後、宮島の厳島神社に出かけた。船に乗る際に偶然、北海道の病院に勤めている別の後輩に会った。彼はその2日前にも宮島を訪れたが、満潮の時間でなかったので、再度、宮島を訪れたかったとのことであった。宮島では彼の案内で厳島神社を観て回った。私はぼうっとしていたが、彼はしきりに私に話しかけてきた。嬉しかった。彼は5年余り前に横浜の病院を退職して医局も辞め、奥様の実家のあるが北海道に行った。彼が北海道に行くということを聞いたとき、私はひどく驚いた。彼の奥様も医師であるが、子育てが一段落しても医師として働く気はないという。奥様の趣味は昆虫採集であり、それに関連した施設でアルバイトをしているという。彼が北海道に行った最も大きな理由は、奥様のご両親に子育てを手伝ってもらうことによって奥様を医師として働かせてあげたいという希望があったからだと彼は話した。その彼の希望は、奥様がそれを望まないために叶わなかった。しかし医師免許を取得したからといって医師として働く必要はない。

私は、彼が全てを投げ打って北海道に移住した勇気を心の中で称賛し、その気持ちを彼にも伝えた。

今、広島から東京に戻るのぞみの中である。ちょうど小田原を通過した。もうすぐ東京に着く。今回はほとんど学会場を離れなかった。いろいろな意味で収穫の多い学会出張であった。

2017年5月3日水曜日

息子の19歳の誕生日

きょう(5月3日 憲法記念日)は息子の19歳の誕生日である。息子が生まれて以来、一度も欠かさずこの日は軽井沢で過ごしてきた。しかし、今年は、息子はいない。今年、大学生となった息子は、昨日、水泳部の新入部生歓迎合宿に出かけた。自分の誕生日を新潟県の柏崎市で迎える。
 
核家族化した現在、自分の子と生活する期間は長くない。幸い、息子は自宅から通学するので、息子が24歳になるまでは一緒に暮らせるかもしれない。これは長い方であろう。私は16歳(高校2年)のとき自宅を離れ、寮生活を始めた。以来、両親と一緒に暮らすことはなかった。
 
東京で暮らす私に、高知に戻ってくれと両親から言われたことはない。しかし、このことは両親が最も口に出したかったことであったに違いない。

2017年4月21日金曜日

自家中毒(周期性嘔吐症)と南病院

私は幼小児期、病弱であった。実家から2キロほど離れた場所に小さな診療所があったが、その診療所を何度受診したことか。

今でも忘れられないのは、小学校2年生のときに自家中毒で高知市内の病院に入院したことである。

体調が悪くなったのは9月の初めであった。身体がだるくなった。しかし学校が大好きだった私は無理を押して登校した。しかし午後になると立っていることすらできなくなり、ほとんど毎日、先生に自転車で自宅まで送ってきてもらった。私を自宅まで送り届けてくれた先生はその都度違った。先生方も大変であったろう。学校から自宅まではわずか10数分間であったが、自転車の後部座席に座って身体を支えていることすらつらかった。家に帰り着くと私は這いつくばるようにして畳の上に身体を横たえた。どのようにして私が家に送り届けられてきたのかを知ったのかはわからなかったが、私が自宅に戻ると、農作業に出ていた家族の誰かが帰宅してきてくれた。

いくつかの病院を受診した。しかし、どの病院を受診しても寝冷えとしか診断されなかった。そして、梨は消化がよくないので消化のいい林檎を食べさせるようにといったお決まりの指導を受けて帰宅した。その間にも体調はどんどん悪化していった。

発症してから2週間ほどほど後であったであろうか、実家のご近所の方が高知市内にある南病院という小児科を勧めてくれた。そしてその方がご自分の自動車を運転して私をその病院まで連れていってくれた。私は後部座席に座り母親の膝の上に上体を横たえた。このときには父親も同伴してくれた。父親は助手席に座った。

病院に着くと直ちに尿の検査を受けた。私は洗面所の中で立ったまま排尿し母親が紙コップで採尿してくれた。そこまでははっきりと記憶している。しかし、それから後の記憶がプツッと記憶が途絶えている。洗面所から出てきた記憶すらない。洗面所のなかで意識がなくなったのかもしれない。

私が意識を取り戻したのは日暮れどきであった。西日が病室に差し込んでいた。ベッドのそばの椅子に母親がじっと座っていた。父親はいなかった。私が意識を取り戻したことに気づいた母は、私は3日間意識がなかったと言った。そして主治医からは、あと3日間その病院を受診するのが遅かったならば私は死んでいたと言われたと語った。しかし当時はまだ祖父母も健在であった。したがって私は肉親の死を経験したことがなかった。私自身の死についても実感はなかった。

