2019年5月6日月曜日
2019年5月5日日曜日
姉 2
父親が倒れた直後に姉と姉の長女は両親との絶縁を私に告げた。そして程なく私とも絶縁した。父親に続いて母親も緊急入院した日には、姉は、家族会議を開き、家族全員が國弘家と縁を切ることを決めたと実家のご近所の人に告げた。
姉が國弘家と絶縁することを決めたきっかけは、私の母親が、娘である私の姉に対して「幸伸に少し多めに遺産を残したい」と告げたからであるという。このことは姉の長女から聞かされた。それは父親が倒れて入院した約2週間後の2013年7月15日の夜のことであった。
私は驚いた。遺産相続について、私はそれまで、父親とも母親とも全く話したことがなかった。ただ、そのことを姪から聞かされたとき、私は母親の考えがわかった。
母親は、自分の夫(私の父親)にも姉の家族にも内緒で、多額の経済援助を姉に行なっていていた。当然、父親は父親で別途、姉の家族に経済援助を行った。父親から姉の家族に対する援助については姉の家族は全員知っていた。そのことが姉は気に入らず、父親が死ぬまで父親をなじり続けた。姉は、父親からよりも多くの金銭援助を私の母親から受け続けていたが、この援助は母親と姉との間だけの秘密であった。つまり私の父親はほとんど自分の妻(つまり私の母親)からの援助については知らなかった。ただ、母親は、自分が姉の家族に対して一所懸命経済援助していることを私には隠さず話した。我が家の財布は全て父親が握っていたが、父親は数万円の金を財布から抜かれても全く気がつかなかった。大金を今の畳の上に放りっぱなしにしていたところ、それが盗難に遭ったこともあったという。母親は父親の財布から毎回数万円から10数万円の金を抜き取っては姉に対してこっそり渡した。たまに姉の長女が実家に来てくれたときには、その長女に、姉に渡してくれるようにと大金を預けていた。(このことは実家のご近所の人が目の前で見ている。)母親が姉に与えた援助は2千万円を下らないはずである。母親は、姉の夫の生命保険の掛け金も負担していた。姉の子供たちの成人式の振袖も母親が買ってあげたものであった。冷蔵庫が故障としたときに新しく冷蔵庫を買い換えてあげたのも母親であった。育ち盛りの子供を4人抱えた姉を助けるために実家のご近所の畑を借りて野菜を栽培し、姉の家に毎日のように届けたのも母親であった。姉の家までは、車で片道40分かかった。仕事が忙しくて姉の家に行けないときには、宅配便で食料を送っていた。
ところが、姉は、実家は一円も援助してくれないと、両親がなくなるまで親戚や実家のご近所の人たちに言い続けた。私と電話で話すときにも、話題はいつもそのことであった。母親を病院に見舞ってもバス代すらくれないと言って姉は母親を激しく非難した。
私は「そうかえ」としか言わなかった。実家から多額の援助を受けていることを知られると夫から叱られると姉は私と私の家内に告げていたからである。姉のプライドを傷つけては行けないと考え、私は知らないふりを続けた。
しかしこれは失敗であった。実家から姉がどれほどの援助を受けているのかを私はきちんと姉の子供たちには告げておくべきであった。特に姉の長女の悪態には耳と目を覆わざるを得ないことが度々あった。
姉の長女のことを思い浮かべた際にいつも連想するのは、韓国の慰安婦である。慰安婦たちが日本を批判するために述べていることはあまりにも荒唐無稽なことばかりであるが、姉の長女が私や関係者に話した荒唐無稽な事柄は韓国の慰安婦の陳述と差がない。
姉からも、姉の子供たちからも、一言も私の両親(つまり彼らの母方の祖父母)に対する感謝の言葉を私は一度たりとも耳にしたことがない。
姉 1
私の父親は2013年6月に出血生脳梗塞で倒れた。2度目の梗塞発作であった。梗塞範囲の広さをCTで見せられた私は、もう父親が全快することはないと諦めた。しかしたとえ意識は回復しなくとも数十年間生きるかもしれない。その一方、実家で一人暮らしとなった母親は身体が不自由でトイレにすら歩いていくことができない。私は両親をどのようにして介護しようかと途方にくれた。
こんな大変な時期に、私の姉は一方的に両親に対して絶縁を告げた。私とも縁を切ってきた。姉と姉の長女の話があまりにも荒唐無稽なので、姉と姉の長女が私と私の家族および私の両親と一方的に縁を切ってきた正確な理由はわからない。ただ、姪の話から推測すると、私の母親が「幸伸に対して友子によりも大目に遺産を遺したい」といったことが最大の理由のようである。
