2021年1月6日水曜日

墓参り

1月2日、天気が良かったので家内とふたりで墓参りにいってきた。自宅からは車で15分ほど。住宅に囲まれた小さな寺の一角に墓はある。閑静で日当たりもいい。今年の正月は、私たち以外に参拝人はいなかった。
 
墓石の背面には「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と刻まれている。我が家のルーツを知っているのは私の息子までであり、私の息子の子らは、自分たちの先祖が高知県出身であったことすら知ることはないであろう。そう思い、「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と記した。
 
 
父親が亡くなったのは2014年3月7日。この墓石は父親の四十九日の法要の直前に完成した。私は父親の遺骨をしばらく自宅の仏壇に置いておきたかった。しかし家内は、納骨しないと成仏できないと言った。私は家内の言葉に従って父親の四十九日の法要の日に納骨した。法要に同席したのは、一人の僧侶と私、私の家内、そして私の一人息子だけであった。
 
祖父母まで、私の先祖は全て土葬であった。実家の裏山の斜面にあったわが家の墓地には30柱ほどの墓石が並んでいた。江戸時代からの墓石もあった。墓石の表面には苔が生え、名前が読めないものが少なくなかった。名前が刻まれていない墓石もあった。
 
改葬するにあたって遺骨は専門業者に依頼し、2日かけて掘り起こしてもらった。どの墓からも骨のかけらぐらいは見つけられるだろうと思っていた。しかし遺骨や遺品が出てきたのは祖母と祖父の墓だけであった。他の墓には遺品も遺骨も何も残っていなかった。驚いたのは、祖父の遺骨よりも祖父の遺骨が傷まずに残っていたことであった。祖母は祖父より20年前に亡くなっていた。しかし祖父より25歳若くして亡くなったので、まだ骨がしっかりしていたのかもしれない。祖母の遺骨はビニールの袋に包まれ、櫛などの遺品も出てきた。
 
遺品も遺骨も残っていなかった墓からは一握りの土だけを取り出しそれを丸めて遺骨代わりとした。
 
わが家では、親族のものと思われる墓も管理していた。子供の頃、私はその墓の掃除に何度か母親と行ったことがある。その墓は実家から数百メートル離れた小高い山の上にあった。雑木が生い茂り日当たりが悪く、湿っぽかった。途中の山道は狭く、坂は急峻で、滑りやすかった。当時はまだ母親の足腰はしっかりしており、どのように地面を踏みしめれば足を滑らさないかを私に教えてくれた。その墓地は昼間でも薄暗く気味がわるかった。私は一刻も早くその墓地から立ち去りたいといつも思ったが、母親は自宅から持ってきた竹箒で落ち葉を丁寧に掃き、ひとつひとつの墓に水を注いだ。いくつかあった墓石には「広瀬」と刻まれていた。しかし國弘家と広瀬家との関係について母親も父親も私に話したことはなかった。
 
私の実家の裏山の畑に後に父親が設けた納骨堂は、この「広瀬家」の人たちの遺骨が納められているようであった。それらの遺骨も父親や先祖の遺骨と一緒に東京に送った。納骨堂を開ける際に、納められていた遺骨の俗名を確認したが、忘れてしまった。遺骨はほとんど傷んでいなかった。國弘家の先祖のものとは大違いであった。おそらく「広瀬何某」であったのではなかろうか。
 
これだけ多くの遺骨を新しく完成した墓に納められるられるかどうか心配であったが、無事、納まった。
 
改葬は大変な作業である。多くの時間と労力を要する。経費もかかる。改葬に要した経費の大半は父親の通帳から出した。しかし出血性脳梗塞で入院していた父親は自分の意見を述べられる状態ではなかった。父親の通帳から通帳から改葬費用を引き落とすには裁判所の許可が必要であった。裁判所への嘆願書は司法書士の友人が書いてくれた。嘆願書には、父親が元気であった頃に改葬を希望していたことを証明する文書を添付しなければならなかった。この証明書を作成するために友人は私の親戚や隣人の家を訪れ、父親が改葬についてどう考えていたのかを聞いてくれた。父親がまだ元気であった頃、改葬のための経費の見積もりをある業者に要求していたことはその際に知った。
 
友人が書いてくれた裁判所への改葬嘆願書は長文であった。彼はその嘆願書の文面をファックスで私に送ってきた。私は彼の書いたものを推敲し送り返した。何度かファックスでやり取りした。裁判所からは、無事、改葬許可が下りた。
 
