私の祖母の名は國弘春衛(くにひろはるえ)。私が小学校2年生のときの大晦日に亡くなった。この祖母はしょっちゅう私の父親と喧嘩をしていた。だから祖母の気性もきっと荒かったのであろう。ただ、祖母については私がまだ幼かった頃までの記憶しかないので本当の祖母の性格がどうだったのかはよくわからない。
この祖母は、私が小学生になったとき、「これからは子守ができなくなる」と言って、とても残念がったという。祖母が残念がった本当の理由はわからない。また農作業をしなければならなくなるのがいやだったのかもしれない。ただ、このことを私に話してくれた従姉の口調からは、きっと祖母は子守が楽しかったからそのようなことを言ったのだろうと感じた。
確かに私は祖父母に可愛がられた。祖母が存命中は両親の寝室で寝ることよりも祖父母に挟まれて寝ることが多かったように思う。当時の我が家には囲炉裏があった。いつも私は胡座を組んでいる祖父の膝の上に座った。私が祖父の膝の上に乗ると、祖父は火箸を使って灰に文字を書き、漢字を教えてくれた。しかしいつも同じ漢字であった。祖父が書いてくれた漢字は「杉」だけであった。「松」も「檜」も教えてくれたことはなかった。尋常小学校しか出ていなかった祖父が多くの漢字を知るはずもなかった。
対照的に、私の姉は祖父母と一緒に寝たことがなかった。祖父母を姉と奪い合った記憶はないが、祖父母を弟である私にとられてしまったように姉は感じていたかもしれない。姉は両親と一緒に寝なくなった後、一人で別室で寝るようになったが、その時期を私は憶えていない。私自身もいつから一人で寝るようになったのか定かな記憶がない。祖母の死がきっかけであったのかもしれない。
1994年の春、父親が亡くなる直前に、私は先祖代々の土葬の墓を東京に移した。改葬にあたっては実家の裏山にあった全ての墓を掘り起こした。墓は29柱あった。しかし遺骨が見つかったのは祖父母のものだけであった。他の墓石の下からは何も出てこなかった。不思議なことに、祖父よりも18年早く亡くなった祖母の遺骨が多く残っていた。祖母の遺体はビニール袋に包まれていたため、骨が溶解するのが遅かったのかもしれない。祖母の墓からは櫛の他、いろいろな遺品が出てきた。
現在、祖父母の遺骨は、両親の遺骨と同じ墓に納められている。改葬に付き添ってくれた私の息子は、この墓が高知の片田舎から移されたことを忘れないだろう。しかし将来生まれるであろう息子の子たちは、我が家の代々の墓がどこから移されてきたのか、その地名すら知ることがない可能性が高い。私が生まれ育った故郷を思い出してくれるのは私の一人息子までである。
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