東北関東大震災は天災なのであろうか、人災なのであろうか。人々が落ち着きを取り戻せば、きっと「今回の震災は人災である」という声が出てくるだろうと思う。特に東京電力は指弾されることであろう。何者かをスケープゴートにしなければ気が済まない輩が世の中には必ずいるものだ。
しかし、生きることは危険と向かい合うことだ。私たちは常に死と向かいあいながら生きている。人類は自然というお釈迦様の手のひらの中で踊らされているにすぎないのではなかろうか。そもそも、これまで人類が築いてきた文明など自然の前には全く無力なのだ。今回の騒ぎが一段落したならば、いろいろな反省点が見つかるであろう。ただ、私は、どのように我々が知恵を働かせ努力しようとも、この種の犠牲者は今後もなくならないだろうと思う。原発をなくせば被害がなくなるという単純なものではないであろう。水力発電に頼ればダムの決壊を恐れなくてはならなくなる。
下に掲載したのは昨日いただいたメールの続きである。私の方で文章の一部を削除するとともに手直しした。
被災地の検死会場は修羅場でした。感情を殺して作業しました。昨日の朝、帰宅しましたが、軽いPTSD状態になり眠れず、お酒を飲みながら涙を流しました。しかし夜、家族と食事をしたあと一晩ぐっすり眠ると気持ちが落ち着いてきました。
東京はガソリン不足になっていますが、被災地と対比するとなんと静かで平和なんだろうと感じます。被災地の人々のことを思うと心が痛みます。
歯科医師会や日本歯科医学会がボランティアを募っていますが、現地にでかけるちことには危険を伴います。また大挙して押しかけても地元にはそのアテンドをする余裕もありません。
私は、身元確認作業には自己完結で行動できる自衛隊の歯科医官を投入すべきだと考え、懇意にしている陸上自衛隊のある歯科医官と月曜日に相談したうえで歯科医師仲間にも相談しましたが、その提案は受け入れられませんでした。
たまたま防衛政務官の神風衆議院議員が知り合いでしたので、自衛隊の歯科医官を投入するようお願いをしました。神風防衛政務官は動いてくださり、金曜日に防衛省内局より陸海空の3軍の歯科医官に命令が下されました。そして、約300名の歯科医官が身元確認作業に従事することになりました。宮城県警と陸上自衛隊の間では宮城県歯科医師会の江澤先生がご尽力して災害時の協力体制はできていますが、現在の自衛隊はシビリアンコントロールですから、防衛省内局の指示がなければ部隊を動かせません。21日に第1陣が出動します。これで、多くの歯科医の危険を回避し、また、地元の歯科医師会の先生方の手を煩わせることもなくなったと思っています。
今は計画停電や患者さんの受診抑制もあり、火曜日からは町医者としての戦いをしなければなりません。先生のおっしゃるように日本人は高潔な民族であり、力をあわせて苦境から立ち直る力を持った国民であると思っています。
2011年3月20日日曜日
東北関東大震災 1
私がお世話になっている歯科医からメールが届いた。彼は地震の直後から震災救援活動に駆り出されていた。
以下、いただいたメールの文面の一部を修正して掲載する。
諸先生方にはご心配をおかけしました。派遣中、先生方のご支援をいただきましたことを心から感謝いたします。精神的にめげそうな業務でしたが、先生方の御支援が心の支えになりました。私は昨日朝、宮城から戻りました。
13日午後3時に、午後6時までに警察庁に集合せよとの連絡が入りました。警視庁第一機動隊のバスで緊急車両のみ走行が許されている東北道を通って山形入りし、宮城県で身元確認作業に従事しました。交代要員第2陣が金曜日深夜に来ましたので、土曜日朝にそのバスに乗り帰京しました。
直下型地震ではありませんでしたから、仙台中心部や私が作業に従事した岩沼市でも建物の倒壊はほとんどありませんでした。ブロック塀すら倒れているのはわずかでした。古い家屋が倒壊している程度でした。
ほとんどすべてが津波による被害でした。津波が町を破壊しました。津波の威力は想像を超え、海から6キロ地点までがれきを運び、田んぼを覆い尽くしていました。特に仙台より北のリアス式海岸の被害が甚大です。ビルの3階に避難していた方々すら津波にのみ込まれました。
