2012年5月6日日曜日

あさま山荘事件

きのうから「あさま山荘銃撃戦の真相」大泉康雄(著)講談社文庫(上下巻)を読んでいる。

軽井沢のレイクニュータウンにある浅間山荘を家内と二人で見に行ったことは、昨年のブログに書いた。浅間山荘はレイクニュータウンの南側に位置する山の北斜面にあることは以前から知っていた。しかしその山の中の道路は迷路のように複雑であり標識もほとんどない。地元の人に浅間山荘への道を尋ねたこともあったが誰もが口をつぐんだ。

事件が起きたのは1971年2月。当時、家内は小学校6年生だったという。その年の夏、家内は家族と一緒に浅間山荘を見に行った。その頃はまだ山の斜面に木は生い茂っておらず、レイクニュータウンの湖畔からも浅間山荘がよく見えたという。車で山の斜面を登り、山荘の前にも立ったことがあるということであった。当時、その建物はまだ修復されておらず、鉄球で開けられた壁の穴が残っていたらしい。

現在、山の斜面は樹木に被われており、浅間山荘ばかりでなく他の建物も下からは見えない。家内と私は、「あさま山荘事件の真実」(北原薫明(著)ほおずき書籍)に掲載されていたごく簡単な地図だけを頼りに、車でゆっくり坂を登りながらあさま山荘を探した。人気もほとんどなく木が生い茂り、さびしい道であった。一回目にその山を訪れたときには、あさま山荘を見つけることができなかった。建物を見つけることができたのは1ヶ月後、2度目にその山を訪れたときであった。その日も雨が降り、道は暗く、寂しかった。

私は山荘の前で車を停め、建物の前に立った。そのとき、めまいと吐き気が襲ってきた。そして何とも表現のしようのない不快な感覚に襲われた。この感覚は、私が留学中に訪れたミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所に行ったときに私を襲った感覚と同じであった。

家内と私は直ちにその場を離れた。そして坂を下りる途中、その山荘の真下で車を停め、坂の下からその建物を見上げた。

あさま山荘事件での死者は3人。しかしその事件の前に犯人らのグループは14人もの仲間を殺していた。私がいま「あさま山荘銃撃戦の真相」を読みながら、彼らが犯した殺人行為の中に何らかの必然性を見いだしたいと思う。殺された多くの人たちの死に、わずかであっても意味を見いだしてあげたいと思うからである。しかしこの本の3分の2を読み終えた今の段階で私が納得できる解答は見いだせない。

2012年5月3日木曜日

14回目の誕生日

きょう5月3日は憲法記念日。息子の誕生日である。息子はきょうで14歳になった。私たち一家は毎年、この日を軽井沢の別荘で過ごす。

息子が幼い頃は、この日に佐久の川べりで開かれる佐久バルーンフェスティバルを観によく出かけた。そして5月5日のこどもの日には、軽井沢や小諸で開催される子どものためのイベントに参加したものである。

息子が生まれた日のことは以前、このブログに書いた。

その日の朝5時すぎに私は家内の声で目を覚ました。私が目を開けると、暗い部屋のなかで私の布団の側に家内が立っていた。そして「お腹が痛くなったからこれから病院に行ってくるね」とささやくように小声で言った。家内は一人で病院に行くつもりであったらしい。家内は既に外出着に着替えていた。そして数日前からパッキングを済ませていたスーツケースを引いて部屋を出ようとした。私は慌てて起き上がり大急ぎで着替え、家内と一緒に家を出た。

当時、私たちは家内の実家に住まわせてもらっていた。家内の実家は三井記念病院の向かいにある。いつもタクシーが何台も並んでいた。しかし、その日は祭日であったためか、朝早かったためか、一台もタクシーが停まっていなかった。大通りまで走っていき、やっとタクシーの空車を止めることができた。霧雨が降っていた。

タクシーの運転手は、慶應病院までの道筋を知らなかった。私もそうであった。お腹の痛みをこらえながら家内がタクシーの運転手に指示をした。慶應病院に着いたのは午前7時であった。直ちに入院になった。

私は家内が陣痛室に向かった後、病室でずっとうとうとしていた。その日は一日中霧雨が降り、蒸し暑かった。しかし病室のエアーコンディショナーは故障していた。息子が生まれたことを知らせる分娩室からの電話で私は目を覚した。

