2021年2月11日木曜日

恩師 5

やんしゅう先生の奥様が私の勤務先にいらしてくださった。私も奥様も随分と白髪が増えた。奥様は75歳。やんしゅう先生とは20歳前後年齢が離れていらっしゃったので、もしやんしゅう先生がまだ生きていらっしゃったならば、90歳代ということになる。

やんしゅう先生ご夫妻と知り合ったのは私の20歳代半ば。もう40年近くになる。

やんしゅう先生ご夫妻に懇意にしていただいたのは私だけではない。私の両親もたいそうよくしてもらった。私の両親がまだ元気だった頃、群馬県太田市のやんしゅう先生の奥様のご実家を両親と一緒に訪ねたこともあった。やんしゅう先生の奥様のご両親もその頃はお元気であった。奥様のご実家でのこと。隣の部屋から私の両親と奥様のご両親の賑やかな笑い声が聞こえてきた。何だろうと思って覗いてみると、なんと4人がお互いにお灸をすえあっていた。

やんしゅう先生は、私と二人だけのときは実に朗らかであった。しかし奥様のご実家ではいつも物静かであった。「物静か」というよりも無言であった。私に対しても何も話しかけなかった。私は何度か奥様の実家にうかがったが、奥様のご実家ではやんしゅう先生の話し声を耳にしたことがなかった。年末に奥様のご実家にうかがったとき、うつむいて黙々と年賀状を書いていらっしゃったやんしゅう先生の姿が今も目に浮かぶ。

やんしゅう先生は奥様とふたりで自宅にいらっしゃったときも寡黙であったのではないかと思われる。「仕事をキチンとやり社会的地位もあるのにねえ」と奥様が私に何回かおっしゃったのはそのことを指していたのではないだろうか。やんしゅう先生は奥様のことを私にはよく自慢した。しかし、その分、奥様に気後れしていたようだ。

奥様のお父様も書道の師範であった。姿勢がよく、かくしゃくとしていらっしゃった。目を細めながら時折見せる笑顔が魅力的であった。奥様も書道の師範であり、ご実家では絶えず筆を握って練習していらっしゃった。

奥様のお母様は対照的に温厚で心優しい方であった。私と二人きりになると、「ふたりに子がないことが気がかりで」と小声でおっしゃったことが何度かあった。奥様は一人っ子であった。奥様に子がないと家が絶える。このことをお母様はいつも気に病んでいらっしゃった。

30数年前の思い出である。奥様の両親は既に亡い。私の両親も亡くなった。

下は奥様が昨日お送りくださったご自宅の近くの写真である。川は隅田川。隅田川花火の日には何度かご自宅に招待していただき、ご自宅から花火を楽しませていただいた。






2021年1月22日金曜日

墓参り 2

先日、「墓参り」というタイトルでブログを書き、改葬について述べた。しかし話があちこちに跳んでしまって読みづらい。整理して書き直したい。
 
  1. 改葬の理由
    1. 我が家の先祖は全て土葬であった
    2. 土葬してある先祖の墓を掘り起こして遺骨を回収しなければ、両親の遺骨を埋葬するスペースがなかった
    3. かつ、その墓地は我が家の所有地ではなかった
    4. 親族の遺骨を納めるために父親が建てていた納骨堂は畑の中にあり、土佐市から移設を求められた
    5. 東京から墓掃除や墓参りに訪れることはどんどん困難になると予想された
  2. 改葬許可
    1. 裁判所からの許可の取得
    2. 市役所からの許可の取得
  3. 改葬先の準備
    1. 墓地の決定
    2. 納骨堂の注文
    3. 開眼供養
    4. 納骨
  4.  遺骨の回収
    1. 閉眼供養
    2. 遺骨の回収
    3. 東京への遺骨の運搬

2021年1月18日月曜日

宗教

我が家の宗教は真言宗豊山派である。空海(弘法大師)は四国の香川県に生まれ主に四国で布教活動を行ったためなのか、高知県では真言宗の寺を菩提寺として持つ家が多いように思う。