検死会場は修羅場でした。続々とご遺体が運び込まれてきます。自衛隊、警察、消防の方たちは不休で働いていました。体育館の中では御遺族が号泣する声が響いていました。我々はひたすら感情を殺すよう努力しながら作業を続けました。感情を殺さなければあまりの悲しみのために作業を続けられなくなるからです。
まだ生存者のいる可能性があるため、重機を使ってのがれき撤去作業は行っていません。ニュージランドでの地震の際にはもっと早い時期に生存の可能性をあきらめて重機を投入しました。
あまりにも死亡者が多いため、戦後初めて、身元確認が終わらなくても資料採取が終われば、ご遺体を自治体に回し、火葬に処すようにと警察庁から通達がありました。これは戦後初めての通達です。戦時下での対処と一緒です。
すべてのことが終わるには2か月もしくはそれ以上かかるかもしれません。無事であった町でもライフラインは寸断され、市民は不安な不自由な暮らしをしています。警察ですら車両もガソリンも不足しています。どうしてもっと、政府が手だてをうって、大量の物資を東北地方に搬入できないのかと不思議に思いました。
まだまだ冷たいがれきの下や海際には累々としたご遺体があります。40万人の被災者がいます。私の仲間はガイガーカウンターを身につけ原発近くの南相馬市で作業に従事しています。私のいた岩沼市も原発から60キロ地点ですから、通常の6倍程度の放射能濃度にはなっていたと思います。
4日目にやっと温かいコーヒーを飲みました。毎日、あたりまえのように飲んでいたコーヒーすら飲むことができない状況でした。東京も不便な状況になっているようですが、自宅に戻り、宮城に比べればなんて平和で安全な町だろうという思いと一緒に作業に従事していた警察、消防、自衛隊、医師、歯科医師がきょうも作業を続けていると思うと心が痛みます。
以下、いただいたメールの文面の一部を修正して掲載する。
諸先生方にはご心配をおかけしました。派遣中、先生方のご支援をいただきましたことを心から感謝いたします。精神的にめげそうな業務でしたが、先生方の御支援が心の支えになりました。私は昨日朝、宮城から戻りました。
13日午後3時に、午後6時までに警察庁に集合せよとの連絡が入りました。警視庁第一機動隊のバスで緊急車両のみ走行が許されている東北道を通って山形入りし、宮城県で身元確認作業に従事しました。交代要員第2陣が金曜日深夜に来ましたので、土曜日朝にそのバスに乗り帰京しました。
直下型地震ではありませんでしたから、仙台中心部や私が作業に従事した岩沼市でも建物の倒壊はほとんどありませんでした。ブロック塀すら倒れているのはわずかでした。古い家屋が倒壊している程度でした。
ほとんどすべてが津波による被害でした。津波が町を破壊しました。津波の威力は想像を超え、海から6キロ地点までがれきを運び、田んぼを覆い尽くしていました。特に仙台より北のリアス式海岸の被害が甚大です。ビルの3階に避難していた方々すら津波にのみ込まれました。
検死会場は修羅場でした。続々とご遺体が運び込まれてきます。自衛隊、警察、消防の方たちは不休で働いていました。体育館の中では御遺族が号泣する声が響いていました。我々はひたすら感情を殺すよう努力しながら作業を続けました。感情を殺さなければあまりの悲しみのために作業を続けられなくなるからです。
まだ生存者のいる可能性があるため、重機を使ってのがれき撤去作業は行っていません。ニュージランドでの地震の際にはもっと早い時期に生存の可能性をあきらめて重機を投入しました。
あまりにも死亡者が多いため、戦後初めて、身元確認が終わらなくても資料採取が終われば、ご遺体を自治体に回し、火葬に処すようにと警察庁から通達がありました。これは戦後初めての通達です。戦時下での対処と一緒です。
すべてのことが終わるには2か月もしくはそれ以上かかるかもしれません。無事であった町でもライフラインは寸断され、市民は不安な不自由な暮らしをしています。警察ですら車両もガソリンも不足しています。どうしてもっと、政府が手だてをうって、大量の物資を東北地方に搬入できないのかと不思議に思いました。
まだまだ冷たいがれきの下や海際には累々としたご遺体があります。40万人の被災者がいます。私の仲間はガイガーカウンターを身につけ原発近くの南相馬市で作業に従事しています。私のいた岩沼市も原発から60キロ地点ですから、通常の6倍程度の放射能濃度にはなっていたと思います。