私が分娩室に着いたとき、息子の体はすでにきれいに清められ産着に包まれていた。その息子を私は慣れない手つきで初めて抱いた。初めて見る息子は両目の間が離れており垂れ目であった。息子は、いまどこにいるのだろうというような表情を見せて目を左右にきょろきょろさせた。

その晩、家内は疲れのためぐっすり眠ったものとばかり私は思っていたが、安堵と喜びのために家内は興奮してなかなか寝つけなかったという。

息子が生まれた日のことは、まだ昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。私にとっても長い長い一日であった。

訃報 岡和義先生

昨夜9時30分過ぎに自宅を出て軽井沢に出かけてきた。高速道路は渋滞しており、途中、パーキングで4回休憩をとっった。軽井沢に着いたのは今朝の午前1時30分であった。4時間かかった。普段は眠気をこらえて休まず運転する。しかし数日前に起きた関越自動車道でのバスの衝突事故が私を慎重にさせた。その事故では7名が亡くなり、残る乗員乗客の全員が重軽傷を負った。

今朝目覚めたのは10時。家内も息子もまだぐっすり眠っていた。

パソコンの電源を入れ着信メールを確認すると高校時代の同級生からメールが届いていた。私の高校時代の恩師が亡くなられたことを知らせる内容であった。

恩師の岡和義先生。私が高校1年のときの担任。3年間、数学を教えていただいた。当時、すでに頭は真っ白であった。その白髪が実によく似合っていた。岡先生からは常に清潔感が漂ってきた。身だしなみも丹精であった。

岡先生は神父でもあるとクラスメートから聞いたことがあった。しかし岡先生の口からキリスト教の話が出たことは一度もなかった。宗教についての話を聞かされたこともほとんどなかった。

こんな岡先生が、授業中、次のような話をされたことがある。

「男性であっても女性であっても、人間らしく生きようとしていれば、自ずと男性は男性らしく女性は女性らしくなる。」

長い間、私は、この岡先生の言葉の意味を取り違えていた。私は、この岡先生の言葉は、男性と女性が生まれながらに持つ違いを否定するものであると思っていた。

最近になって、私は、そうではなく、この言葉は、逆に、いやおうなく生じる男女の違いを認めるものであったのでないだろうかと思うようになった。

幼児に電車のおもちゃを与えると、男の子はその電車を車の一種として取り扱う。その電車を床の上で走らせようとするのだ。一方、女の子はその電車を人形として取り扱い、ベッドの下に寝かせることもあるという。私には男児しかいないので真偽はわからないが。

生まれながらにして男と女は違う。これは自分の子を持てばたちどころにわかることである。男と女の違いを無視し、男女を無理に均一化しようとしているのが今の教育である。その結果はどうであったか。日本の現状を見れば一目瞭然であろう。男性は女性のがさつさや厚かましさにうんざりしている。女性は女性で、男性の頼りなさにフラストレーションをためている。

話を戻す。私が高校2年になったとき、クラス替えがあった。私は理科系のクラスを選択した。岡先生は文科系のクラスの担任となった。

この岡先生のクラスの学生2人(男女)が失踪したことがある。学校中が大騒ぎになった。二人は数日後、中国地方のある県で保護された。

駆け落ちであったのか、それとも急に思い立った単なる2人だけの無断旅行であったのか、クラスが違った私にはわからなかった。

二人が保護され高知に連れ戻されたあと、岡先生は、女子学生が自分のクラスに戻ることは許した。しかし一方の男の学生が同じクラスに戻ることを頑として認めなかった。その男の子は隣のクラスに「引き取られ」た。今もお元気でいらっしゃる谷脇先生(愛称:たにしん先生)が、「彼が可哀想だから」と彼を自分のクラスに受け入れたということであった。

当時の私は、その話を聞いたとき、岡先生はなんと厳しい先生なのだろうと思った。そして男子学生だけに厳しい岡先生の姿勢に反発心を抱いた。私は、岡先生の男子学生に対する姿勢は男というものに対する不当な措置であると思った。(今、冷静に考えれば、駆け落ちをした二人を元の同じクラスに戻すことは無理であった。)

大学に入学したあと、私は同じ大学(だだし、経済学部)に進学した同期生といっしょに岡先生のご自宅を訪問したことがある。

岡先生と奥様が私たちを歓待してくださった。この日、岡先生は饒舌であった。いくら数学が得意であっても生きていく上では何の役にも立たないことを嘆かれた。

お二人にはお子さまがいらっしゃらなかった。このことがお二人の人生を寂しいものにしていた。奥様はとても上品で物腰の柔らかい女性であったが、どこか自信なさそうであった。子を産まない女性がどれほど寂しいものかを私は初めて知った。

