2013年6月下旬、父親が倒れて緊急入院したという連絡を受けたとき、まず私を襲ったのは、しまったという思いであった。私は父親が所有していた田畑や山林の処理に長い間頭を悩ませていた。父親には、それらの不動産を早めに処分しておいてくれるように頼んだが、父親は耳を貸そうとはしなかった。「今は、山林は二束三文であるが、時代は変わる。また山林の価値が出てくる時代が来る」というのが父親の口癖であった。父親にもしものことがあったら私は父親が所有する不動産の所在地も境界もわからなくなることを恐れた私は、帰省する度に父親と一緒に山林を見て回った。カメラやビデオカメラを持参し記録をとった。しかし1年経つと山林の状況はすっかり変わっていた。
父親が入院した病院に私が駆けつけた日には、まだ父親にはわずかに意識が残っていた。父親はうわ言のようにではあったが、発作のときの状況について、目を閉じたまま、「頭にドンと来た」と語った。そして麻痺のない左腕を自分の頭に持っていった。しかし、主治医からは2日後には父親の意識がなくなると告げられていた。たとえ意識だけが鮮明になったとしても自宅に戻ることは不可能であろうと私は思った。しかし急性期を乗り越えれば父親がすぐに死ぬこともあるまいとも思った。
私は父親が100歳まで生きることを想定して介護に要する費用を頭の中で計算した。父親を東京の施設に移す手段や転院先についても思案した。私の家内は父親の介護施設を東京で探し始めてくれた。しかし父親の病状は徐々に悪化していった。それに加えて母親も入院することになった。母親は東京の病院に転院することを頑として拒否した。両親が元気だった頃から、両親とも高知で人生を終えると、私は母親から告げられていたので、東京への転院を私は無理強いすることはしなかった。幸い、土佐市内にある白菊園病院が両親を長期間入院させてくれることになった。
両親の治療は主治医に委ねるほかない。そう考えた私は、父親が所有している不動産の処理を本格的に始めた。しかしこの作業は実に困難であった。
まず、父親が所有する田畑や山林を私は全て知っているわけではなかった。市役所に出向くと父親が所有する不動産の一覧表をコピーすることができたが、土佐市内の不動産だけで40数筆もあった。その他、父親は近隣の市町村にも山林を所有しており、それらの市町村からも不動産に関する書類をもらわなければならなかった。市役所では切り図をコピーさせてくれた。しかし切り図だけでは田畑や山林の境界は皆目わからなかった。境界線には何の目印もなかった。現地に出向いて自分の目で境界を確認するほかなかった。
しかしその作業を始めてはみたが、私一人で田畑や山林を見て回ることは不可能であることがすぐにわかった。私は親戚や実家のご近所を回り、父親が所有している田畑と山林を教えてもらわざるをえなくなった。ほとんどの人たちが嫌な顔一つ見せず協力してくれた。ひとりの老人は90歳を過ぎているというのに山の上にまで一緒に登って行ってくれ、丁寧に山林の境界を私に教えてくれた。また、別のご近所の方は、抗がん剤治療を受けた直後であり白血球が1000にまで減少しているにもかかわらず、雨の中、山奥まで私を案内してくれた。ご近所の方々が総出で父親の所有する山林や田畑の境界を教えてくれた。私は心のなかで深く感謝した。
ただ、意地の悪い人がいなかったわけではなかった。あるご近所の人は、私が仕事を休んで1ヶ月間帰省するのであれば山林の境界線について教えてやろうと言った。「1ヶ月間帰ってこい。1ヶ月間もんてきたら教えてやる。」その人は意地悪く私にそう言った。その人の自宅を訪ねる度に同じ返事が帰ってきた。私が1ヶ月続けて仕事を休めるわけがないではないか。
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