4日目にやっと温かいコーヒーを飲みました。毎日、あたりまえのように飲んでいたコーヒーすら飲むことができない状況でした。東京も不便な状況になっているようですが、自宅に戻り、宮城に比べればなんて平和で安全な町だろうという思いと一緒に作業に従事していた警察、消防、自衛隊、医師、歯科医師がきょうも作業を続けていると思うと心が痛みます。
2011年3月12日土曜日
「ちんば」と「つんぼ」
「ちんば」というのは土佐弁である。「びっこ」という意味である。現代流の表現を用いれば「脚が不自由」ということになる。私にとって「ちんば」という言葉は差別用語でもなんでもない。土佐弁の「ちんば」という言葉には身体の不自由な人を蔑むといった響きはない。
私の父方の祖父はちんばであった。私が物心ついたときには既にびっこを引きながら歩いていた。「びっこを引く」という表現は適切でない。ひどい0脚であったのだ。だから歩くと、左右に大きく状態が揺れた。たまにではあったが、曲がった膝は腫れた。そのたびに祖父は近所の医師に関節に溜まった水を抜いてもらっていた。しかし、祖父は自分がびっこであることを悲観しているように見えなかった。なぜ自分がちんばになったのかを話すこともないまま、祖父は1982年に88歳で亡くなった。
祖父がなぜちんばになったのかを知ったのは、祖父が亡くなってから30年も経った昨年の秋のことであった。父との雑談のなかで偶然その話が話題に上ったのだ。
祖父が保証人になっていた知人が急死し、我が家が多額の負債を抱えたことがあることは既に書いた。当時、近所の人たちは祖父が歩いているのを見ると遠ざかったという。金をせがまれるのではないかと恐れたらしい。祖父は不平ひとつ口にせず、ひたすら働き、誰に借金もすることもなくその多額の借金を返済した。ちんばになったのはその代償であった。
祖父が野良仕事から帰ってくるときにはいつも大きな荷を背負っていたそうである。遠くから見ても一目で祖父だとわかったらしい。大きくて重い荷物を毎日のように担いだために祖父の膝は大きく曲がったのだと父は私に語った。私が物心ついた頃、既に祖父は家督を私の父親に譲り、隠居の身分であった。祖父が比較的若くして隠居の身になったのは歪んだ膝のためであったという。
こんなことを私に語る父も既に78歳になった。あと1週間後には79歳になる。すっかり耳が遠くなった。「つんぼ」になった。私の祖父は「ちんば」、父は「つんぼ」である。私はやがて「盲(めくら)」になるのであろうか。
「ちんば」も「つんぼ」も「めくら」も不自由ではあるが恥ずべきことではない。少なくとも土佐弁では恥ずべき障害という響きはない。
昨今の言葉狩りは困ったものだ。
私の父方の祖父はちんばであった。私が物心ついたときには既にびっこを引きながら歩いていた。「びっこを引く」という表現は適切でない。ひどい0脚であったのだ。だから歩くと、左右に大きく状態が揺れた。たまにではあったが、曲がった膝は腫れた。そのたびに祖父は近所の医師に関節に溜まった水を抜いてもらっていた。しかし、祖父は自分がびっこであることを悲観しているように見えなかった。なぜ自分がちんばになったのかを話すこともないまま、祖父は1982年に88歳で亡くなった。
祖父がなぜちんばになったのかを知ったのは、祖父が亡くなってから30年も経った昨年の秋のことであった。父との雑談のなかで偶然その話が話題に上ったのだ。
祖父が保証人になっていた知人が急死し、我が家が多額の負債を抱えたことがあることは既に書いた。当時、近所の人たちは祖父が歩いているのを見ると遠ざかったという。金をせがまれるのではないかと恐れたらしい。祖父は不平ひとつ口にせず、ひたすら働き、誰に借金もすることもなくその多額の借金を返済した。ちんばになったのはその代償であった。
祖父が野良仕事から帰ってくるときにはいつも大きな荷を背負っていたそうである。遠くから見ても一目で祖父だとわかったらしい。大きくて重い荷物を毎日のように担いだために祖父の膝は大きく曲がったのだと父は私に語った。私が物心ついた頃、既に祖父は家督を私の父親に譲り、隠居の身分であった。祖父が比較的若くして隠居の身になったのは歪んだ膝のためであったという。
こんなことを私に語る父も既に78歳になった。あと1週間後には79歳になる。すっかり耳が遠くなった。「つんぼ」になった。私の祖父は「ちんば」、父は「つんぼ」である。私はやがて「盲(めくら)」になるのであろうか。
