私がお世話になっている歯科医からメールが届いた。彼は地震の直後から震災救援活動に駆り出されていた。
以下、いただいたメールの文面の一部を修正して掲載する。
諸先生方にはご心配をおかけしました。派遣中、先生方のご支援をいただきましたことを心から感謝いたします。精神的にめげそうな業務でしたが、先生方の御支援が心の支えになりました。私は昨日朝、宮城から戻りました。
13日午後3時に、午後6時までに警察庁に集合せよとの連絡が入りました。警視庁第一機動隊のバスで緊急車両のみ走行が許されている東北道を通って山形入りし、宮城県で身元確認作業に従事しました。交代要員第2陣が金曜日深夜に来ましたので、土曜日朝にそのバスに乗り帰京しました。
直下型地震ではありませんでしたから、仙台中心部や私が作業に従事した岩沼市でも建物の倒壊はほとんどありませんでした。ブロック塀すら倒れているのはわずかでした。古い家屋が倒壊している程度でした。
ほとんどすべてが津波による被害でした。津波が町を破壊しました。津波の威力は想像を超え、海から6キロ地点までがれきを運び、田んぼを覆い尽くしていました。特に仙台より北のリアス式海岸の被害が甚大です。ビルの3階に避難していた方々すら津波にのみ込まれました。
検死会場は修羅場でした。続々とご遺体が運び込まれてきます。自衛隊、警察、消防の方たちは不休で働いていました。体育館の中では御遺族が号泣する声が響いていました。我々はひたすら感情を殺すよう努力しながら作業を続けました。感情を殺さなければあまりの悲しみのために作業を続けられなくなるからです。
まだ生存者のいる可能性があるため、重機を使ってのがれき撤去作業は行っていません。ニュージランドでの地震の際にはもっと早い時期に生存の可能性をあきらめて重機を投入しました。
あまりにも死亡者が多いため、戦後初めて、身元確認が終わらなくても資料採取が終われば、ご遺体を自治体に回し、火葬に処すようにと警察庁から通達がありました。これは戦後初めての通達です。戦時下での対処と一緒です。
すべてのことが終わるには2か月もしくはそれ以上かかるかもしれません。無事であった町でもライフラインは寸断され、市民は不安な不自由な暮らしをしています。警察ですら車両もガソリンも不足しています。どうしてもっと、政府が手だてをうって、大量の物資を東北地方に搬入できないのかと不思議に思いました。
まだまだ冷たいがれきの下や海際には累々としたご遺体があります。40万人の被災者がいます。私の仲間はガイガーカウンターを身につけ原発近くの南相馬市で作業に従事しています。私のいた岩沼市も原発から60キロ地点ですから、通常の6倍程度の放射能濃度にはなっていたと思います。
4日目にやっと温かいコーヒーを飲みました。毎日、あたりまえのように飲んでいたコーヒーすら飲むことができない状況でした。東京も不便な状況になっているようですが、自宅に戻り、宮城に比べればなんて平和で安全な町だろうという思いと一緒に作業に従事していた警察、消防、自衛隊、医師、歯科医師がきょうも作業を続けていると思うと心が痛みます。
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