その後、岡先生とのご縁は薄くなった。岡先生の姿を同窓会の会場で1〜2回お見かけしたことがある。しかしお話しする機会はなかった。

白いヘルメットをかぶり、原付に乗って通勤されていた岡先生の姿が今も目に浮かぶ。授業中の岡先生の身振りや手振り、そしてその声も生涯忘れることはないであろう。そして岡先生の生き様は、私の生き方にも少なからぬ影響を与えていると思う。

私が中学校・高校の6年間にお世話になった3人の担任の先生は全て亡くなった。

2012年3月29日木曜日

宗教と戦争

今、世界で起こっている戦争の多くは宗教戦争だと思う。キリスト教徒とイスラム教徒との諍いが特に目立つ。キリスト教もイスラム教も一神教である。これらの宗教には白と黒しかない。グレーといったものはない。また、同様に正義と悪しかない。「盗人にも三分の理」とか「乞食にも三つの理屈」といった世界はないようだ。

日本ではイスラムは悪でありキリスト教徒の多い西欧は正義であると漠然と思われているように私は感じる。しかし果たしてどちらが正義だと決めつけることはできるであろうか。キリスト教徒が「正義」の名のもとにどれだけ多くの命を奪ってきたのかを振り返ってみればよい。

おそらく私は、生涯、キリスト教徒にもイスラム教徒にもならないだろうと思う。八百万の神々を奉る日本人のあいまいさが私は好きだ。日本人の持つグレーさを私は愛する。

2012年3月21日水曜日

「メール」雑感

メールが使われるようになって久しい。私も今は、仕事上も私生活の中でもメールなしでは生活ができない。確かにメールは情報を交換するには便利である。送信記録も受信記録も長期間にわたって保存できる。検索も容易である。さらに時間を問わず送ることができる。

しかし、私信の代用としてメールを使用するのは危険である。メールで自分の感情を的確に表現することはきわめて難しい。メールで「馬鹿!」と書けば、このメールを受け取った当人は批判されたと思う。しかし直接会って話している際に発する「馬鹿!」は必ずしも相手を批判する言葉とはならない。逆に相手に対する親しみや愛情を表現する言葉になることもある。

メールをやりとりするにあたって若者が絵文字を多用するのは、このメールの弱点に彼らも気づいているからかも知れない。絵文字を添えることによって自分の気持ちをできるかぎり誤解なく相手に伝えようとしているのであろう。

しかし若者たちは若いうちに絵文字ではなく文字だけで自分の考えや感情を正確に伝える訓練を自らに課さねばならないのではないか。絵文字に過度に頼るのは日本語による表現力を乏しくすることにつながりはしないだろうか。

私は絵文字がうまく使えない。また自分の持つ表現力を駆使してもメールでは自分の感情を的確に表現することができない。手紙や直接会って話すほうが遥かに自分の感情を相手に正確に伝えることができると考えている。今の若い人たちから見れば私は明らかに「旧人類」に属する時代遅れの人間なのかもしれない。

私が十代の頃は若者の長電話が問題になった。しかし今振り返れば、若者同士が電話で話すことは必ずしも悪いことではなかった。電話では直接相手と顔を合わせるわけではないが、ほぼそれに近い環境が得られる。大きさや抑揚によって相手の言葉を誤りなく受け取ることができる。逆に自分の意見や感情も伝えることができる。

若い人たちにはできるかぎり直筆の手紙を書いてもらいたいと思う。葉書1枚でもかまわない。手紙を書いているときには時間はゆっくりと流れる。文章を何度も読み返しては便箋を破り捨てて書き直すこともある。手紙を書くということはゆったりと自分の心の中を見つめる格好の場を持つということである。文章による表現力も磨かれるであろう。手紙をポストに投函してもその手紙がいつ相手に届きいつ相手が自分の手紙を読んでくれるのかは正確にはわからない。だから最低でも数日間は相手のことが頭の片隅から離れない。

話がとんでしまうが、私は1年間の浪人生活を経て大学に入学した。その浪人時代に国語の教えていただいた先生が授業中の雑談のなかで次のようなことを話した。

その先生は都内の女子大の教授であったが、字の下手な女子学生がいるとその学生に向かって「君はラブレターを書いたことがないだろう!?」と話すという。学生が「どうしてそう思うのですか?」と尋ねてきたら、そのときに「字が下手だからさ」と言うという話であった。