「ちんば」も「つんぼ」も「めくら」も不自由ではあるが恥ずべきことではない。少なくとも土佐弁では恥ずべき障害という響きはない。
昨今の言葉狩りは困ったものだ。
2011年2月28日月曜日
良識か、行儀か、シツケ放棄か


一人ひとりの人間の価値を最も高めるものは何であろうか。学歴であるという人もいるであろう。地位であるという人もいるだろう。金であるという人もいるに違いない。若い人のなかには親の地位や財産、つまり親の七光りがあることを自慢に思っている人もいるだろう。
私はこの頃、人の価値を決めるのは品格であると思うようになった。品格と高価な装飾品とは関係がない。財産とも関係がない。当然、学歴とも。学歴がなくともきわめて品格のある人はたくさんいる。ベランベー調の話し方をしても妙に品格のある人もいる。逆にどれほど学歴や地位が高かろうと卑しい品格の人も少なくない。品格はその人が生きてきた人生そのものである。
つい最近発売されたサンデー毎日に岩見隆夫氏が「ティッシュペーパーと若い女性と」というコラムを書いている。このコラムの中で岩見氏は現代の若い女性の品格のなさを心から嘆いている。
現代の女性は「男女平等」教育によって育てられた。この「男女平等」教育によって女性は男性と同等の幸福と権利を獲得できるものと信じられていた。しかしこの「何でも男女平等教育」は残念ながら女性に幸せをもたらさなかった。そればかりでない。かつての日本女性が持っていたかけがえのない美を奪った。品格も奪った。そして若い男性からは自信を奪った。
2011年1月22日土曜日
帰省
昨年12月30日から今年1月3日まで家族で高知の実家に帰省した。いつもどおり、父親が高知龍馬空港まで迎えにきてくれた。空港から私の実家までは車で約1時間かかる。
私はまっすぐ実家に帰らず、途中の高知駅前で降ろしてもらい、その日開かれている忘年会会場に向かった。年によってメンバーは若干異なるが、いつも10数名以上集まる。12月30日は中学・高校時代の友人と開く忘年会の定例日になっている。
皆、老けた。しかし、表情も声も性格も高校時代と変わらない。しかし、話題は変わる。最近はどうしても親の病気や介護のことが中心になる。子供たちもほどんど高校生以上である。すでに社会人になった子を持つ友人もいる。孫が生まれた者もいる。私のようにまだ小学生の子を持つ者は私を含めて2人しかいない。
我が国では最近、結婚しない人が急増している。結婚年齢も上昇している。しかし私の同期生(約360名:男女ほぼ同数)はほとんどが結婚している。ずっと独身を通している同期生の数は数名以下であろう。(男子生徒も女子生徒も社会人になれば結婚し家庭を持つこと。これを前提とした、ごく「普通の教育」を私たちは6年間受けた。)
彼らと出会ったのは中学校1年生のとき。もう40年以上も前のことである。しかし入学当時のことは今でもありありと思い出すことができる。
体育館で開かれた入学式。起立し、背の高い同級生のなかに埋もれながら、初めて聴いた校歌。体育館全体に木霊した。その美しいメロディーと先輩たちの透き通る歌声は今も私の耳に残る。先輩たちが自分の学校に誇りを持つとともに、新しく入学してきた私たちを心から歓迎してくれているのを肌で感じることができた。「あさかぜのすがしき国、にひはりの道は開けぬ・・・。」
振り返れば、私の人生が始まったばかりの時期であった。
あれから40年以上経て、私の息子がちょうどこの年齢に達した。この4月、中学生になる。
息子にも間もなく思春期が訪れるであろう。息子にとってこれからが本当の人生である。
私はまっすぐ実家に帰らず、途中の高知駅前で降ろしてもらい、その日開かれている忘年会会場に向かった。年によってメンバーは若干異なるが、いつも10数名以上集まる。12月30日は中学・高校時代の友人と開く忘年会の定例日になっている。
皆、老けた。しかし、表情も声も性格も高校時代と変わらない。しかし、話題は変わる。最近はどうしても親の病気や介護のことが中心になる。子供たちもほどんど高校生以上である。すでに社会人になった子を持つ友人もいる。孫が生まれた者もいる。私のようにまだ小学生の子を持つ者は私を含めて2人しかいない。