しかし私は信心深いとはいえない。そうかといって無神論者でもない。また、信教の自由は保障されなければならないとも考えている。

私にとって宗教とは何か、どのような意味を持つかといったことについてこれまで考えたことはない。宗教書もほとんど読んだことがない。高校時代、作家・野間宏の「歎異抄」という作品を読んだことがあるぐらいのものである。その本は友人が貸してくれというので貸したが、戻ってこなかった。

ただ、死後の魂とか霊魂といったことについては時折考える。私には霊は見えない。しかし不思議な経験をしたことがある。科学では説明できない事象であった。それ以来、生きている人の念もしくは死者の霊のようなものが離れた場所にいる人に影響を及ぼすことがあることを信じるようになった。

私が不思議な体験をしたのは大学6年生(医学部は6年)の時であった。卒業を間近に控えた1月中旬のこと。父親から夜に電話がかかってきた。元気でやっているかと父親は尋ねた。私は通り一遍の返事を返した。それほど長話はせず、父親は電話を切った。今、思い返すと、父親の声には力がなかった。

その翌日、私は友人の家に出かけた。そこで医師国家試験の勉強をするつもりであった。しかし、友人宅で勉強を始めても集中できない。それまで体験したことのない体調に陥った。熱があるわけではない。どこかが痛むわけでもない。表現のしようがない感覚であった。友人宅で一晩すごした。しかし翌日も体調はおなじであった。もしかして、と思って実家に電話をかけた。電話に出たのは伯母であった。叔母は私の声を聞くと、「どこにおるが!?お爺ちゃんが死んだで!今、お葬式の最中!」と叫んだ。祖父が亡くなったのを知って私は驚いた。深い悲しみが襲ってきた。しかし祖父の死を知った瞬間、体調が元に戻った。不思議な体験であった。

亡くなった祖父が自分の死を私に伝えようとしていたのであろうか。それとも両親や親族の強い思いがあのような体調を引き起こしたのであろうか。

以後、あのような体調に陥ったことはない。祖父が亡くなる直前の晩に父親が私に電話をかけてきたのは、祖父が危篤状態になっていることを伝えるためであった。しかし、国家試験を目前に控えて勉強に励んでいる私に、祖父の病状を伝えることができなかったという。祖父の死後、しばらく経って、父親は私にそう話した。



2021年1月14日木曜日

手紙

以前から、メッセージや電子メールでのやりとりは味気ないと思っていた。できれば手紙に切り替えたいと思っていた。昨年暮れからやっと手紙(葉書)を書くようになった。そのきっかけは昨年末にいただいた喪中葉書であった。
 
昨年暮れに喪中の連絡をくださった方の一部に、思い切って葉書でお返事を書いたのだ。主たる理由は私の転勤通知をまだ出していなかったことであった。だから葉書の文面はどれも同じであった。それでも手紙(葉書)を書くことによって心が洗われる気がした。
 
ここに掲載した葉書は、いただいた喪中葉書への返事として私が出した転勤通知に対して再度いただいた返事の葉書である。(本人の了解を得ず掲載する。)なんと、私がこれまで送った葉書を全て保管してくれていると書かれている。ほとんどは年賀状であろうが、23通あると書かれている。この方とは私が30代半ばのときに知り合った。生きるのが非常に辛い時期であったが、私の愚痴に耳を傾けてくれた。
 
年をとると若い頃のことを時々思い出すようになる。いろいろな方に助けられてここまで生きてこられたことをしみじみと感じる。
 
 
 

2021年1月7日木曜日

電子メールとメッセージ

電子メールは手軽である。メッセージはもっと手軽に送受信ができる。私は、メッセージ用のソフトウエアとしてはアップルのメッセージ、Facebookのメッセージ、そしてLINEを使用している。本当はアップルのメッセージだけを使いたいが、アップルのメッセージではAndroidのユーザーとの連絡が取りにくい。
 
セキュリティの面からはアップルのメールが最も安全であると思う。FacebookとLINEにはセキュリティ面で問題がある。
 
ただセキュリティのこととは関係なく、今後、メッセージを使うのは最小限にしようと思っている。
 
昨年の暮れから私は電子メールやメッセージの代わりに葉書を出すように努めている。葉書のやりとりは時間の流れが緩やかである。
 
私は、これまでいただいた手紙のなかで印象に残ったものを大切に保管している。それらを時々読み直すが、読むたびに心が洗われるような気がする。残念でたまらないのは、私がまだ独身であったころに父親からもらった手紙が見つからないことだ。十年ほど前に古い書類の山の中からその手紙を偶然見つけ、その文面に心を打たれた。どうもその手紙を大事に仕舞いすぎたようだ。見つからない。
 