最近は恋人同士が手紙のやりとりをするということは全く聞かなくなった。おそらく、彼らはメールで連絡を取り合っているのであろう。彼らには1か月に1回でもいいから直筆の手紙のやりとりをしてもらいたい。自分が最も大切に思う相手に書く手紙には自ずと心がこもるであろう。きれいな字で書きたいとも思うであろう。文章による表現力も磨かれるはずである。

2012年3月14日水曜日

ホワイトデー

きょうはホワイトデーである。ホワイトデーは1年に1回しかないのでホワイトデーに関する雑感をきょうのうちに綴っておこうと思ったが気分が乗らない。

この年齢に達すると、ホワイトデーというのは義理チョコに対する返礼の日でしかない。決して心が踊る日ではない。むしろ憂鬱である。数年前からは、ホワイトデー用のチョコレートは家内に頼んで買ってきてもらっている。私の自宅の近くに芥川製菓(株)というチョコレート工場がある。ここでは売れ残ったバレンタインデー用のチョコレートのバーゲンセールを開く。このバーゲンセールのために朝早くから列をつくって並ぶのが、私たちが今の家に引っ越してからずっと家内の楽しみになっている。家内はたくさんのチョコレートが入った大きな袋を両手に抱え、うんうんうなりながらチョコレート工場から帰ってくる。私がホワイトデーにお返しするチョコレートは全て、こうして家内が買ってきた売れ残りなのだ。しかし、それでも私がバレンタインデーにもらうものよりずっと立派なチョコレートである。

バレンタインデーの日、私にチョコをくれたある女性は、「義理チョコ」ではなく日ごろお世話になっていることへの「感謝チョコ」だと言った。確かにそれは彼女の本心だと思ったが、「来年はもうバレンタインデーのチョコはいらないから」と私は彼女に告げた。

ただし、今年はホワイトデーの日に少しだけ気持ちが晴れることがあった。その日、職場の廊下でよく知っている20歳代前半の女性職員にたまたますれ違った。彼女からバレンタインデーにチョコレートをもらっていたわけではなかったが、1箱余っていたのでそれを彼女にあげたところ、彼女はびっくりするとともに屈託のない笑顔を見せて喜んでくれた。残り物のチョコレートをもらっただけなのにそんなに嬉しいものなのだろうか。私は不思議に思った。しかし彼女は心から喜んでくれているように見えた。私はホワイトデーというものに対する割り切れぬ思いに心が暗くなっていたが、彼女のその爽やかな笑顔に心が洗われた。

バレンタインデーとホワイトデーのチョコレートの交換は、未婚の若い男女の間だけの楽しみでいいのではないだろうか。バレンタインデーやホワイトデーに微笑みを交わしながら若いカップルが食事をしている姿を見るだけで私は十分幸せである。

2012年3月11日日曜日

東日本大震災から1年

東日本大震災からちょうど1年になる。あの日のことは生涯忘れないだろうと思う。

地震が起きた日は金曜日であった。私は午前中の外来が長引き、まだ耳鼻科外来で診療を続けていた。縦揺れのすざましい揺れであった。私は患者を私の机の下に退避させ、私自身は隣の部屋の机の下に潜った。私の診察についていた看護師は動転し、ただただ耳鼻科外来をどたばた走り回っていた。

どうも私は根が不真面目らしい。こんなときでも、あたふたしているその看護師に向かって「○○さんは太っているから机の下に潜れないの?」と笑ながら大声で何度か叫んだ。そして机の下で笑い転げた。

しかしその一方で、私自身は、「この地震のために自分が死ぬかも知れないし死んでもかまわない」と思った。天井が崩れ落ちてきたら、それは私の寿命なのだと思っていた。それまでの自分の人生に関して後悔の念も湧いてこなかった。

揺れは一旦収まった。そのため私は外来診療を再開した。そのとき再度大きな揺れがやってきた。揺れは長く続いた。

ちょうどその頃、家内は山手線に乗っていたという。秋葉原駅から御徒町駅の間で電車の揺れが始まった。電車は御徒町で一時停止することなく上野駅まで行った。しかし御徒町から上野駅までの間で揺れは更に大きくなった。そして上野駅で電車は停まった。家内は上野駅で電車から降りると大急ぎでタクシーに乗り帰宅した。帰宅すると、息子が通っていた小学校から、迎えに来るようにというメールが届いた。家内はタクシーを拾い、茗荷谷にある息子の小学校に向かった。そしてそのタクシーを待たせたまま校門をくぐった。