我が国では最近、結婚しない人が急増している。結婚年齢も上昇している。しかし私の同期生(約360名:男女ほぼ同数)はほとんどが結婚している。ずっと独身を通している同期生の数は数名以下であろう。(男子生徒も女子生徒も社会人になれば結婚し家庭を持つこと。これを前提とした、ごく「普通の教育」を私たちは6年間受けた。)
彼らと出会ったのは中学校1年生のとき。もう40年以上も前のことである。しかし入学当時のことは今でもありありと思い出すことができる。
体育館で開かれた入学式。起立し、背の高い同級生のなかに埋もれながら、初めて聴いた校歌。体育館全体に木霊した。その美しいメロディーと先輩たちの透き通る歌声は今も私の耳に残る。先輩たちが自分の学校に誇りを持つとともに、新しく入学してきた私たちを心から歓迎してくれているのを肌で感じることができた。「あさかぜのすがしき国、にひはりの道は開けぬ・・・。」
振り返れば、私の人生が始まったばかりの時期であった。
あれから40年以上経て、私の息子がちょうどこの年齢に達した。この4月、中学生になる。
息子にも間もなく思春期が訪れるであろう。息子にとってこれからが本当の人生である。
2010年8月3日火曜日
おもちゃ
息子がまだ幼稚園に通っていた頃、息子のおもちゃを全部取り上げて倉庫にしまってしまったことをこのブログに書いたことがある。あれから7~8年が過ぎた。それらのおもちゃは、今も我が家の倉庫に眠っている。結局、一度も取り出すことがなかった。
先日、自宅のリビングを眺めてみて驚いた。息子はほとんど何もおもちゃを持っていないのだ。あるのは本と将棋盤だけ。当然、テレビゲームはない。本も最近までは図書館で借りたものばかりであった。
息子がおもちゃを買ってくれとねだったことはない。友達の家にはこんなおもちゃがあったといった話を家内には時折するようであるが。「親が子に一方的に与えるおもちゃは子の創造性を高めない」というのが私と家内の考えである。
幼稚園の頃、おもちゃを私に全て取り上げられた息子のおもちゃは、新聞の折込広告と鋏、そして色鉛筆だけになった。息子は家の中では折込広告の裏に絵を書いたり、折込広告で切り絵をしたり、折り紙をして遊んでいた。息子がつくった折り紙の一部はまだ残っているが、私には到底つくれないような作品がある。誰に習うのでもなく、どのようにして作ったのか、私にはわからない。折り紙に限らず、息子の「形」の認識力には舌を巻く。
息子が小学校に入ってからは近くの図書館に毎日のように通い、山のように本を借りてきてはむさぼるように読んだ。息子がこれまでに読んだ本の刷数は膨大である。いつの間にか、漢字検定2級に挑戦するまでになった。最近、ノートパソコンのキーボードを盛んに叩いているので、何をしているのかと尋ねたら、ミステリー小説のコンクールに応募する作品を書いているのだという。小学生に1万字近い文章が書けるのかどうかわからないが、息子は黙々とコンピュータのディスプレイを睨んでいる。
運動も好きだ。息子は小学校に入る直前に自宅近くの水泳教室に入った。4年生になってから教室をかえたが、6年近く水泳を続けていることになる。速さはたいしたことはないのであろうが、教室をかえてからは泳ぎのスタイルがよくなったようだ。スタイルが重視される学校の水泳学級で先日、1級の認定を受けたという。その直後に行われた水泳合宿で行われた、海での2キロメートルの遠泳も楽にこなせたという。息子にはスポーツで身を立てるほどの運動能力はないと私は思っているが、体を動かすことは子供にとって大切なことである。
スキー合宿にも息子が幼稚園に通い始めた頃から毎冬参加させた。2~3泊の合宿であった。息子ひとりでである。知った友だちもいなかった。私は、息子は一度だけでその合宿に行くのをやめるものだと思っていた。当時、息子はとても内気で、知らない人とはなかなか話せなかったからだ。しかし、合宿から帰宅すると、毎回、楽しかったと答えた。そして、また翌年も行くと言った。結局、息子は昨年の冬まで、毎年、知らない人たちに混じってスキー合宿に参加した。今年の年末にもまた出かけるに違いない。
週1回であるが、サッカー教室にも通っている。どこでもサッカーは大人気。息子も入会申し込みから1年ほど待ってやっと近所のサッカークラブに入会することができた。