意識が回復した翌日、クラスメートたちからの見舞いの手紙がまとめて届いた。私が入院してからわずか数日後にそれらの手紙がまとめて届いたことに私は驚いた。おそらく授業時間を割いて手紙を書いてくれたのであろうと想像した。私はベッドに横たわりながらひとつひとつの手紙に目を通した。残念なことに、それらの手紙の細かな内容は覚えていない。あれから50数年経ったのであるから忘れて当然であろうが。

意識が戻ったあと私の体調の回復は速かった。その病院は木造であり階段の傾斜は急であったが、私はその階段を何度も昇り降りして遊んだ。当時の我が家は平屋であり階段はなかった。階段を昇り降りするだけでも楽しかった。しかし入院生活は退屈であった。1日も早く帰宅したかった。私は意識が戻った3日後に退院を許された。

復学した私は、入院中に手紙をくれたクラスメートたちに礼を言わねばと思った。しかし、一人一人に礼を言った記憶はない。私は当時から礼を欠く人間であったようだ。

私はその秋に開催された運動会を休んだ。

その後、しばらくの間、我が家では自家中毒のことがたびたび話題に上った。ご近所の子供が自家中毒で命を落としたことがあったといったことも父親から聞かされた。自家中毒という病気は、当時は一般の医師にはあまり知られていなかったのかもしれない。

私が入院した病院は高知城の近くにあった。数年前に高知市内の大通りを車で通ったときに、病院の屋上に建てられている「南病院」という看板を目にした。病院はまだ同じ場所にあったが木造ではなく鉄筋になっていた。この病院の看板を見かけたとき、私はこの病院に向かって一礼した。

入院してから50数年経った今も、こうして一人の患者が思い出深く自分の病院を思い出していることを、この病院に勤務している職員はだれも知るまい。

2017年4月15日土曜日

祖父

祖父は私が物心ついた頃には既に私の父親に家督を譲り隠居の身であった。三男であった父親がどのような経緯で我が家の跡取りとなったのか、詳しい経緯を私は知らない。父親の1番上の兄は戦死していたが2番目の兄は生きていた。私の両親が結婚したのは昭和29年。父親が21歳、母親が18歳のときであった。母親が我が家に嫁いでくるとき、國弘家の跡取りは2番目の兄であり、三男である私の父親は家を出ることになっていると母親は私の祖母(母親の義母)から聞かされていたという。次兄が跡取りにならなかった理由を私が知ったのは数年前であった。恋愛結婚した次兄が妻の実家の近くに居を構え実家に戻らなかったから私の父親が跡を嗣ぐことになったと母親は言った。

我が家の仏壇には戦死した父親の長兄の遺影が飾られていた。私の祖父は毎日仏壇に手を合わせた。おそらく戦死した長男(私の伯父)の霊に語りかけているのだろうと私は思った。しかし、亡くなった長男のことについて祖父が話したことは一度もなかった。戦死した私の伯父の思い出話をしてくれたのは私の父親であった。伯父が出征したとき、伯父夫婦にはまだ1歳にもならない幼子がいた。父親の話では、伯父は出征にあたり、駅まで見送りにきた家族の前で幼い我が子を抱きしめながら別れを告げたという。伯父は終戦の昭和20年7月15日にフィリピンのレイテ島で戦死した。終戦のわずか1ヶ月前であった。この1ヶ月が母子のその後の人生を大きく変えた。私の父親は残された一人息子を不憫に思い、彼にひとかたなぬ愛情を注ぎ続けた。

前後の経緯は知らないが、伯父の子が中学校を卒業して間もない頃、一人で大阪から高知に帰ってきたことがあったという。当時は交通機関は発達しておらず、地図もない。15歳そこそこの子供が汽車を乗り継ぎながら大阪から高知まで戻ってくることは難しかったにちがいない。彼は見知らぬ人に電車の乗り方を何度も尋ねながらやっとのことで高知に帰り着いたという。私の父親はこの話をことあるたびに私に話した。そしてその度に「惨かった」とつけたした。「惨かった(むごかった)」とは、哀れでならなかったという意味である。(「惨かった」という表現は土佐弁なのかもしれない。)父親には我が子のことのように感じられたのであろう。

私が小さい頃、父親はその甥にもらったという腕時計を身につけていた。そんな腕時計を叔父(私の父親)にプレゼントできるのだから、彼(私にとっては従兄)はきっと裕福な生活をしているのだろうと私は勝手に思い込んでいた。しかしそれは大きな間違いであった。彼は生涯貧乏であった。