私の姉は、1日も早く父親に死んでもらいたい。遺産が欲しいからと私に繰り返し言っていた。このことからも姪の話は信用していいであろう。
下の音声は、父親が倒れて約1ヶ月後に私によこしてきた留守番メッセージである。ここでは一切の説明を加えない。後日、このメッセージの解説をしようと思う。
保証人
10年以上前のことになるかもしれない。私の姉の次女、つまり私の姪が、突然私の自宅を訪ねてきた。勤めていた白木屋を辞めて転職したため、引っ越さなければならなくなった。新たに家を借りるにあたって保証人が必要である。私に保証人になってもらえないかということであった。
どんな些細なことであっても保証人になることは大変である。姪が家賃を払わないというようなことは心配しなかった。私が心配したのは、もし姪が火事でも起こすようなことがあったならば大変なことになるということであった。
私は、両親に保証人になってもらえないかと姪に尋ねた。姪は、転職したことも引っ越すことも両親には話していない。私からも離さないでもらいたいと言った。当然、私に保証人になってくれと頼んだことも口外しないでもらいたいと姪は言った。
親子の間に何かがあったのであろうと私は推測したが、全くそのことについては姪に訊かなかった。私の家内は私が保証人になることに反対であったが、しばらく考えた上で私は保証人を引き受けることとした。そしてその場で不動産の契約書に捺印した。
しかし姪からはその後、なんの音沙汰もなかった。
ところが、それから2年ほどして、突然、姉と私の母親から激しい口調で電話がかかってきた。姪の保証人になったことを何故親である私の姉に離さなかったのかと2人は激怒していた。私には全く意味がわからなかった。私が保証人を引き受けた当時、既に成人になっていた姪から、両親には話さないでもらいたいと言われていたから私は話さなかっただけである。私が保証人を引き受けたことに感謝されこそすれ、私が姪の母親である私の姉からも、姪の祖母にあたる私の母親からも非難される理由は何一つない。
ふたりからは約2週間にわたって繰り返し私に電話がかかってきた。私の母親は「なぜ保証人になったことをお姉ちゃんに話さなかったのか」と言って私を叱りつけた。私は「成人になっている姪から、口外しないでもらいたいと強く依頼されたことをどうして話さなければならないのか」と反発した。しかし、母親は何一つ理由を言わなかった。
私は事情を姪本人から聞こうとして姪に電話をかけた。しかし姪は私からの電話をとるやいなや一方的に切った。そしてその後は、私が姪に電話をかけても反応がなかった。
しばらくして、姪から手紙が届いた。その手紙には、私の姉がいかにひどい母親であるかということが綴られていた。そして私の姉は他人の悪口しか言ったことがないとも書かれていた。まさにそのとおりであった。私の姉は生まれてこの方、私が知るかぎり、一度しか人を褒めたことがない。
皮肉なことに、この姪は、私と私の姉との間で裁判が持ち上がった際に、いかに姪が母親である私の姉を尊敬し慕っているのかという証言を裁判所に提出してきた。
姉も姉の家族も、例外なく全員が、このレベルである。
海野宿と「うだつが上がらない」
昨日の朝、軽井沢から東御市にある海野塾に行った。海野塾は江戸時代の北國街道の宿場町である。真田家とも関係の深い町であったが、昨年のNHKの大河ドラマ「真田丸」ではほとんど取り上げられることがなかった。そのためか、今もこの旧宿場町を訪れる観光客は少ない。しかし町の景観は江戸時代のままをとどめている。住民の教育レベルも高いという。この町を散策しながら何人かの住民と雑談を交わしたが、皆、言葉遣いも丁寧で品格が感じられた。
この町の建物で目を引いたのは、うだつ(梲)のある家が多かったことである。ひとりの住民からは、うだつは経済的に成功したことを示していると教えられた。この旧宿場町は養蚕業の日本での総元締めとして栄えたということであった。そのことから、住民のプライドは今も高く商売が下手であるが、教養や学歴が高い人が多いらしい。上述したように、住民の言葉遣いはとても上品であったことからもそれは頷けた。
道路にはちりひとつ落ちていなかった。観光化され伝統美を失ってしまった馬籠宿や奈良井宿よりもはるかに魅力ある街並みが軽井沢からわずかに20数キロ先にあることをつい先日まで知らなかったことが不思議でならない。