地震が起きたとき、息子は講堂で卒業式の練習をしていたという。幸い、息子も含めて子供たちは誰もけがをしなかった。(しかしその講堂は大きく傷み、10日あまり後の息子の卒業式は場所を変更せざるをえなくなった。)

息子が無事であったことは家内からのメールで知った。私も自分の無事を伝えた。

その晩、私は病院に泊まった。床の上でそのまま雑魚寝であった。肌寒かった。

地震が起きた後の病院の職員の対応と帰宅できなくなった患者さんたちの冷静な行動は忘れられない。

生きていくことは常に危険と背中合わせである。それらの危険を確実に防止することはできない。交通事故に遭うのがいやなら家に閉じこもっているしかないであろう。いや、たとえ家に閉じこもっていたとしてもトラックが家に衝突することがあるかもしれない。地震で家が崩れ落ちることがあるかもしれない。交通事故や天災には見舞われなくても病気なるかもしれない。仮に病気になることがなかったとしても、全ての人が老い、そして死んでいく。

それを百も承知であったとしても、親を亡くした幼子(おさなご)の話を聞くと、言葉を失う。

2012年3月3日土曜日

二人の天使

きょうは土曜日である。息子は私が目を覚ます前に学校に出かけた。私はいま、リビングのテーブルに座り、家内と二人でのんびりとコーヒーを飲んでいる。ステレオから「二人の天使」が流れてくる。

「二人の天使」を聴くたびに私はある女性を思い出す。私が通った中学校・高校の同期生である。彼女と同じクラスになることは一度もなかった。

彼女と初めて話したのは、私が大学2年生の頃ではなかったかと思う。彼女は都内にある某女子大学に通っていた。彼女を私に紹介したのは私と同じ大学の経済学部に通っていた彼女の友人であった。女性二人は高校のクラスメートであった。

今、友達に異性を紹介するということは、交際を前提としたものになるのかもしれない。しかし当時はそうではなかった。私たち3人は、単に懐かしい同級生として何回かいっしょに食事をする程度であった。

しかし何がきっかけであったのかは記憶にないが、女子大に通うその女性と二人きりで会ったことがあった。場所は彼女の下宿先に近い上野公園であったように思う。彼女は私のためにお弁当を作ってきてくれた。いま振り返れば立派な「デート」であった。しかし当時の私にはそのような意識はなかった。彼女も東大生とつきあっていると私に話した。

彼女と二人きりで会ったことがそのあとあったかどうかは記憶にない。一度か二度はあったかもしれない。ただ、私が彼女の下宿に何度か電話したことはあった。

いつごろであったであろうか。突然、彼女と連絡がとれなくなった。電話をかけても出ない。そのうち、私は彼女のことをすっかり忘れてしまった。

それから何年か経って私が大学を卒業し、研修医として国立栃木病院に勤め始めたころ、突然、一通の手紙が届いた。差出人はその女性であった。どのようにして私の所在を突き止めたのかはその手紙に書かれていたのかもしれないが、記憶にない。

彼女は高知の実家に戻り、交際を続けていた東大生が大学を卒業して別の大学の医学部に入り直すのを待っていると書かれていた。

彼女からは1〜2か月に1回程度、手紙が届いた。手紙に書かれている内容はほとんど、その恋人の医学部入学をひたすら願う彼女の心情と彼女自身の近況であった。

そんな手紙のなかの一通に次のようなことが書かれていた。「私が、國弘さんではなく、○○さんを選んだのは、彼の方が國弘さんよりも頭がいいと思ったからです。」

(合点がいった。彼女と連絡がとれなくなったとき、彼女は彼と同棲を始めたのだ。)

「○○さん」という男性は、予備校に通っていたころの私を知っていたらしい。そして折に触れて、彼の方が私よりも予備校での成績がよかったと彼女に話していたようだ。

私は彼を知らないから彼の言っていたことが正しかったのか誤っていたのかはわからない。そんなことはどうでもよかった。ただ、彼の心は手に取るようにわかった。

今ならば、「彼女は私に気があるのではないか」と考えたであろう。しかし当時の私はそんなことは全く考えもしなかった。「彼女というのは試験の点数で人間の価値を判断する女性なのだ」と感じ、単に不愉快に思っただけであった。