彼は10数年前に膀胱癌で亡くなった。彼の死後、彼の妻や3人の子たちとの縁は切れた。彼らがもう高知県内に住んでいないことは人伝に聞いたが、何県に住んでいるのかすら知らない。

彼(私の従兄)についてはもうひとつ思い出がある。彼が3人の娘を車に乗せて私の実家に来たとき、私に向かって、子供の頃は寂しかったとしみじみと話したことがある。そして傍らで遊び興じている3人の娘たちを見やりながら次のように言った。「この子たちには経済的なことは何もしてやれん。けんど親の愛情は伝えることができるけんのう。」彼は子どもの頃の貧乏暮らしが辛かったのではなく、父親からの愛情が欲しくてたまらなかったのであろう。彼の3人の子たちは、おそらく自分たちの父親(私の従兄)が大好きなのに違いない。その子たちの明るい表情を見て私はそのときそう思った。

当時、私にはまだ子がいなかったが、子は金で育てるものではない。子は親の愛情を吸い取りながら育っていくものなのだろうと感じた。

祖父の思い出を語るつもりであったのに話が傍に逸れてしまった。

2017年4月8日土曜日

祖母

私の祖母の名は國弘春衛(くにひろはるえ)。私が小学校2年生のときの大晦日に亡くなった。この祖母はしょっちゅう私の父親と喧嘩をしていた。だから祖母の気性もきっと荒かったのであろう。ただ、祖母については私がまだ幼かった頃までの記憶しかないので本当の祖母の性格がどうだったのかはよくわからない。

この祖母は、私が小学生になったとき、「これからは子守ができなくなる」と言って、とても残念がったという。祖母が残念がった本当の理由はわからない。また農作業をしなければならなくなるのがいやだったのかもしれない。ただ、このことを私に話してくれた従姉の口調からは、きっと祖母は子守が楽しかったからそのようなことを言ったのだろうと感じた。

確かに私は祖父母に可愛がられた。祖母が存命中は両親の寝室で寝ることよりも祖父母に挟まれて寝ることが多かったように思う。当時の我が家には囲炉裏があった。いつも私は胡座を組んでいる祖父の膝の上に座った。私が祖父の膝の上に乗ると、祖父は火箸を使って灰に文字を書き、漢字を教えてくれた。しかしいつも同じ漢字であった。祖父が書いてくれた漢字は「杉」だけであった。「松」も「檜」も教えてくれたことはなかった。尋常小学校しか出ていなかった祖父が多くの漢字を知るはずもなかった。

対照的に、私の姉は祖父母と一緒に寝たことがなかった。祖父母を姉と奪い合った記憶はないが、祖父母を弟である私にとられてしまったように姉は感じていたかもしれない。姉は両親と一緒に寝なくなった後、一人で別室で寝るようになったが、その時期を私は憶えていない。私自身もいつから一人で寝るようになったのか定かな記憶がない。祖母の死がきっかけであったのかもしれない。

1994年の春、父親が亡くなる直前に、私は先祖代々の土葬の墓を東京に移した。改葬にあたっては実家の裏山にあった全ての墓を掘り起こした。墓は29柱あった。しかし遺骨が見つかったのは祖父母のものだけであった。他の墓石の下からは何も出てこなかった。不思議なことに、祖父よりも18年早く亡くなった祖母の遺骨が多く残っていた。祖母の遺体はビニール袋に包まれていたため、骨が溶解するのが遅かったのかもしれない。祖母の墓からは櫛の他、いろいろな遺品が出てきた。

現在、祖父母の遺骨は、両親の遺骨と同じ墓に納められている。改葬に付き添ってくれた私の息子は、この墓が高知の片田舎から移されたことを忘れないだろう。しかし将来生まれるであろう息子の子たちは、我が家の代々の墓がどこから移されてきたのか、その地名すら知ることがない可能性が高い。私が生まれ育った故郷を思い出してくれるのは私の一人息子までである。

2017年2月3日金曜日

読者からの贈り物


私のブログを読んでくださっている患者さんが何人かいる。何年か前まではブログをたびたびアップロードしていた。しかし、数年前からその回数がめっきり減った。私があまりブログを更新しなくなったのは、書くことがはばかられることが私の身辺で次から次へと起きたからである。

私がなぜブログを書くのは、私が息子に遺せる唯一の財産だと思うからである。他人に読んでもらうことが目的ではない。

ただ、私のブログを読んで感動したといった話を読者から聞かされると嬉しく感じることは確かである。(時に、実に不愉快なコメントが届くことがないわけではないが。)

亡くなった私の母親は「滿子(みちこ)」といった。そのことを知った一人の読者から下のようなものが届けられた。