息子は何かを始めると決して中途でやめない。この点には感心する。塾通いもそうである。小学校1年生のときから通っている塾は自宅から遠い。近くの塾にすればどうかと何度か息子に話したが、息子はやめると言わない。学校の行事などで出席できない場合を除き、欠席することはない。今年の初めからは将棋教室にも通っている。場所は千葉県の柏。自宅からは1時間かかる。それも苦にならないらしい。
私自身は、小学生の頃、学校から帰宅すると、ランドセルを家に放り込むやいなや近所の幼友達と遊びに出かけた。遊び場所は、夏は川。冬は神社の境内であった。夏は上半身素っ裸になって田んぼで走りまわり、体が熱くなるとそのまま川に飛び込んだ。1日に4回も5回も川で泳いだ。全身が真っ黒になり、皮膚の皮がむけた。冬の神社の境内ではもっぱら野球。私が自転車に乗る練習をしたのも神社の境内であった。自宅の裏山もかけずり回った。帰宅するのは、いつも日が沈み、あたりが真っ暗になってからであった。帰宅した私に、「勉強しなさい」とか、「宿題はすんだのか」といった言葉が私の両親から出たことは一度もなかった。私は、翌日は何をして遊ぼうかということ以外には考えていなかった。
当時は、確かに物質的には貧しかった。私自身もおもちゃといえるおもちゃはほとんど持っていなかった。近所に住む幼友達の家におもちゃが山のように積み上げられていたのとは対照的であった。ひとりの幼友達の家には顕微鏡があった。もちろん子供用であったが。私はその顕微鏡で花粉を見てみたくなったことがあった。しかし、その遊び友達の母親は、私にその顕微鏡を触らせることを認めなかった。当時の私が、自分の親に向かって、たとえおもちゃのものであろうと顕微鏡を買ってくれなどと言えるはずはなかった。私は自分の家が貧乏であると親から頭に叩き込まれていた。この他にも貧乏故に惨めな思いをしたことも何度かあった。それでも私はいじけることもなく、近所の幼友達と元気よく遊んだ。楽しくて仕方がなかった。ちゃんばらがしたくなったら、木を切って自分で刀を作った。竹馬も自分で作った。吹き矢はストローと釘。釘をストローの中に入れて思いっきり吹いた。思い切り息を吸い込んだときに誤って釘を飲み込んでしまったこともあった。釘を飲み込んだなどと親に話すこともできず、私は長い間不安であった。
死にそうになったことも3回ほどある。
台風が過ぎ去った直後、私は増水した川に泳ぎに行った。当然、まだ濁流であった。足元は見えない。ふっと深くなった場所で私の体は流され、滝から下へ流され落ちそうになった。私は必死でコンクリートに捕まった。助けてもらうまでどれほどの時間があったのだろうか。水の流れが強いので私はいっそ手を放そうかと思った。もし、あのとき、手を放していたら、私はおそらく死んでいたであろう。滝の下は大きな岩だらけであった。
木登りをしていて、高い木の上から大きな石の上に転落したこともあった。幸い、その石の角に体が当たらなかった。鉄棒で回転飛び降りをした際に、バランスを崩し、砂に背中を強く打ったこともあった。もし角度がわるかったならば、頚部の骨を折っていたに違いない。
鬼ごっこをしても、駆けまわるのは地面ではなかった。2年間通った自宅近くの保育園の外塀の上であった。そのコンクリートの外塀の上をピョンピョンと跳び回って逃げたり追いかけたり。転落したならば大怪我をしたであろう。
私の前頭部には今も傷が残っている。断崖から川に頭から飛び込んだ際に川底の岩に前頭部をぶつけた際にできた傷である。怪我をしたとき噴き出るように出血したのを今も鮮明に覚えている。幸い、この傷は髪に隠されていて見えないが。
どれもぞっとするような記憶である。
私の息子の遊びは鳥かごの中での遊びのように見える。常に護られている環境での遊びである。しかし、私自身の子供の頃の遊び方を真似るようにと息子に言う勇気はない。
先日、自宅のリビングを眺めてみて驚いた。息子はほとんど何もおもちゃを持っていないのだ。あるのは本と将棋盤だけ。当然、テレビゲームはない。本も最近までは図書館で借りたものばかりであった。
息子がおもちゃを買ってくれとねだったことはない。友達の家にはこんなおもちゃがあったといった話を家内には時折するようであるが。「親が子に一方的に与えるおもちゃは子の創造性を高めない」というのが私と家内の考えである。
