2017年4月15日土曜日

祖父

祖父は私が物心ついた頃には既に私の父親に家督を譲り隠居の身であった。三男であった父親がどのような経緯で我が家の跡取りとなったのか、詳しい経緯を私は知らない。父親の1番上の兄は戦死していたが2番目の兄は生きていた。私の両親が結婚したのは昭和29年。父親が21歳、母親が18歳のときであった。母親が我が家に嫁いでくるとき、國弘家の跡取りは2番目の兄であり、三男である私の父親は家を出ることになっていると母親は私の祖母(母親の義母)から聞かされていたという。次兄が跡取りにならなかった理由を私が知ったのは数年前であった。恋愛結婚した次兄が妻の実家の近くに居を構え実家に戻らなかったから私の父親が跡を嗣ぐことになったと母親は言った。

我が家の仏壇には戦死した父親の長兄の遺影が飾られていた。私の祖父は毎日仏壇に手を合わせた。おそらく戦死した長男(私の伯父)の霊に語りかけているのだろうと私は思った。しかし、亡くなった長男のことについて祖父が話したことは一度もなかった。戦死した私の伯父の思い出話をしてくれたのは私の父親であった。伯父が出征したとき、伯父夫婦にはまだ1歳にもならない幼子がいた。父親の話では、伯父は出征にあたり、駅まで見送りにきた家族の前で幼い我が子を抱きしめながら別れを告げたという。伯父は終戦の昭和20年7月15日にフィリピンのレイテ島で戦死した。終戦のわずか1ヶ月前であった。この1ヶ月が母子のその後の人生を大きく変えた。私の父親は残された一人息子を不憫に思い、彼にひとかたなぬ愛情を注ぎ続けた。

前後の経緯は知らないが、伯父の子が中学校を卒業して間もない頃、一人で大阪から高知に帰ってきたことがあったという。当時は交通機関は発達しておらず、地図もない。15歳そこそこの子供が汽車を乗り継ぎながら大阪から高知まで戻ってくることは難しかったにちがいない。彼は見知らぬ人に電車の乗り方を何度も尋ねながらやっとのことで高知に帰り着いたという。私の父親はこの話をことあるたびに私に話した。そしてその度に「惨かった」とつけたした。「惨かった(むごかった)」とは、哀れでならなかったという意味である。(「惨かった」という表現は土佐弁なのかもしれない。)父親には我が子のことのように感じられたのであろう。

私が小さい頃、父親はその甥にもらったという腕時計を身につけていた。そんな腕時計を叔父(私の父親)にプレゼントできるのだから、彼(私にとっては従兄)はきっと裕福な生活をしているのだろうと私は勝手に思い込んでいた。しかしそれは大きな間違いであった。彼は生涯貧乏であった。

彼は10数年前に膀胱癌で亡くなった。彼の死後、彼の妻や3人の子たちとの縁は切れた。彼らがもう高知県内に住んでいないことは人伝に聞いたが、何県に住んでいるのかすら知らない。

彼(私の従兄)についてはもうひとつ思い出がある。彼が3人の娘を車に乗せて私の実家に来たとき、私に向かって、子供の頃は寂しかったとしみじみと話したことがある。そして傍らで遊び興じている3人の娘たちを見やりながら次のように言った。「この子たちには経済的なことは何もしてやれん。けんど親の愛情は伝えることができるけんのう。」彼は子どもの頃の貧乏暮らしが辛かったのではなく、父親からの愛情が欲しくてたまらなかったのであろう。彼の3人の子たちは、おそらく自分たちの父親(私の従兄)が大好きなのに違いない。その子たちの明るい表情を見て私はそのときそう思った。

当時、私にはまだ子がいなかったが、子は金で育てるものではない。子は親の愛情を吸い取りながら育っていくものなのだろうと感じた。

祖父の思い出を語るつもりであったのに話が傍に逸れてしまった。

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