私には同じ小学校、中学校、高校に通った再従従妹(はとこ)がいる。彼女には私の姉と同い年の姉がいたが、物静かな兄とは対照的に非常に活動的で気が強かった。小学校1〜2年生のときには私は一人のクラスメートによく泣かされた。その際に私をかばってそのクラスメートを叱りつけてくれたのはいつも彼女であった。小学校1年、2年の担任であった先生(中野とし先生)私が小学校卒業卒業式の日、「あんなに泣き虫だったのに逞しくなったね」と私に微笑みながら話しかけてくれたのを今でも思い出す。
私は小学校1年、2年の頃はあまり成績がよくなかった。小学校3年になって突然、成績がクラスのトップクラスになった。両親の介護のために東京と高知の実家とを往復しているときに箪笥の中かから当時の通知簿が出てきた。良心は私の思いでの品をしっかりと箪笥のなかにしまっておいてくれていた。成績は私が思っていたとおりであった。小学校1年と2年のときにも算数は非常によくできたらしいが、他の教科のできは大したことはなかった。ところが小学校3年生の通知簿からは別人のように成績が上がっていた。成績が上がった理由はわからない。
話を戻す。
その従妹は、私と同じ高校を卒業した後、徳島県にある大学の薬学部に進学した。そして薬剤師になった。今も薬剤師として働いている。この再従兄弟とは年一回、年賀状をやりとりする程度のつきあいでしかなかった。
彼女とよく連絡を取り合うようになったのは私の両親が入院し、私が東京と高知とを往復するようになったときからであった。私は2週間に1回高知に帰った。土曜日,日曜日、月曜日と三日間高知に滞在することが多かった。土曜日には朝5時に起床し、始発の飛行機で高知に向った。高知からの帰りはいつも月曜日の最終便であった。月曜日には銀行、市役所、郵便局などを回るとともに病院に見舞いにも行かなければならなかった。月曜日は朝食も昼食もとれないことが多かった。夕食は空港内の食事でさぬきうどんをかけこんだ。
そんな私を見かねたのか、私が高知に行くときには空港まで私の車(私の父親所有であった)を運んでくれた。私が高知龍馬空港に着いたときには毎回、私の車が駐車場に停められていた。そして私が東京に帰る歳には空港に乗り捨てた車を駐車場まで運んでくれた。「少しでも長くおんちゃんとおばちゃんの側におっちゃりや」と彼女は言ってくれた。
私の母親は尿管結石の手術を受けた後、尿管にカテーテルが入っていた。そのカテーテルは2か月に一回交換しなければならなかった。そのため、入院先の病院から高知大学医学部附属病院を受診せねばならなかった。その歳には付添がいる。親戚が付き添ってくれたこともあったが、私の家内も何度か高知に帰省した。台風が高知県を直撃したときに家内が高知に行かなければならないときもあった。そんなときでもその再従兄弟は私の家内を自分の栗間に乗せて母親の入院している病院まで連れていってくれた。途中、通る仁淀川は大きく増水し、箪笥も流れてきていたらしい。このような気管な非にも再従兄弟は助けてくれた。
その日、私の家内は、母親が入院している近くに住んでいる私の従姉に挨拶に立寄ったというが、その従姉は私の家内の輻湊を見て「みすぼらしい。もっときちんとした身なりをしなさい」と叱ったという。私もその従姉には幾度となく同じ叱責を受けたことがある。
しかし私が帰省したときには、私は泥だらけになりながら父親が所有する山林や田畑を回らねばならなかった。家内とて似たようなものである。着飾って行く必要などないではないか。それに私たちは金には不自由していない。見栄を張る必要はない。
両親が亡くなるまで、私は実に多くの人たちに助けてもらった。その一方で、最も近くに住んでいる娘である姉は何もしなかった。見舞にも来なかった。姉にはいずれ天罰が下るであろう。
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