幼稚園の頃、おもちゃを私に全て取り上げられた息子のおもちゃは、新聞の折込広告と鋏、そして色鉛筆だけになった。息子は家の中では折込広告の裏に絵を書いたり、折込広告で切り絵をしたり、折り紙をして遊んでいた。息子がつくった折り紙の一部はまだ残っているが、私には到底つくれないような作品がある。誰に習うのでもなく、どのようにして作ったのか、私にはわからない。折り紙に限らず、息子の「形」の認識力には舌を巻く。
息子が小学校に入ってからは近くの図書館に毎日のように通い、山のように本を借りてきてはむさぼるように読んだ。息子がこれまでに読んだ本の刷数は膨大である。いつの間にか、漢字検定2級に挑戦するまでになった。最近、ノートパソコンのキーボードを盛んに叩いているので、何をしているのかと尋ねたら、ミステリー小説のコンクールに応募する作品を書いているのだという。小学生に1万字近い文章が書けるのかどうかわからないが、息子は黙々とコンピュータのディスプレイを睨んでいる。
運動も好きだ。息子は小学校に入る直前に自宅近くの水泳教室に入った。4年生になってから教室をかえたが、6年近く水泳を続けていることになる。速さはたいしたことはないのであろうが、教室をかえてからは泳ぎのスタイルがよくなったようだ。スタイルが重視される学校の水泳学級で先日、1級の認定を受けたという。その直後に行われた水泳合宿で行われた、海での2キロメートルの遠泳も楽にこなせたという。息子にはスポーツで身を立てるほどの運動能力はないと私は思っているが、体を動かすことは子供にとって大切なことである。
スキー合宿にも息子が幼稚園に通い始めた頃から毎冬参加させた。2~3泊の合宿であった。息子ひとりでである。知った友だちもいなかった。私は、息子は一度だけでその合宿に行くのをやめるものだと思っていた。当時、息子はとても内気で、知らない人とはなかなか話せなかったからだ。しかし、合宿から帰宅すると、毎回、楽しかったと答えた。そして、また翌年も行くと言った。結局、息子は昨年の冬まで、毎年、知らない人たちに混じってスキー合宿に参加した。今年の年末にもまた出かけるに違いない。
週1回であるが、サッカー教室にも通っている。どこでもサッカーは大人気。息子も入会申し込みから1年ほど待ってやっと近所のサッカークラブに入会することができた。
息子は何かを始めると決して中途でやめない。この点には感心する。塾通いもそうである。小学校1年生のときから通っている塾は自宅から遠い。近くの塾にすればどうかと何度か息子に話したが、息子はやめると言わない。学校の行事などで出席できない場合を除き、欠席することはない。今年の初めからは将棋教室にも通っている。場所は千葉県の柏。自宅からは1時間かかる。それも苦にならないらしい。
私自身は、小学生の頃、学校から帰宅すると、ランドセルを家に放り込むやいなや近所の幼友達と遊びに出かけた。遊び場所は、夏は川。冬は神社の境内であった。夏は上半身素っ裸になって田んぼで走りまわり、体が熱くなるとそのまま川に飛び込んだ。1日に4回も5回も川で泳いだ。全身が真っ黒になり、皮膚の皮がむけた。冬の神社の境内ではもっぱら野球。私が自転車に乗る練習をしたのも神社の境内であった。自宅の裏山もかけずり回った。帰宅するのは、いつも日が沈み、あたりが真っ暗になってからであった。帰宅した私に、「勉強しなさい」とか、「宿題はすんだのか」といった言葉が私の両親から出たことは一度もなかった。私は、翌日は何をして遊ぼうかということ以外には考えていなかった。
当時は、確かに物質的には貧しかった。私自身もおもちゃといえるおもちゃはほとんど持っていなかった。近所に住む幼友達の家におもちゃが山のように積み上げられていたのとは対照的であった。ひとりの幼友達の家には顕微鏡があった。もちろん子供用であったが。私はその顕微鏡で花粉を見てみたくなったことがあった。しかし、その遊び友達の母親は、私にその顕微鏡を触らせることを認めなかった。当時の私が、自分の親に向かって、たとえおもちゃのものであろうと顕微鏡を買ってくれなどと言えるはずはなかった。私は自分の家が貧乏であると親から頭に叩き込まれていた。この他にも貧乏故に惨めな思いをしたことも何度かあった。それでも私はいじけることもなく、近所の幼友達と元気よく遊んだ。楽しくて仕方がなかった。ちゃんばらがしたくなったら、木を切って自分で刀を作った。竹馬も自分で作った。吹き矢はストローと釘。釘をストローの中に入れて思いっきり吹いた。思い切り息を吸い込んだときに誤って釘を飲み込んでしまったこともあった。釘を飲み込んだなどと親に話すこともできず、私は長い間不安であった。
