2018年6月8日金曜日

帰省

つい先ほど、高知龍馬空港に着いた。これから東京に戻る。2泊3日の旅であった。

こちらではいくつかの用事を済ませることができた。また何人かの知人、友人、親戚に会うこともできた。有意義な高知滞在であった。

今後は高知に帰る機会がめっきり減るだろうと思い、きょうは時折どしゃ降りになる中、午後、思い切って高知城を訪れた。ボランティアにガイドを頼んだ。ガイドを引き受けてくれた老人は須崎市生まれだということであった。私はガイドの説明を聞きながら時折、足を止め、写真を撮りながらゆっくりと石畳を登った。雨のため見晴らしは良くないだろうと思ったが、天守閣にも登った。もうこれが高知城を訪れる最後の機会かもしれないという思いに取り憑かれた私は、城下に広がる高知市の街並をじっと見つめた。

きょうは高知城を訪れる前に叔母の家も訪ねた。僅か1時間あまりであったが、これまで聞いたことがない、私の祖父母や両親の話を叔母から数多く聞かせてもらうことができた。最も驚かされたのは、母方の祖母のことであった。祖母は長男を亡くしていた。その若くして亡くなった長男の嫁から追い出されるような形で晩年は次男夫婦の家に身を寄せたという。ただ、祖母に会うときには、私はいつも病院を訪れた。したがって私は祖母が自分の家から出ていたことは全く知らなかった。当時、祖母がもらっていた年金は月に2万円だったということも、きょう叔母から聞かされた。祖母が受け取ったその年金は、祖母本人から頼まれて叔母が保管していたという。しかしそれを親戚はよく言わなかったらしい。祖母の年金を叔母夫妻が自由に使っていると思い込んでいた親戚もいたという。「お金のかからん扶養家族がおると税金が安うなってえいねえ」とイヤミを言う親戚もいたらしい。

まだ大学生だった私は、東京から帰省すると祖母に会うために祖母が入院している病院をよく訪れた。私が祖母に会いに行くと、祖母は帰り際に私を廊下にまで追いかけてきていつも私に1万円くれた。当時の祖母の年金が月に僅か2万円だったということをきょう叔母から聞かされて、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

祖母の遺体は死後、長男の家に戻された。そして長男の家の墓に埋葬された。叔母が保管していた祖母の僅かばかりの遺産は、長男の嫁が全額引き取ったという。






2018年6月6日水曜日

遺産相続 3

姉が高校3年生だった時のこと。秋であった。夕食の後、家族全員の前で突然、父親が次のように喋り始めた。静かで穏やかな口調であった。

「〇〇(姉の名前)、お前は大学に行きとうないかえ。幸伸は大学に行くことになると思うが。姉弟の間で差をつけたらいかんけ、訊いちょくけんど。行きたけりゃ行かしちゃるが、どうでえ。」

この父親からの問いかけに対して姉は「勉強は嫌いやけ、大学には行かん」と答えた。私が視線を姉の方に向けると、姉はうつむき、茶の間の畳をじっと見つめていた。

姉と3歳違いの私は、当時、中学3年生であった。大学進学などまだ全く考えたこともない時期であったので、父親と姉とのこのときの会話は今も鮮明に覚えている。

姉が大学に進学しなかったのは姉自身の選択であり、両親の強制によるものでも説得の結果でもなかった。姉は自ら就職を選んだのだ。

2013年に父親が出血性脳梗塞で倒れた後、私は父親と母親の介護のためにたびたび高知に帰省するようになった。姉が高校卒業後、大学には進学せず就職することに決まったあと、父親が姉の就職口を見つけるために奔走したことを私が実家のご近所の方から聞かされたのは、この時期のことであった。具体的にどのような活動を父親がしたのかも断片的ではあったが聞かせてもらった。

