2018年5月22日火曜日

改葬 3

新しい墓地は決まった。家庭裁判所からも改葬許可が得られた。しかしその後も大変であった。市役所からも改葬許可をもらわねばならなかった。過去70年間に亡くなった先祖の戸籍一覧を市役所で発行してもらったが、全ての先祖の名前が✖️印で取り消されていた。人の生は単にひとつの✖️印でこの世から抹消されるのだと思うと、虚しさを感じた。私の両親の名前も同様に✖️印ひとつで抹消され、親しかった人たちからも忘れ去られていく。

土葬されている先祖の墓を掘り起こすにあたっては、まず菩提寺に依頼して魂抜き(閉眼供養)をしてもらわなければならなかった。閉眼供養の当日には、私の家内と息子も立ち会った。住職はひとつひとつの墓の前で読経した。そして読経が終わると、クルッと墓石を捻り、向きを変えた。この閉眼供養の儀式は1時間近く続いた。儀式が終わった後、短時間、住職と会話を交わした。その際、我が家の宗教が真言宗になったのはそんなに昔のことではないと聞かされた。先祖の戒名からわかるのだという。驚きであった。元々は何宗であったのか、どうして真言宗に改宗したのかについても聞かされたが、残念なことに、それらについては忘れてしまった。

墓を掘り起こす作業は専門業者に依頼した。二日がかりであった。この作業には私とひとりの従兄が立ち会った。驚いたことに、殆どの墓で遺骨は亡くなっていた。残っていたのは、50年前に亡くなった祖母の遺骨と30年前に亡くなった祖父の遺骨だけであった。祖母はビニール袋に包まれて埋葬されていたためか、祖父よりもしっかりとした骨が残っていた。作業員の方々は祖父母の遺骨を丹念に拾い集めてくれた。遺骨が残っていない墓からは、一握りの土だけを丸めて布袋に入れた。そう、人は死ぬと、土に還るのだ。

ほとんどの墓からは一握りの土しか回収できなかったため、東京で設けた墓に容易に納骨することができた。魂入れ(開眼供養)の儀式は、インターネットで探した名も知らぬ僧侶に依頼した。父親の四十九日の納骨の直前であった。

父親の納骨の日には、別の僧侶に読経を依頼した。私と私の家内、そして一人息子が立ち会うだけの寂しい四十九日であったが、父親はきっと喜んでくれているだろうと思った。

2018年5月10日木曜日

改葬 2

改葬にあたっては、単に新しい墓地を設ければよいというものではなかった。家庭裁判所の許可を得なければならなかった。家庭裁判所から改葬許可をもらうためには、改葬が父親の意志に添うことであることを家庭裁判所に証明する必要がある。この作業には、司法書士であり、かつ後見監督人となった古くからの友人が奮闘してくれた。彼は我が家の親戚や父親が接触していた霊園業者の方たちに聞き取り調査をしてくれた。そしてその面談結果を元にして、家庭裁判所に提出する書類を書いてくれた。実に長い文章であった。その文章からは、彼の私に対する思いやりや彼の人柄が滲み出ていた。ただ、ひとつひとつの文がとても長く読みにくい文章であった。彼とファックスのやり取りをしながら文章を推敲した。

1ヶ月以上かかったが、彼の尽力のお蔭で墓地を東京に移す許可を家庭裁判所からもらうことができた。

その後、他のことでも彼には随分力になってもらった。得難い友人である。

改葬 1

父親が倒れた後は、全ての雑務を私が代行しなければならなかった。母親とは会話ができたが、母親も父親の入院から6週間ほど後に入院した。退院できる見込みはなかった。しかも我が家では、長年、父親が財布の紐を握ってきていた。そのため、銀行口座のことや田畑のことなどを母親に尋ねても何一つ明確な返事が戻ってこなかった。なんと母親は、自分の年金が振り込まれる口座の通帳すら父親に預けていた。自分名義の預金がどれほどあるのかも知らなかった。したがって私は、両親が行うべき雑務を代行するにあたって、ほとんど全てのことを自ら市役所や銀行に足を運んで確認せねばならなかった。

土佐市役所で両親名義の土地を調べて驚いたのは、墓地が我が家の所有ではなかったことであった。隣りの家の土地であった。その墓地には江戸中期以来の我が家の先祖が埋葬されていた。つまり、300年にわたって我が家は隣りの家の土地をずっと借用していたわけである。祖父母からも両親からも我が家の墓地が隣りの家の所有であることは一度も聞かされたことがなかった。300年間も我が家が利用してきた以上、その土地は法律的にはもう我が家の所有物と考えてもいいであろうとも私は考えた。しかし先祖は全て土葬されていた。土葬されている先祖の遺骨を掘り起こさなければ、その墓地には死期が迫った両親を埋葬するための納骨堂を設けるスペースすらなかった。

