2018年12月30日日曜日

今年もあと1日

今日は晦日。今年もあと1日を残すだけとなった。2014年3月に父親が亡くなって以来、揉めに揉めた父親の遺産相続問題も裁判所の裁定で決着がついた。姉を名誉毀損で訴えた民事訴訟も勝訴となった。母親の遺産相続でも姉と徹底的に争うつもりであった。しかし、私の人生最後の姉への情けとして姉の要求を一部受け入れたところ、母親の遺産相続の問題はあっけなく片付いた。11月末で全てが決着した。

父親の葬儀には、姉の親族のなかでは姉の夫である義兄一人だけが参列してくれた。姉と姉の4人の子供たちは誰も来なかった。その1年5ヶ月後に亡くなった母親の葬儀にも姉も姉の子供たちも参列はしないだろうと思っていた。ところが、姉と姉の長女と次女が告別式に訪れた。

しかし、姉にも姉の子供たちにも参列してもらわなかった方がよかった。彼らは私の母親の葬儀を汚しに来ただけであった。まず、3人とも親族席に座らなかった。一般席のしかもその最後部に並んで座った。焼香も最後であった。姉は祭壇までは来たが焼香はしなかった。そして、式場では、姉の長女が、参列者たちに対して「裁判をやれば私たちが勝つと、誰もが言っている」と話していたという。従姉からこのことを告げられた私は、「裁判とは何のことだろう」といぶかしく思った。母親が亡くなったときには、父親の遺産相続問題で調停中であったが、裁判にはなっていなかった。私が姉を名誉毀損で訴えたのは、母親の死後、かなりの時間が経過したあとであった。その裁判で私は勝った。姉が夜中に繰り返しかけてきた無言電話や留守番メッセージは今も大切に保存している。

「あなたたち3人がしたことは全て知っちょります」で始まる姉の留守番メッセージを初めて聞いたのは、私が池袋駅から大塚駅に向かって歩いているときであった。留守番メッセージは3回残されていた。姉は酔っていたのか、ろれつが回っておらず、周囲がやかましかったこともあってなかなか聞き取れなかった。しかし、姉の声の響きだけで背筋がぞっとした。これらのメッセージは、関係者に今後繰り返し聞いてもらうかもしれない。

「あなたたち3人」が誰を指すのかわからなかったが、長い間、それは私と私の両親を指しているのであろうと思っていた。「あなたち3人」が私と私の家内と私の長男を指していることを知ったのは母親の葬儀の翌日であった。その日、私は葬儀に参列してくれた親戚をお礼のために訪れた。その際に、ある親戚から、その前の晩(つまり葬儀の日の夜)、姉から電話があり、私と私の家内と私の息子が母親の預金通帳の名義を全て自分たちの名義に書き換えたと告げたといい、私たちに対しする憎しみを抱いていたと告げられた。

この話を親戚から聞かされた私の家内は絶句した。私も驚いたが、同時に「あなたたち3人」が私と私の両親のことではなく私と私の家内と私の息子であることを初めて知り、姉の異常さが気味わるくなった。

裁判の場で、姉は、「ある従姉(実際には実名)がそのように私に告げたからそれを信じていた」と陳述した。事実を確認せずこのような発言をすることが許されるのであろうか。

姉は、自分に不利な事実については、全て「ご近所の人たちがそう話していた」とか「従姉からそう聞いた」と証言して、ことごとく責任を逃れようとした。

姉も姉の長女も人ではない。両親は亡くなった。取り返しはつかない。

2018年10月29日月曜日

面河渓

10月25日から28日まで高知に帰省した。母校である高知学芸高校の1年生に対して進学ガイダンスを行うためである。高知に滞在中、日帰りで愛媛県の面河渓を訪れた。数年前から面河渓に行ってみたいとずっと思っていたが、途中で道に迷い、何度か途中で引き返していた。

私が幼い頃、我が家には縦4センチ、横3センチほどの小さな白黒写真があった。この写真には1歳になるかならないかの頃の私が父親に抱かれている姿が写っていた。父親はまだ若々しかった。父親の生前、その写真はどこで撮影したのかと父親に尋ねたことがあった。父親は「面河に行ったときに撮った写真よ」と一言答えただけであった。私もそれ以上突っ込んで聞きはしなかった。

その写真は、私が大学を卒業する際に卒業アルバムに掲載するために他の数枚の写真と一緒に実家から送ってもらったが、残念なことに紛失してしまった。ただその写真に写っていた若かりし頃の父親と幼い私自身の表情は今も網膜に焼き付いている。

その写真には、背景はほとんど写っていなかった。しかし、今回、面河を訪ね、きっとここで撮影したのだろうと思う場所を見つけた。

今でこそ道路が整備されているが、実家から面河までは遠い。当時はまだ道らしき道すらなかったのではないか。しかも当時、我が家には車がなかった。父親はどうやって面河まで行ったのであろうか。しかもまだ乳飲子であった私を連れて。きっと母親も私の姉も一緒であったのではないだろうか。

面河渓の紅葉をカメラに収めながら、私は60年前の出来事に想いを馳せた。










2018年10月9日火曜日

姉の病状

今朝、弁護士と電話を話した際に、姉の病状が思わしくないとの連絡を受けた。予想通りであった。一方的に縁を切っても親の遺産の相続権は消えないことを姉は知っていた節がある。姉は両親が入院して亡くなるまでの間、一度も病院に面会に訪れなかった。母親からのたび重なる電話にも出なかった。父親の葬儀にも出席しなかった。

両親の生前、一度も両親の見舞いに訪れなければ、姉の病状はさらに悪化するだろうと私は思っていた。案の定、そうなった。亡くなった両親をどんなに責めようとも、どんなに言い訳をしようとも、身体は正直である。