2019年4月16日火曜日
叔母
両親が亡くなってからは、高知に帰省する機会がめっきり減った。昨年帰省したのは2回だけであった。
帰省した際には、私は必ず叔父(私の母親の弟)の墓に参拝する。叔父の墓は高知龍馬空港近くの小高い山の南斜面にある。この叔父を私は子供の頃からずっと尊敬していた。
未亡人となったこの叔父の妻とも私は血縁関係にある。
この未亡人の家を私はよく訪問し、思い出話を聞かせてもらう。高校卒業と同時に東京に出てきた私は、実家の近隣の人たちとも親戚ととも接触がきわめて少なかった。自分の両親が日頃どのような生活を送っているのかすらほとんど知らなかった。数ヶ月以上、電話でですら両親と話を交わさないことも珍しくなかった。
未亡人から聞かされる話はどれも新鮮である。亡くなった叔父とこの未亡人は実に正直な生き方を通してきた。叔父が勤めていた会社が倒産したりとなにかと経済的には苦しかった時期もあったであろうが、金銭に関しても実に潔癖であった。私の父親がこの夫婦を最も頼りにしていたのも頷けた。
父親が亡くなったあとも、私は引き続き2週間に1回の頻度で帰省し、母親を見舞った。仕事を犠牲にして東京からはるばる高知まで帰ってきているのに一度も私が愚痴をこぼさないことに母親は感謝し喜んでいたということをこの未亡人から聞かされたのは、昨年の秋にこの未亡人宅を訪れたときであった。
私の母方の祖母は生前、長期にわたって入院生活を送っていたが、その祖母がどのような経緯で家を出されたのかについてもその未亡人から聞かされた。その経緯を聞かされたときには少なからず驚いた。祖母が入院生活を送っている時期、私は大学生であった。帰省するたびにその祖母を見舞った。単に祖母に会いたかったという理由であったが、祖母は私の訪問を殊の外喜んでくれた。そして、以前にも書いた通り、私が帰ろうとすると、病室から廊下まで私を追いかけてきてお金をくれた。いつも一万円であった。私は、祖母を見舞うたびにお金をもらうことが心苦しくなって、次第に見舞うことが減っていった。その祖母の訃報が届いたのは、私が大学を卒業した数年後であった。私の母親が、亡くなった実母(私の祖母)の最期の模様について語ることはなかった。
数年前に初めて祖母の墓に参拝した。この年齢に達すると、遠慮などせず、できる限り祖母を見舞いに訪れるべきであったと思う。
思い出はいつまでも新鮮である。
2019年4月15日月曜日
ブログ「帰省」に対するコメント
メールソフトをいじっていたときに、私のこのブログに対するコメントが自動的にまとめられて一つのメールボックスに入っているのに気づいた。どの投稿者も匿名であったが、それらのコメントの中に次のようなものがあった。
「あなたは医者として最低。世間知らずですね。」
このコメントの投稿者が誰であるのかはすぐにわかった。この人は何を誤解しているのか、私に激しい憎しみを抱いている。しかしなぜこのようなコメントをその投稿者が残したのか今まで皆目わからなかった。
今、このコメントを読み直しじっくり考えてみた結果、なんとなく理由がわかるような気がしてきた。
私の推測に誤りがなければ、投稿者は女性である。彼女は高校への進学を強く希望したが、彼女の父親は「女性には教育は要らない」という考えの持ち主であった。そのため彼女は中学校卒業と同時に実家を出て就職した。彼女は高校に進学できなかったことにずっと忸怩たる思いを抱いていた。そのことを繰り返し私に愚痴った。
ブログ「帰省」のなかで私の息子が通う学校のことに私が触れたことが彼女にはカチンときたのであろう。確かに私の息子は、恵まれた環境の中で教育を受けることができた。
しかし、どんなに親が反対しようと、本人に強い意志があれば彼女も高校に進学できたはずである。私の別のの従兄も母子家庭で育ち、高校には進学させてもらえなかった。しかし働きながら夜間高校に通った。そして働きながら勉強し一級建築士の資格も取得した。
その従兄はこう言う。「金がないとか親が銭を出してくれないなどといったことは理由にはならない。本当に高校に行きたければ、行けたはずだ。」
いずれにせよ、私の以前のブログ「帰省」の内容と私が「医者として最低」だということとどのような関連があるのであろうか。私はこのブログ(私と家族)に医師の立場から投稿したことはない。
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