父親は、そのことも考慮してか、まだ元気な頃、実家の裏山に納骨堂を造っておいてくれていた。その納骨堂には縁あって國弘家が供養することになっていた他家の遺骨が納められていた。我が家の先祖代々の遺骨をその納骨堂に移そうとも考えた。しかし納骨堂が設置されていたのは畑であった。市役所に問い合わせると、その納骨堂は移設するよう求められた。

私は業者に依頼して墓地を探してもらった。最初は土佐市内の霊園を紹介された。その霊園を下見に行った 。しかしその霊園は小高い山の北側の斜面にあり、少し日当たりが悪く湿っぽかった。また、夏であったこともあり、雑草が生えていた。そのため、別の霊園を探すことにした。次に紹介されたのは高知市内の霊園であった。高知市街を見下ろす小高い山の頂上近くにあった。南側に面しており日当たりもよかった。高知空港からも近かった。この霊園に我が家の墓地を移そうと東京の自宅に戻った。

しかし、9月になって、ひとりの従姉から、墓地を東京に移すように勧められた。自宅に近い場所に墓がなければ先祖の供養ができないというのが理由であった。その従姉はとても信心深かった。

このことを母親に話すと、母親はその考えに賛成してくれた。私は、父親のベッドサイドに行き、墓を東京に移すことを告げた。その頃には、父親も母親も共に土佐市にある白菊園に入院していた。当然、父親は返事しなかった。しかし私は、きっと父親も賛成してくれるだろうと思った。

私と私の家内は東京で霊園を探し始めた。家内は多くのパンフレットを取り寄せ、それらの霊園に下見に行ってくれた。時間があるときには、私も家内に付き添った。

しかし墓地探しは難渋を極めた。霊園はたくさんあったが、いずれも帯に短し襷に長しであった。母親が真言宗の寺に拘ったことも墓地探しが難航した大きな理由であった。私の家の宗教は真言宗豊山派であったが、どの寺でも改宗を求められた。しかし母親は頑として改宗を拒否した。

やっとここにしようと思える霊園が見つかったのは、2013年の年末であったように思う。その霊園がある寺の宗教は真言宗ではなかった。しかし 改宗は求められなかった。その寺の敷地の一部を宗教自由の墓地として開放しており、いかなる宗教も受け入れてくれた。

私たちは、その墓地を管理している業者と墓石の打ち合わせを始めた。暮石に刻印する文字や家紋についても話し合った。

墓地が完成したのは、父親の四十九日の法要の数日前のことであった。父親の四十九日の法要は私と私の家内と私の一人息子の3人だけで執り行った。ひとりの僧侶が読経してくれた。ごくごく少人数の法要であったが、亡き父親はきっと喜んでくれているだろうと私は思った。

2018年5月3日木曜日

20歳

きょうは5月3日、憲法記念日。息子の誕生日でもある。きょう、息子は20歳になった。

一昨年まで、息子の誕生日はいつも軽井沢で祝ってきた。しかし、昨年、息子が大学生になって以来、息子はゴールデンウィークはクラブ活動のため家を留守にするようになった。今年は昨年と同様に私はゴールデンウィークを家内とふたりで過ごしている。

昨夜、都内の道路も高速道路も大渋滞であった。パーキングのレストランも満席であった。一夜明けたきょう、軽井沢はどこへ行っても家族づれで賑わっている。

のどかである。

2018年5月1日火曜日

任意後見人

もみの木病院に入院した父親の容態は私が帰省するたびに悪化していった。私は、司法書士の友人の力を借りて家庭裁判所に任意後見人の申請を行い、家庭裁判所内で面接審査を受けた。面接の担当官は女性であった。残念ながら、その面接担当官から話されたことも私が担当官に話したことも、ほとんど覚えていない。ただ、その担当官は、面接のあと父親が入院しているもみの木病院に足を運び、自分の目で父親の病状を観察してくれた。