姉は地方銀行に就職した。目立って産業のない高知県では、銀行に勤められるというのは幸運なことである。少なくとも社会からは、一定の評価を受けられるであろう。

姉が銀行に就職するにあたってどれほど父親が奔走したのかを姉自身は今も知らないかもしれない。

はっきりと口に出していうことはなかったが、姉が銀行員になったことを父親は喜んでいるように私は感じていた。しかし姉本人からは、銀行に勤務し始めた姉から銀行員になった喜びを聞かされることはなかった。姉は口を開けば愚痴を言った。取るに足りないことばかりだったのでどんな愚痴だったのかはほとんど記憶していないが、特に窓口業務を嫌っていた。そして姉を銀行に就職させた父親を強くなじった。確かに、適正という面から考えれば、姉は銀行員向きではなかったかもしれない。姉は決して社交的ではなかった。人づきあいはうまくなかった。

幸か不幸か、姉の銀行員生活は長く続かなかった。姉は20歳で結婚退職した。当時、女性銀行員は結婚すれば退職せねばならなかった。皮肉なことに、姉が結婚した相手は、姉があれほどまで嫌った窓口業務をしている最中に姉を見初めた客の男性であった。

「あのときはイヤでイヤでしょうがなかったけんど、銀行に勤めてよかったと思う」と、後年、姉が私にポツリと言ったことがある。その前後の会話とは全く関係なく突然、姉はこう言ったのだ。姉がこのとき、なぜ突然このようなことを言ったのか今もわからない。いつのことであったのかも忘れてしまった。

2018年6月5日火曜日

遺産相続 2

姉との遺産分割協議の過程でもうひとつ腹が立つことがあった。

私は中学校、高校、大学と12年間、日本育英会の奨学資金をもらっていた。そして卒業後に約10年間かけて完済した。完済したのはドイツ留学の前であったから、おそらく35歳の頃には完済していたのではないかと思われる。当然、自分で払った。

ところが、遺産協議のなかで、姉は奨学金を両親に頼らず自分で還したことを証明しろと言ってきたのだ。

驚いた。自分が学生時代に受けた奨学金は、卒業後に自分が還すのが当たり前ではないか。親に頼って奨学金を返済することなど、私は考えたことすらなかった。

しかし怒ってばかりもいられない。私は日本育英会の事務局に電話をかけて私の記録が残っているかどうかを尋ねた。電話に出た事務員は、奨学金が完済されたならば、その5年後に記録を全て削除するので、私の記録は20年以上前に抹消されているはずだと答えた。

ただ、姉が私に問いただしているのは、奨学金を返済する金を出したのは両親ではなかったのかということであった。バカバカしいとは思ったが、一応、古い預金通帳を調べた。当然のことであろうが、奨学金返済を証明する記録は通帳にはなかった。当時、奨学金の返済方法は特殊であった。旅館の宿泊台帳のような細長い振込用紙が送られてきた。毎回の返済額も自分である程度決められるようになっていた。

奨学金の返済は年に2回であったように記憶している。かなりまとまった金額を毎回振り込んだ。まだ薄給であった私には堪えた。家内にも申し訳なく思った。

私にこのように詰問してくる姉は大学には進学しなかったが、高校は私学であった。しかし姉は高校在学中、奨学金を受けなかった。申請すらしなかった。

身勝手な姉である。



遺産相続 1

父親が亡くなって4年余りが経過した。しかし、まだ私の姉との遺産分割を巡ってこじれている。父親が倒れて入院した直後に私の両親や私の家族と一方的に縁を切り、父親が死ぬまで一切の連絡を絶った姉が、父親が死ぬと同時に代理人を立てて父親の遺産を請求してきた。一度は裁判所の調停案を姉が受け入れた。ところが私と姉の意思の最終確認をするために家庭裁判所が設けてくれた調停委員との面談の場でなんと姉はその調停案を拒否した。つまり土壇場で姉は関係者全ての努力をゴミ箱へ葬り去ったのだ。全てが振り出しに戻った。2度目の調停案のとりまとめには数ヶ月以上を要した。その調停案も姉は拒否した。そのため父親の遺産相続は家庭裁判所での審判に委ねられることになった。今年3月末にやっと家庭裁判所の審判が降りた。この審判は過去の2回の調停案とほぼ同じであったが、今回、姉は異議を申し立てず、異議申し立て期限が過ぎて自動的に家庭裁判所の審判が確定した。

