2010年8月3日火曜日

おもちゃ

息子がまだ幼稚園に通っていた頃、息子のおもちゃを全部取り上げて倉庫にしまってしまったことをこのブログに書いたことがある。あれから7~8年が過ぎた。それらのおもちゃは、今も我が家の倉庫に眠っている。結局、一度も取り出すことがなかった。

先日、自宅のリビングを眺めてみて驚いた。息子はほとんど何もおもちゃを持っていないのだ。あるのは本と将棋盤だけ。当然、テレビゲームはない。本も最近までは図書館で借りたものばかりであった。

息子がおもちゃを買ってくれとねだったことはない。友達の家にはこんなおもちゃがあったといった話を家内には時折するようであるが。「親が子に一方的に与えるおもちゃは子の創造性を高めない」というのが私と家内の考えである。

幼稚園の頃、おもちゃを私に全て取り上げられた息子のおもちゃは、新聞の折込広告と鋏、そして色鉛筆だけになった。息子は家の中では折込広告の裏に絵を書いたり、折込広告で切り絵をしたり、折り紙をして遊んでいた。息子がつくった折り紙の一部はまだ残っているが、私には到底つくれないような作品がある。誰に習うのでもなく、どのようにして作ったのか、私にはわからない。折り紙に限らず、息子の「形」の認識力には舌を巻く。

息子が小学校に入ってからは近くの図書館に毎日のように通い、山のように本を借りてきてはむさぼるように読んだ。息子がこれまでに読んだ本の刷数は膨大である。いつの間にか、漢字検定2級に挑戦するまでになった。最近、ノートパソコンのキーボードを盛んに叩いているので、何をしているのかと尋ねたら、ミステリー小説のコンクールに応募する作品を書いているのだという。小学生に1万字近い文章が書けるのかどうかわからないが、息子は黙々とコンピュータのディスプレイを睨んでいる。

運動も好きだ。息子は小学校に入る直前に自宅近くの水泳教室に入った。4年生になってから教室をかえたが、6年近く水泳を続けていることになる。速さはたいしたことはないのであろうが、教室をかえてからは泳ぎのスタイルがよくなったようだ。スタイルが重視される学校の水泳学級で先日、1級の認定を受けたという。その直後に行われた水泳合宿で行われた、海での2キロメートルの遠泳も楽にこなせたという。息子にはスポーツで身を立てるほどの運動能力はないと私は思っているが、体を動かすことは子供にとって大切なことである。

スキー合宿にも息子が幼稚園に通い始めた頃から毎冬参加させた。2~3泊の合宿であった。息子ひとりでである。知った友だちもいなかった。私は、息子は一度だけでその合宿に行くのをやめるものだと思っていた。当時、息子はとても内気で、知らない人とはなかなか話せなかったからだ。しかし、合宿から帰宅すると、毎回、楽しかったと答えた。そして、また翌年も行くと言った。結局、息子は昨年の冬まで、毎年、知らない人たちに混じってスキー合宿に参加した。今年の年末にもまた出かけるに違いない。

週1回であるが、サッカー教室にも通っている。どこでもサッカーは大人気。息子も入会申し込みから1年ほど待ってやっと近所のサッカークラブに入会することができた。

息子は何かを始めると決して中途でやめない。この点には感心する。塾通いもそうである。小学校1年生のときから通っている塾は自宅から遠い。近くの塾にすればどうかと何度か息子に話したが、息子はやめると言わない。学校の行事などで出席できない場合を除き、欠席することはない。今年の初めからは将棋教室にも通っている。場所は千葉県の柏。自宅からは1時間かかる。それも苦にならないらしい。

私自身は、小学生の頃、学校から帰宅すると、ランドセルを家に放り込むやいなや近所の幼友達と遊びに出かけた。遊び場所は、夏は川。冬は神社の境内であった。夏は上半身素っ裸になって田んぼで走りまわり、体が熱くなるとそのまま川に飛び込んだ。1日に4回も5回も川で泳いだ。全身が真っ黒になり、皮膚の皮がむけた。冬の神社の境内ではもっぱら野球。私が自転車に乗る練習をしたのも神社の境内であった。自宅の裏山もかけずり回った。帰宅するのは、いつも日が沈み、あたりが真っ暗になってからであった。帰宅した私に、「勉強しなさい」とか、「宿題はすんだのか」といった言葉が私の両親から出たことは一度もなかった。私は、翌日は何をして遊ぼうかということ以外には考えていなかった。

当時は、確かに物質的には貧しかった。私自身もおもちゃといえるおもちゃはほとんど持っていなかった。近所に住む幼友達の家におもちゃが山のように積み上げられていたのとは対照的であった。ひとりの幼友達の家には顕微鏡があった。もちろん子供用であったが。私はその顕微鏡で花粉を見てみたくなったことがあった。しかし、その遊び友達の母親は、私にその顕微鏡を触らせることを認めなかった。当時の私が、自分の親に向かって、たとえおもちゃのものであろうと顕微鏡を買ってくれなどと言えるはずはなかった。私は自分の家が貧乏であると親から頭に叩き込まれていた。この他にも貧乏故に惨めな思いをしたことも何度かあった。それでも私はいじけることもなく、近所の幼友達と元気よく遊んだ。楽しくて仕方がなかった。ちゃんばらがしたくなったら、木を切って自分で刀を作った。竹馬も自分で作った。吹き矢はストローと釘。釘をストローの中に入れて思いっきり吹いた。思い切り息を吸い込んだときに誤って釘を飲み込んでしまったこともあった。釘を飲み込んだなどと親に話すこともできず、私は長い間不安であった。

死にそうになったことも3回ほどある。

台風が過ぎ去った直後、私は増水した川に泳ぎに行った。当然、まだ濁流であった。足元は見えない。ふっと深くなった場所で私の体は流され、滝から下へ流され落ちそうになった。私は必死でコンクリートに捕まった。助けてもらうまでどれほどの時間があったのだろうか。水の流れが強いので私はいっそ手を放そうかと思った。もし、あのとき、手を放していたら、私はおそらく死んでいたであろう。滝の下は大きな岩だらけであった。

木登りをしていて、高い木の上から大きな石の上に転落したこともあった。幸い、その石の角に体が当たらなかった。鉄棒で回転飛び降りをした際に、バランスを崩し、砂に背中を強く打ったこともあった。もし角度がわるかったならば、頚部の骨を折っていたに違いない。

鬼ごっこをしても、駆けまわるのは地面ではなかった。2年間通った自宅近くの保育園の外塀の上であった。そのコンクリートの外塀の上をピョンピョンと跳び回って逃げたり追いかけたり。転落したならば大怪我をしたであろう。

私の前頭部には今も傷が残っている。断崖から川に頭から飛び込んだ際に川底の岩に前頭部をぶつけた際にできた傷である。怪我をしたとき噴き出るように出血したのを今も鮮明に覚えている。幸い、この傷は髪に隠されていて見えないが。

どれもぞっとするような記憶である。

私の息子の遊びは鳥かごの中での遊びのように見える。常に護られている環境での遊びである。しかし、私自身の子供の頃の遊び方を真似るようにと息子に言う勇気はない。

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