私が家庭裁判所から任意後見人に指名され高知駅近くにある法務局で登記事項証明書を受け取ったのは2013年9月中旬であったように思う。9月上旬であったかもしれない。その登記事項証明書を持参すれば、市役所でも銀行でも、本来父親本人でなければできない手続きができるはずであった。ところが、そうはならないことが多かった。登記事項証明書がいかなる書類であるのかを知らない窓口の担当者が少なくなかったからである。登記事項証明書を持参するようになった後も、銀行の窓口で長い時間待たされることが珍しくなかった。

市役所や銀行に出向かなければならないときには、私は平日、仕事を休まねばならなかった。任意後見人に指名された後は、土曜日の始発便で羽田を発って高知に帰り、月曜日の最終便で東京に戻ることが多くなった。月曜日には朝食も昼食もとる時間がなかった。月曜日には市役所や銀行を回るだけでなく、父親の不動産の処理をするために行政書士の方や土地家屋調査士の方々と打ち合わせをしたりしなければならなかった。天気がいい日には実家の掃除もせねばならなかった。父親にも母親にもとても申し訳なかったが、両親を見舞う時間は極端に少なかった。東京に戻る日には、高知龍馬空港その日のはじめての食事をとることが珍しくなかった。重い荷物を抱えて高知から東京の自宅に戻ったとき、私の顔は青ざめ、唇も白くなっていたという。

土佐市民病院

2013年6月下旬に父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れたことを知らされたとき、私は、「ああ、最も恐れていたことが起きた」と、暗澹たる気持ちに陥った。主治医は、父親の意識は2日以内になくなるので大急ぎで親族を呼ぶようにと言ったという。

喫緊の問題は、父親の治療費をどうやって捻出するかということであった。2011年に父親が初回発作で入院した際、司法書士の友人の勧めで、父親にもしものことが起きたときに備えて私は父親と後見人契約を結んでいた。私は、父親が倒れた日の夜、その司法書士の友人に電話をかけて相談した。友人は、任意後見人申請のための診断書を主治医に書いてもらうようにと言い、その書類を私にファックスで送ってくれた。

父親が倒れたのは木曜日であった。その週末は主治医は出勤しないかもしれない。早めに診断書をお願いしておいた方がいい。そう思った私は、父親が入院している病棟に電話をかけて事情を話し、書類をファクスで送った。

ところが、このことが翌日、物議をかもすことになった。

私が父親が入院した病院に着いたのは、翌日の昼前であった。病棟のエレベータを降りて父親の部屋に向かっていると、その病棟の婦長から呼び止められた。主治医が私に話したいことがあるから、ナースステーションに入ってくれという。私は婦長に導かれてナースステーションに入った。そして婦長に勧められた椅子に座った。

数分後に主治医が現れた。その主治医はとても興奮していた。主治医は、私の前に座ると、父親の病状については一言も話さず、私が送った書類はどういうつもりなのかといきなり大声で怒鳴り始めた。私はあっけにとられた。私は、直ちにその診断書を書いてくれるようにと依頼したわけではなかった。父親は2日以内に意識がなくなると言われていたので、そのときに備えて私が高知に滞在中に主治医に診断書を預けておこうと思っただけであった。その主治医は私に「お父さんの病状をみたのか!」と大声で言った。私は病室に行く前に婦長に呼び止められてナースステーションに入った。父親の病状を自分で観察しているはずがなかった。主治医の発言の真意を測りかねた私は、単に「いいえ、まだ」と答えた。主治医は、任意後見人申請用の診断書を書く必要があるほど父親の病状は悪くないと言いたかったのか。私には皆目わからなかった。

主治医は頭ごなしに私を怒鳴りつけると、いきなり席を立ってナースステーションから出て行った。私は、椅子に座ったまま、主治医が戻るのを待った。なかなか主治医が戻らないので、ナースステーションの看護師に、どれほど待てば良いのかと尋ねた。その看護師は主治医に電話してくれた。そして20分ほど待つようにと言った。

主治医は何も言わず席を立った。こんなことは東京では許されない。

私は主治医が戻るのを待たず立ち上がり、ナースステーションを出た。そして父親の部屋を訪ねた。

父親は完全には意識がなくなっていなかった。しかし目を開けることはなく、ただ、「頭にズンときた」と言ったことを独り言のように繰り返し喋った。

私は、父親を転院させることにした。その日のうちに高知市内のもみの木病院に救急車で搬送父親を搬送した。結局、土佐市民病院では父親の病状については、一言も説明を受けられなかった。

バラギ湖

昨日は、北軽井沢の行きつけのカフェレストランで昼食を摂ったあと、バラギ湖にまで足を伸ばした。絶景であった。