私の人生もそう長くない。平均寿命まで生きたとしてもあと20年足らずである。私が最近出している葉書を長く保管してくれる人はいるであろうか。
 

2021年1月6日水曜日

墓参り

1月2日、天気が良かったので家内とふたりで墓参りにいってきた。自宅からは車で15分ほど。住宅に囲まれた小さな寺の一角に墓はある。閑静で日当たりもいい。今年の正月は、私たち以外に参拝人はいなかった。
 
墓石の背面には「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と刻まれている。我が家のルーツを知っているのは私の息子までであり、私の息子の子らは、自分たちの先祖が高知県出身であったことすら知ることはないであろう。そう思い、「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と記した。
 
 
父親が亡くなったのは2014年3月7日。この墓石は父親の四十九日の法要の直前に完成した。私は父親の遺骨をしばらく自宅の仏壇に置いておきたかった。しかし家内は、納骨しないと成仏できないと言った。私は家内の言葉に従って父親の四十九日の法要の日に納骨した。法要に同席したのは、一人の僧侶と私、私の家内、そして私の一人息子だけであった。
 
祖父母まで、私の先祖は全て土葬であった。実家の裏山の斜面にあったわが家の墓地には30柱ほどの墓石が並んでいた。江戸時代からの墓石もあった。墓石の表面には苔が生え、名前が読めないものが少なくなかった。名前が刻まれていない墓石もあった。
 
改葬するにあたって遺骨は専門業者に依頼し、2日かけて掘り起こしてもらった。どの墓からも骨のかけらぐらいは見つけられるだろうと思っていた。しかし遺骨や遺品が出てきたのは祖母と祖父の墓だけであった。他の墓には遺品も遺骨も何も残っていなかった。驚いたのは、祖父の遺骨よりも祖父の遺骨が傷まずに残っていたことであった。祖母は祖父より20年前に亡くなっていた。しかし祖父より25歳若くして亡くなったので、まだ骨がしっかりしていたのかもしれない。祖母の遺骨はビニールの袋に包まれ、櫛などの遺品も出てきた。
 
遺品も遺骨も残っていなかった墓からは一握りの土だけを取り出しそれを丸めて遺骨代わりとした。
 
わが家では、親族のものと思われる墓も管理していた。子供の頃、私はその墓の掃除に何度か母親と行ったことがある。その墓は実家から数百メートル離れた小高い山の上にあった。雑木が生い茂り日当たりが悪く、湿っぽかった。途中の山道は狭く、坂は急峻で、滑りやすかった。当時はまだ母親の足腰はしっかりしており、どのように地面を踏みしめれば足を滑らさないかを私に教えてくれた。その墓地は昼間でも薄暗く気味がわるかった。私は一刻も早くその墓地から立ち去りたいといつも思ったが、母親は自宅から持ってきた竹箒で落ち葉を丁寧に掃き、ひとつひとつの墓に水を注いだ。いくつかあった墓石には「広瀬」と刻まれていた。しかし國弘家と広瀬家との関係について母親も父親も私に話したことはなかった。
 
私の実家の裏山の畑に後に父親が設けた納骨堂は、この「広瀬家」の人たちの遺骨が納められているようであった。それらの遺骨も父親や先祖の遺骨と一緒に東京に送った。納骨堂を開ける際に、納められていた遺骨の俗名を確認したが、忘れてしまった。遺骨はほとんど傷んでいなかった。國弘家の先祖のものとは大違いであった。おそらく「広瀬何某」であったのではなかろうか。
 