彼女と最後に会ったのは、28歳の頃ではなかったかと思う。私が帰省したときであった。彼女はそのときもまた同じ言葉を繰り返した。

彼女を車に乗せ、彼女の自宅に送り届ける途中、私は彼女に厳しい言葉を吐いた。「君は女性として幸せになれないんじゃない?」

車の中での二人の会話はそれで途絶えた。

彼女を自宅のそばで降ろすと、彼女は後ろを振り返って私に挨拶することもなく自宅に向かって坂道を上っていった。

彼女はそれから間もなく結婚した。しかし、その男性とではなかった。

彼女の所在は同級生も知らない。同窓会に出席してくることもないらしい。

この彼女が一番好きな曲だと私に話したのが、さっきまで流れていた「二人の天使」であった。

2012年2月26日日曜日

東方神起

3日前の外来診療中のこと。30歳近い年齢の女性が受診した。彼女の髪は真黄色でおかっぱ。しゃべり方も幼く、どう見ても20歳そこそこにしか見えない。

診察中、彼女から飛行機に乗ってもいいかどうかと尋ねられた。東方神起を追いかけて4月中旬まで韓国に行くのだという。当然、東方神起など私が知るはずがない。

私が「東方神起って?」と尋ねると、彼女は携帯電話を取り出し、東方神起の写真を私に見せた。そして彼らについて熱心に説明した。「向かって左側は踊りがうまくて、右側は歌がうまい」、「左右どっちが好き?」、「胸がきゅんとしない?」などと、彼女の話は延々と続いた。彼らを見て私の胸がきゅんとすることなどあろうはずがないではないか。

彼女は最後に小声でぽつりと「いっしょにはなれないと思うけど」と言った。

私は「『いっしょ』とは?」と尋ねた。彼女は「結婚すること」と答えた。

うーん・・・。私は声が出なかった。

彼女は幼児や児童を対象としている仕事についているという。きっと彼女にはうってつけの仕事に違いない。彼女の幼い話し方も幼児や児童相手であればうってつけである。

韓流スターを夢中で追いかけ、自分の人生と重ね合わせるといったことは、10~20歳前後の若者であればよくあることであろう。しかし30歳近くなってもこのようなことがあるのか。

こんなことを言っている私も、彼女の携帯電話の東方神起の写真を何枚か私のiPhoneに収めた。彼らの写真を何度見返しても、私の胸がときめくことはないが。

(このブログは、本人の了承を得て書いた。)

追っかけ

最近、芸能人を追いかける若者の心理がなんとなくわかってきた。彼らの行動はノーマルだと思えるようになってきた。しかし、韓流スターを追いかける中年女性の心理はまだよくわからない。彼女たちは自分たちが若い頃に経験しておくべきことを経験しなかった一種の欠陥人間ではないかとすら思えることがある。

2012年2月25日土曜日

高知から

今週の月曜日の夜、私が卒業した高校の3年後輩からfacebookのメッセージが届いた。そのメールには、「土佐藩からお役目御免を言い渡され・・・」と書かれてていた。「土佐藩」とは、高知県庁のことである。彼は2年前に東京から高知に帰り、高知県庁で非常勤職員として働いていた。そのメールは、彼の失職の知らせであった。メールの最後には、彼かつくった下手な歌が添えられていた。

「土讃線ごとごと行けりやはらかき朝日に映える学生の顔」

私は返事を書いた。「これからどうするの?」

彼からはすぐに応答があった。「俳諧師」

私「松尾芭蕉?」
彼「一茶」

私が高校2年生の時、彼とは寮で1年間同室であった。彼のいいところは、どんなに追いつめられてもユーモアを失わないこと。愛すべきキャラの持ち主である。ただし、生活力がない。

翌朝、私は高知で司法書士事務所を営んでいる高校の同級生に電話を入れてその後輩の再就職の斡旋を依頼した。彼も私と同じ中学・高校で6年間寮生活を送っており、その後輩をよく知っていた。

彼は直ちに「よっしゃ。任しちょいてくれ」と力強く後輩の世話を引き受けてくれた。電話を切ると私はすぐ後輩に電話を入れた。そして彼の連絡先を教えた。

さきほど、後輩から連絡が入った。「○○さんにお会いし、今後の航路が定まりました。どうも有難うございました。詳細は今構築中です。取り急ぎ御礼まで。」

そして、彼がつくった下手な歌がまた添えられていた。

「どろめ漁終へし漁船は一線に並びて帰る浦戸湾口」
(「どろめ」とはイワシの稚魚。土佐の珍味。)

私はほっとするとともに、友達のありがたみをひしひしと感じた。