2012年3月21日水曜日

「メール」雑感

メールが使われるようになって久しい。私も今は、仕事上も私生活の中でもメールなしでは生活ができない。確かにメールは情報を交換するには便利である。送信記録も受信記録も長期間にわたって保存できる。検索も容易である。さらに時間を問わず送ることができる。

しかし、私信の代用としてメールを使用するのは危険である。メールで自分の感情を的確に表現することはきわめて難しい。メールで「馬鹿!」と書けば、このメールを受け取った当人は批判されたと思う。しかし直接会って話している際に発する「馬鹿!」は必ずしも相手を批判する言葉とはならない。逆に相手に対する親しみや愛情を表現する言葉になることもある。

メールをやりとりするにあたって若者が絵文字を多用するのは、このメールの弱点に彼らも気づいているからかも知れない。絵文字を添えることによって自分の気持ちをできるかぎり誤解なく相手に伝えようとしているのであろう。

しかし若者たちは若いうちに絵文字ではなく文字だけで自分の考えや感情を正確に伝える訓練を自らに課さねばならないのではないか。絵文字に過度に頼るのは日本語による表現力を乏しくすることにつながりはしないだろうか。

私は絵文字がうまく使えない。また自分の持つ表現力を駆使してもメールでは自分の感情を的確に表現することができない。手紙や直接会って話すほうが遥かに自分の感情を相手に正確に伝えることができると考えている。今の若い人たちから見れば私は明らかに「旧人類」に属する時代遅れの人間なのかもしれない。

私が十代の頃は若者の長電話が問題になった。しかし今振り返れば、若者同士が電話で話すことは必ずしも悪いことではなかった。電話では直接相手と顔を合わせるわけではないが、ほぼそれに近い環境が得られる。大きさや抑揚によって相手の言葉を誤りなく受け取ることができる。逆に自分の意見や感情も伝えることができる。

若い人たちにはできるかぎり直筆の手紙を書いてもらいたいと思う。葉書1枚でもかまわない。手紙を書いているときには時間はゆっくりと流れる。文章を何度も読み返しては便箋を破り捨てて書き直すこともある。手紙を書くということはゆったりと自分の心の中を見つめる格好の場を持つということである。文章による表現力も磨かれるであろう。手紙をポストに投函してもその手紙がいつ相手に届きいつ相手が自分の手紙を読んでくれるのかは正確にはわからない。だから最低でも数日間は相手のことが頭の片隅から離れない。

話がとんでしまうが、私は1年間の浪人生活を経て大学に入学した。その浪人時代に国語の教えていただいた先生が授業中の雑談のなかで次のようなことを話した。

その先生は都内の女子大の教授であったが、字の下手な女子学生がいるとその学生に向かって「君はラブレターを書いたことがないだろう!?」と話すという。学生が「どうしてそう思うのですか?」と尋ねてきたら、そのときに「字が下手だからさ」と言うという話であった。

最近は恋人同士が手紙のやりとりをするということは全く聞かなくなった。おそらく、彼らはメールで連絡を取り合っているのであろう。彼らには1か月に1回でもいいから直筆の手紙のやりとりをしてもらいたい。自分が最も大切に思う相手に書く手紙には自ずと心がこもるであろう。きれいな字で書きたいとも思うであろう。文章による表現力も磨かれるはずである。

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