これだけ多くの遺骨を新しく完成した墓に納められるられるかどうか心配であったが、無事、納まった。
 
改葬は大変な作業である。多くの時間と労力を要する。経費もかかる。改葬に要した経費の大半は父親の通帳から出した。しかし出血性脳梗塞で入院していた父親は自分の意見を述べられる状態ではなかった。父親の通帳から通帳から改葬費用を引き落とすには裁判所の許可が必要であった。裁判所への嘆願書は司法書士の友人が書いてくれた。嘆願書には、父親が元気であった頃に改葬を希望していたことを証明する文書を添付しなければならなかった。この証明書を作成するために友人は私の親戚や隣人の家を訪れ、父親が改葬についてどう考えていたのかを聞いてくれた。父親がまだ元気であった頃、改葬のための経費の見積もりをある業者に要求していたことはその際に知った。
 
友人が書いてくれた裁判所への改葬嘆願書は長文であった。彼はその嘆願書の文面をファックスで私に送ってきた。私は彼の書いたものを推敲し送り返した。何度かファックスでやり取りした。裁判所からは、無事、改葬許可が下りた。
 
友人の名は土方昭。中学校時代からの友人である。私が両親の介護をするようになってからは、彼がいろいろとサポートしてくれた。彼は非常に真面目な男であった。手を抜かない。あまりにも熱心に働きすぎて燃え尽きてしまったようだ。数年前に仕事をやめ、今は悠々自適の生活を送っている。
 
話が前後するが、両親が元気だった頃、私は実家に帰るたびに実家の裏山にある先祖の墓地に参拝した。父親と一緒であることが多かった。墓地の草をむしった後、ひとつひとつの墓の前で祈った。祖父母の墓で祈る際には、父親はいつも「幸伸が来たぜよ」と祖父母の墓石に向かって話しかけた。そして「自分が元気なうちは自分が墓守をするが、ゆくゆくは幸伸、頼むぜよ」と言った。
 
その墓地にはもう両親を埋葬するスペースがなかった。漠然としてではあったが、私は、両親はどこに埋葬しようかと考えていた。父親が倒れた直後は、実家の裏に父親が設けていた親族の納骨堂に両親の遺骨を納めるつもりであった。しかしその納骨堂は畑の一角にあった。市役所に勤務しているた中学高校時代の同期生に相談すると、畑に納骨堂を設けるのは違法であると言われた。納骨堂も撤去しなければならなかった。
 
墓地を探さねばならなくなったのにはもう一つ訳があった。なんと、先祖代々の墓がある土地は我が家の所有地ではなかったのだ。実家の隣の家が所有していた。江戸時代からの墓石があったので、まさかそのようなことがあろうとは。私は驚いた。既に二百年以上我が家で使用していた。したがって我が家の所有地とする手続きをすることができないわけではなかったが、隣家と揉め事を起こしたくなかった。
 
当初は実家があった土佐市内で墓地を探した。しかし土佐市は高知龍馬空港から離れている。そのため、空港に近い高知市内の墓地を探した。高知市の市街を臨める小高い山の中腹にある墓地が私は気に入った。そこは日当たりもよかった。
 
その墓地に改装しよう、両親が亡くなったら両親の遺骨もそこに納めようとほぼ決めたとき、墓地は東京に移すのがいいと従姉から言われた。その従姉はある宗教に入信しており、信心深かった。彼女は「供養することが大事だから」と私に言った。確かに、墓参りのために高知を年に何度も訪れることは難しい。ましてや私の息子の代になれば一層困難になるであろう。
 
私は、父親と同じ病院に入院していた母親に、東京に改装しようと考えていると話した。それを聞いた母親は笑顔を浮かべながら賛成してくれた。母親はどんなことがあっても東京には行かない、高知で一生を終える、と若い頃から私に言っていた。しかし死後は私たちの家の近くに埋葬されるのが寂しくなくてよかったのであろう。父親も東京に移住する意志はないと母親から聞かされていた。しかし、実家の隣人には「いずれは東京に連れていかれるだろう」と父親は話していたという。「連れていかれる」というのは土佐の表現である。意味するのは、埋葬されるということである。
 
改葬するには市役所の許可が要る。この許可申請も手続きが煩雑であった。改葬許可を受けるには、まず過去70年ほどの先祖の一覧が必要であった。家系図のようなものである。市役所でもらったその書類を見ると、亡くなった先祖の名前は一本の横線で消されていた。こんなにも沢山の先祖がいたのかと驚かされた。しかし私が知っている名前はほとんどなかった。
 