友人の名は土方昭。中学校時代からの友人である。私が両親の介護をするようになってからは、彼がいろいろとサポートしてくれた。彼は非常に真面目な男であった。手を抜かない。あまりにも熱心に働きすぎて燃え尽きてしまったようだ。数年前に仕事をやめ、今は悠々自適の生活を送っている。
 
話が前後するが、両親が元気だった頃、私は実家に帰るたびに実家の裏山にある先祖の墓地に参拝した。父親と一緒であることが多かった。墓地の草をむしった後、ひとつひとつの墓の前で祈った。祖父母の墓で祈る際には、父親はいつも「幸伸が来たぜよ」と祖父母の墓石に向かって話しかけた。そして「自分が元気なうちは自分が墓守をするが、ゆくゆくは幸伸、頼むぜよ」と言った。
 
その墓地にはもう両親を埋葬するスペースがなかった。漠然としてではあったが、私は、両親はどこに埋葬しようかと考えていた。父親が倒れた直後は、実家の裏に父親が設けていた親族の納骨堂に両親の遺骨を納めるつもりであった。しかしその納骨堂は畑の一角にあった。市役所に勤務しているた中学高校時代の同期生に相談すると、畑に納骨堂を設けるのは違法であると言われた。納骨堂も撤去しなければならなかった。
 
墓地を探さねばならなくなったのにはもう一つ訳があった。なんと、先祖代々の墓がある土地は我が家の所有地ではなかったのだ。実家の隣の家が所有していた。江戸時代からの墓石があったので、まさかそのようなことがあろうとは。私は驚いた。既に二百年以上我が家で使用していた。したがって我が家の所有地とする手続きをすることができないわけではなかったが、隣家と揉め事を起こしたくなかった。
 
当初は実家があった土佐市内で墓地を探した。しかし土佐市は高知龍馬空港から離れている。そのため、空港に近い高知市内の墓地を探した。高知市の市街を臨める小高い山の中腹にある墓地が私は気に入った。そこは日当たりもよかった。
 
その墓地に改装しよう、両親が亡くなったら両親の遺骨もそこに納めようとほぼ決めたとき、墓地は東京に移すのがいいと従姉から言われた。その従姉はある宗教に入信しており、信心深かった。彼女は「供養することが大事だから」と私に言った。確かに、墓参りのために高知を年に何度も訪れることは難しい。ましてや私の息子の代になれば一層困難になるであろう。
 
私は、父親と同じ病院に入院していた母親に、東京に改装しようと考えていると話した。それを聞いた母親は笑顔を浮かべながら賛成してくれた。母親はどんなことがあっても東京には行かない、高知で一生を終える、と若い頃から私に言っていた。しかし死後は私たちの家の近くに埋葬されるのが寂しくなくてよかったのであろう。父親も東京に移住する意志はないと母親から聞かされていた。しかし、実家の隣人には「いずれは東京に連れていかれるだろう」と父親は話していたという。「連れていかれる」というのは土佐の表現である。意味するのは、埋葬されるということである。
 
改葬するには市役所の許可が要る。この許可申請も手続きが煩雑であった。改葬許可を受けるには、まず過去70年ほどの先祖の一覧が必要であった。家系図のようなものである。市役所でもらったその書類を見ると、亡くなった先祖の名前は一本の横線で消されていた。こんなにも沢山の先祖がいたのかと驚かされた。しかし私が知っている名前はほとんどなかった。
 
もうひとつ大きな問題があった。改葬するには改葬先も決めなければ改装許可をもらえない。父親の病状はどんどん悪化していった。時間との競争になった。
 
改葬先探しは私の家内がやってくれた。家内はあちこちからカタログを取り寄せ、現地にも足を運んでくれた。私も何箇所か見て回った。
 
私たちの夫婦は宗派にはこだわらない。しかし母親は宗派を変えることを嫌がった。我が家の宗教は真言宗豊山派であった。自宅近くに真言宗の寺がなかったわけではなかった。しかしそれらの寺を私たち夫婦は好きになれなかった。住職が傲慢であった。宗派によって僧侶の性格が異なることに私たちは気づいた。
 
あちこちを下見した結果、私たちは文京区にある曹洞宗の寺を改装先に選んだ。その寺には信仰宗教不問の一角があった。寺に支払う権利費、業者に支払う墓石製作費は父親の銀行口座から引き落としたが、諸雑費もかなりかかった。私たち夫婦が費やした時間膨大であった。また息子も含めて家族全員が何度か高知に帰らねばならなかった。
 
改葬にあたって私たち夫婦は先祖のために全力を尽くした。しかし埋葬される先祖たちは自分たちの希望を私たちに告げることはできない。死人に口なしなのである。

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