死にそうになったことも3回ほどある。
台風が過ぎ去った直後、私は増水した川に泳ぎに行った。当然、まだ濁流であった。足元は見えない。ふっと深くなった場所で私の体は流され、滝から下へ流され落ちそうになった。私は必死でコンクリートに捕まった。助けてもらうまでどれほどの時間があったのだろうか。水の流れが強いので私はいっそ手を放そうかと思った。もし、あのとき、手を放していたら、私はおそらく死んでいたであろう。滝の下は大きな岩だらけであった。
木登りをしていて、高い木の上から大きな石の上に転落したこともあった。幸い、その石の角に体が当たらなかった。鉄棒で回転飛び降りをした際に、バランスを崩し、砂に背中を強く打ったこともあった。もし角度がわるかったならば、頚部の骨を折っていたに違いない。
鬼ごっこをしても、駆けまわるのは地面ではなかった。2年間通った自宅近くの保育園の外塀の上であった。そのコンクリートの外塀の上をピョンピョンと跳び回って逃げたり追いかけたり。転落したならば大怪我をしたであろう。
私の前頭部には今も傷が残っている。断崖から川に頭から飛び込んだ際に川底の岩に前頭部をぶつけた際にできた傷である。怪我をしたとき噴き出るように出血したのを今も鮮明に覚えている。幸い、この傷は髪に隠されていて見えないが。
どれもぞっとするような記憶である。
私の息子の遊びは鳥かごの中での遊びのように見える。常に護られている環境での遊びである。しかし、私自身の子供の頃の遊び方を真似るようにと息子に言う勇気はない。
2010年6月5日土曜日
恩師:植田和男先生の訃報
昨夜、職場からの帰宅途中、一通のメールが届いた。差出人欄には「匿名」と書かれていた。私が前回書いたブログ「うげる」に対するコメントとして私に送信されていた。しかしそのメールは「うげる」に対するコメントではなく、昨年11月に書いた私のブログ「熊本」に対するコメントであった。そのメールを読み、私は強い衝撃を受けた。「熊本」の中に書いた恩師、植田和男先生の死を知らせるメールであった。
以下は、原文のとおり。
「突然失礼いたします。私は熊本で科学展という事業のお手伝いをしている者です。科学展が今年70回を迎えることから、この10年の功労者の足跡を調べていましたら、あなたのブログに行き当たりました。
2009年の11月、熊本にいらっしゃった時のブログを見てコメントしました。
話題に上がっていましたU先生は、昨年お亡くなりになっています。最後の勤務校は大津高校という学校で、亡くなられた経緯は良く存じませんが、誰に対しても威張らず、いつでも子どものように好奇心一杯で、学究肌の先生でした。先生がフィールドワークされたデータはウェブでも公開されて(今は閉鎖していますが)大学の先生方も参考にされる程でした。先生は、学校が嫌いだったり、勉強が苦手な生徒達を連れてよく岩石採集のフィールドワークに連れて行くなどされていました。生徒とそういう関わり方をずっとされてきた方でした。先生の教職生活の中で、あなたのような感じ方をしていただいた方がいらっしゃったということだけでも救われる思いがいたしました。 」
昨年11月、私は、熊本市に行ったついでに阿蘇にある高森町を訪れた。30年余り前、私が大学生だった頃、植田和男先生はこの高森町に住んでいた。当時、先生はまだ独身であり、一人暮らしをしていた。
私は高森町駅に車を止め、しばし駅の周りを歩いた。しかし30年前の高森町駅舎がどうであったのか、当時の光景を思い出すことはできなかった。私が思い出すことができたのは、植田先生私に向かって見せた、恥ずかしそうな笑顔だけであった。
上に紹介したメールを読むと、植田先生は最晩年まで職場の同僚からはうとんじられていたのではないかと思われる。植田先生はロマンチストであった。常に弱いものの味方であった。きっと孤独であっただろうと思う。しかし植田先生が支えようとした子供たちの心のなかで植田先生は生き続けるに違いない。
私の中学高校時代の恩師はこれで皆亡くなられた。
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