もうひとつ大きな問題があった。改葬するには改葬先も決めなければ改装許可をもらえない。父親の病状はどんどん悪化していった。時間との競争になった。
 
改葬先探しは私の家内がやってくれた。家内はあちこちからカタログを取り寄せ、現地にも足を運んでくれた。私も何箇所か見て回った。
 
私たちの夫婦は宗派にはこだわらない。しかし母親は宗派を変えることを嫌がった。我が家の宗教は真言宗豊山派であった。自宅近くに真言宗の寺がなかったわけではなかった。しかしそれらの寺を私たち夫婦は好きになれなかった。住職が傲慢であった。宗派によって僧侶の性格が異なることに私たちは気づいた。
 
あちこちを下見した結果、私たちは文京区にある曹洞宗の寺を改装先に選んだ。その寺には信仰宗教不問の一角があった。寺に支払う権利費、業者に支払う墓石製作費は父親の銀行口座から引き落としたが、諸雑費もかなりかかった。私たち夫婦が費やした時間膨大であった。また息子も含めて家族全員が何度か高知に帰らねばならなかった。
 
改葬にあたって私たち夫婦は先祖のために全力を尽くした。しかし埋葬される先祖たちは自分たちの希望を私たちに告げることはできない。死人に口なしなのである。

2021年1月4日月曜日

従姉

母親が亡くなった後、書類の山の中に一通の手紙を見つけた。差出人を見ると兵庫県に住む従姉であった。開封されていたので私はその手紙を既に読んでいたのだろうと思う。ただ全く記憶になかった。
 
読み直してみると、その従姉の実家の改修に必要なお金を私の母親に無心したと言われたがそんなことはないという内容であった。

その従姉の実家には彼女の母親が一人で暮らしていた。従姉はなんとかしてその家の外壁を改修してやりたいがお金がないと私に言ったことがあった。改修には二百万円だか三百万円だかがかかると従姉は話した。しかし彼女が私に金を無心したわけではなかった。私にそれほど多額の金を出す余裕などあるはずがない。改修費を負担すべき立場にもない。私は彼女の話を単に聞くだけであった。

この従姉は、彼女が私の実家に改修費用を無心したと私の母親が私に言ったものと思い込んでいたようである。そして私の誤解を解きたくてこの手紙を寄越してきたように思われる。しかし母親が私にそのような話をしたことはなかった。私の母親と私の間でこの従姉の実家の改修費のことが話題にのぼったことはなかった。
 
ただ、私の姉からは次のような話を聞いたことがあった。姉は、その従姉からお金を無心されるのでいやになってその従姉には電話をかけなくなったと私に言った。正確には、「従姉から電話で話すたびに金がない金がないと言われる。改修費を無心されているようでいやなので最近はその従姉に電話しなくなった」と姉は私に語った。姉が私にこの話をした直前に私も従姉から改修費のことを聞いていたので、姉の話は理解できた。しかし私は姉の話も聞き流した。
 
そんな時期に父親に続いて母親も入院。退院して実家に戻ることは二人ともできそうもなくなった。空き家になった私の実家をゆくゆくは従姉に譲渡することにし、彼女の母親が住む家の改修はせず彼女の母親に私の実家に住んでもらうのがいいのではないかと思った。私は従姉に電話をしてそのことを話した。しかしその従姉は「いらんわ、あんな田舎には住めん」といって私の申し出を断った。従姉の母親は結局、その従姉の実姉の嫁ぎ先の近くに住むようになった。そしてそこで亡くなった。
 
思い返してみると、従姉から金を無心されると私の母親に告げたのは私の姉であったと思われる。私の母親がその従姉と家の改修について直接話したことはなかったのではないかと私は推測している。姉から改修費の話を聞いやとしても、母親が従姉に抗議の電話を入れるといったことは、母親の性格からは考えにくい。
 
理由がわからないが、私はその従姉に恨まれることになった。
 
私の姉は、全く理由なく他人の悪口を言っては他人同士の人間関係を壊す。他人の人間関係を破壊することが姉の生き甲斐のようだ。姉が何か事実無根の話を従姉にしたのであろう。