調停委員と裁判官とを挟んで私の代理人(弁護士)と姉の代理人(弁護士)が話し合いを4年間にわたって続けてきたわけであるが、驚かされることが何度もあった。

一番驚かされたのは、父親の葬儀の晩から私が3泊した高知市内のホテルの宿泊代は経費として認めないと姉が主張したことである。私が宿泊したのは、1泊1万円程度のビジネスホテルであった。しかもその3〜4日の間に支払ったわずか数百円の駐車料金も経費として認めないと姉が言っていると私の代理人が私に伝えてきた。

私は心の中で泣いた。

葬儀が終わればその日に全てが終わるというものではないであろう。國弘家の嫡男である私は父親の人生を締めくくるために多くの雑務を済まさなくてはならない。父親の葬儀の後、私は何日間か高知に留まり、葬儀に参列してくださった方々の家にお礼に伺うとともに、市役所で年金などの手続きをすませた。またいくつかの金融機関を回って父親の口座を凍結する手続きを行なった。父親の生前、後見監督人を務めてくれた友人の司法書士に書類一式を渡すことも必要であった。父親の銀行の預金通帳や父親の実印などを抱えたまま、鍵のかからない実家にどうして一人で泊まることができようか。

父親の葬儀の後、まだ私が高知に滞在していたとき、父親が加入していた生命保険会社の担当者にも会った。父親が契約者となっていた生命保険が4つあったが、そのうちの一つの保険の被保険者が姉の長男(私の甥)になっていた。「その保険の掛金は甥御さんに差し上げたらどう?」とその担当者は言った。私は彼女の勧めに従って甥に掛金を譲ろうと思い、メッセージを送った。私はまず、甥に父親(彼の祖父)の死を伝えた。彼からは「残念です」というだけの短いメッセージが戻ってきた。私は続けて、甥が被保険者となっている保険があること、その掛金を甥に譲ろうと思っていることを伝えた。そして書類を送るので必要事項を記載して返送してくれるようにと依頼した。しかし私の送ったそのメッセージには返事が返ってこなかった。

私のこのメッセージに対して甥が返事を寄こさないだろうとは思っていた。予想通りであった。甥が返事を寄こさない事情を知っていた私は、甥が不憫に思えて仕方がなかった。

話を元に戻す。

姉は一枚一枚の駐車場の領収書について、 なぜそれらの駐車場に車を停める必要があったのかについても説明を求めてきた。

私が仕事を犠牲にして東京と高知とを往復しながら両親の介護をし、父親が亡くなったあとは葬儀を済ませ、死後の整理をしている間、姉は私からの一切の連絡を拒否し、葬儀にも参列しなかった。この姉がこんなことまで私に説明を要求してくるなど、こんなにも馬鹿げたことがあろうか。

姉は狂っている。感情のある人間ではない。私は姉を呪った。遺産分割協議の途中でこのときほど激しく腹が立ったことはなかった。


2018年6月3日日曜日

軽井沢

今朝、東京を発って軽井沢に出かけてきた。軽井沢に来るのは1ヶ月ぶりである。自動車学校に行かなくてはならないからと、今回も息子は来なかった。

佐久にある「SOCCA」というカジュアルなフレンチレストランで昼食をとり、御代田の「ここらで」にやってきた。いつもお決まりのコースである。きょうは快晴。浅間山が山頂までよく見える。前回、軽井沢に来たときには浅間山の裾野まで山肌が見えていたが、きょうは7合目あたりまで新緑に被われている。日向に出ると頭が焼けるように熱い。いよいよ軽井沢にも本格的な夏到来である。






2018年5月26日土曜日

不動産の処理 2

2013年の9月、この人に電話をかけた。用件は忘れてしまった。

夜10時前であったように思う。後で人づてに聞いていたところによると、この人はまだ 起きてはいたが既に布団に入っていたという。寝酒を飲んで酔っていたとも聞いた。

その人は私からの電話だと知ると、私が電話をかけた理由も聞かず、いきなり大声で一方的に怒鳴り始めた。記憶が薄れてきたので彼の口から出た言葉をそのまま反芻することはできないが、彼が喋ったことはおおよそ次のようなことであった。

「俺は両親が死ぬまできちんと介護した。お前のようにいい加減なことはしていない。なんだ、お前は! 仕事をやめて高知へ帰ってこい! 帰ってきてちゃんと親の介護をしろ!」

その人は自分が言いたいことだけを機関銃のようにまくし立てると、ガチャンと一方的に電話を切った。側にいた私の家内は強いショックを受けていた。


2018年5月24日木曜日

不動産の処理 1

2013年6月下旬、父親が倒れて緊急入院したという連絡を受けたとき、まず私を襲ったのは、しまったという思いであった。私は父親が所有していた田畑や山林の処理に長い間頭を悩ませていた。父親には、それらの不動産を早めに処分しておいてくれるように頼んだが、父親は耳を貸そうとはしなかった。「今は、山林は二束三文であるが、時代は変わる。また山林の価値が出てくる時代が来る」というのが父親の口癖であった。父親にもしものことがあったら私は父親が所有する不動産の所在地も境界もわからなくなることを恐れた私は、帰省する度に父親と一緒に山林を見て回った。カメラやビデオカメラを持参し記録をとった。しかし1年経つと山林の状況はすっかり変わっていた。

父親が入院した病院に私が駆けつけた日には、まだ父親にはわずかに意識が残っていた。父親はうわ言のようにではあったが、発作のときの状況について、目を閉じたまま、「頭にドンと来た」と語った。そして麻痺のない左腕を自分の頭に持っていった。しかし、主治医からは2日後には父親の意識がなくなると告げられていた。たとえ意識だけが鮮明になったとしても自宅に戻ることは不可能であろうと私は思った。しかし急性期を乗り越えれば父親がすぐに死ぬこともあるまいとも思った。

私は父親が100歳まで生きることを想定して介護に要する費用を頭の中で計算した。父親を東京の施設に移す手段や転院先についても思案した。私の家内は父親の介護施設を東京で探し始めてくれた。しかし父親の病状は徐々に悪化していった。それに加えて母親も入院することになった。母親は東京の病院に転院することを頑として拒否した。両親が元気だった頃から、両親とも高知で人生を終えると、私は母親から告げられていたので、東京への転院を私は無理強いすることはしなかった。幸い、土佐市内にある白菊園病院が両親を長期間入院させてくれることになった。

両親の治療は主治医に委ねるほかない。そう考えた私は、父親が所有している不動産の処理を本格的に始めた。しかしこの作業は実に困難であった。

まず、父親が所有する田畑や山林を私は全て知っているわけではなかった。市役所に出向くと父親が所有する不動産の一覧表をコピーすることができたが、土佐市内の不動産だけで40数筆もあった。その他、父親は近隣の市町村にも山林を所有しており、それらの市町村からも不動産に関する書類をもらわなければならなかった。市役所では切り図をコピーさせてくれた。しかし切り図だけでは田畑や山林の境界は皆目わからなかった。境界線には何の目印もなかった。現地に出向いて自分の目で境界を確認するほかなかった。

しかしその作業を始めてはみたが、私一人で田畑や山林を見て回ることは不可能であることがすぐにわかった。私は親戚や実家のご近所を回り、父親が所有している田畑と山林を教えてもらわざるをえなくなった。ほとんどの人たちが嫌な顔一つ見せず協力してくれた。ひとりの老人は90歳を過ぎているというのに山の上にまで一緒に登って行ってくれ、丁寧に山林の境界を私に教えてくれた。また、別のご近所の方は、抗がん剤治療を受けた直後であり白血球が1000にまで減少しているにもかかわらず、雨の中、山奥まで私を案内してくれた。ご近所の方々が総出で父親の所有する山林や田畑の境界を教えてくれた。私は心のなかで深く感謝した。

ただ、意地の悪い人がいなかったわけではなかった。あるご近所の人は、私が仕事を休んで1ヶ月間帰省するのであれば山林の境界線について教えてやろうと言った。「1ヶ月間帰ってこい。1ヶ月間もんてきたら教えてやる。」その人は意地悪く私にそう言った。その人の自宅を訪ねる度に同じ返事が帰ってきた。私が1ヶ月続けて仕事を休めるわけがないではないか。