もう姉の病状はよくなるまい。可哀想であるが仕方がない。意地悪い表現をすれば、自業自得である。姉が縋る宗教も姉の心を癒しはしない。姉は、何が自分を苦しめ続けているのかに早く気づかねばならない。それ以外に姉が救われる道はない。私はもう手助けしない。

2018年8月19日日曜日

父親は2013年6月下旬に入院した。しかしその2年ほど前に父親は1回目の発作で入院したことがあった。その際には高知市内のもみの木病院で急性期の治療を受けた後、リハビリテーションのために「すこやかな森」に転院した。父親が「すこやかな森」に入院して何日も経過しないときに、ひとつの事件が起きた。

父親が看護師から清拭してもらっている最中にその看護師に対して「気持ちがいいので局部をもっと触ってくれ」という意味のことを言ったというのだ。父親がどのように言ったのか、正確な表現は知らないが。

私はこのことを姉から知らされた。姉はこのことをすごく恥じていた。姪もこのことで父親に激しく腹を立てており、もう「すこやかな森」には恥ずかしくて行けないと言っているということであった。

この話を聞いて私も恥ずかしくなかったわけではない。しかし、転院前、もみの木病院で主治医から見せられた父親の脳梗塞の範囲は広く、側頭葉から前頭葉に及んでいた。父親の言動がおかしくなるのは当然であった。私はこの件で父親を責めても仕方がないと考えた。

その後、わたしが「すこやかな森」に父親を見舞った際、主治医からこの件について尋ねられた。「お父様は普段からこのようにエロチックな方だったのですか」と。私ははっきりとは答えなかったように記憶している。

この時期のことであろうが、私が姪に対して「おじいちゃんの夜の伽をしろ」と言ったと姪は裁判の際に証言した。ここまで作り話をするのかと、私は愕然とした。

姪が恥ずかしがっているということを姉から聞かされたとき、私は姪に対して申し訳ないと思っていた。ただ、どうしようもないと考えていた。父親は脳の病気を患っているのだ。父親には責任はない。父親の子である私にも姉にも責任はない。看護師に対しては一言謝罪すべきだと思ったが、私と姉と姪との間で責任のなすりつけあいをすることではなかった。

いずれにしろ、もし父親が私が勤務する病院に入院していたならば、私の病院の看護師はこのようなことを大げさには扱わなかったであろう。私は高知県内の医療レベルが低いことに失望した。

私の姉が父親のことを「エロじじい」と盛んに言い出したのはこの事件の後であったように思う。

エロじじい

私が父親について「エロじじいは早う死ね」と言っていたと裁判の場で姪は証言した。私は唖然とした。この言葉はまさに私の姉が私に繰り返し言った言葉であった。そもそも、私は自分の父親を「エロじじい」と呼んだことはない。私が父親のことを姪に話すときには、必ず「おじいちゃん」と言った。また、父親が1日も早く死ぬことを願っていたのも私ではなく姉であった。姉は姪に対しても「エロじじいは早く死ね」と繰り返し喋っていたのであろう。なんと姪は、姉のこの言葉を私が言っていたと嘘の証言をしたのだ。姪の根性は根っこから腐っている。

もし姪のこの証言が判決文のなかで事実として取り上げられたならば、私は姪を偽証または名誉毀損で訴えるつもりであった。私の代理人を務めてくれた弁護士にもそのことを伝えておいた。しかし裁判官は姪の証言には一切言及しなかった。姪は救われた。

2018年8月18日土曜日

2013年7月15日 姪

私の姉と姉の長女(私の姪)が私の母親との絶縁を私に告げたのはその2週間前の7月1日のことであった。このことは既に書いた。絶縁の理由は、私の姉(つまり姪の母親)よりも私に多く遺産相続させたいと母親が言ったからだということも述べた。

7月15日の晩、姪は悪口雑言の限りを尽くして私の両親を批判した。自分たちが私の両親から受けてきた愛情と多額の金銭援助に対する感謝の言葉は一言もなかった。それどころか、「外孫と内孫を区別することは許さん!」とまで言った。姪と名の弟妹が私の両親から受けていた金銭援助は私の息子がもらった金銭の数百倍に昇るというのに・・・。私は唖然とした。

姪の発言があまりにも酷いので、私は姪に対して次のように言った。「お爺ちゃんの財産は私のものではないが、お爺ちゃんの財産がもし私のものであったならば、私は〇〇(姪の名)には1円もやりたくない。」当時、まだ父親は生きていた。私は慎重に言葉を選んだつもりであった。

私のこの発言について、後に姪は裁判の場で次のように証言した。私の父親の遺産を1円もやらないと私が言ったというのだ。

何というすり替えであろうか。表現は似ていても意味は全く異なるではないか。

36歳(当時)にもなって、まだ母親方の祖父母の財産をアテにしていたのか。私の両親の孫にあたる私の姪は、私の両親の遺産の法定相続人ではない。

2018年8月17日金曜日

2014年1月19日 日曜市

父親が入院した後、私は1ヶ月に1回〜3回の頻度で帰省した。土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多かった。平日に高知にいなければ、さまざまな雑用をこなすことができなかったからである。月曜日には朝食も昼食もとる時間の余裕はなかった。夕方、高知龍馬空港のレストランでうどんをかけこんだ。孤独であった。

そんな私の唯一の楽しみは、日曜市で芋の天ぷらを食べることであった。天ぷらを朝食代わりに食べた後は、両親を見舞い、天気がいい日には実家を掃除した。窓を開け、布団を干した。草むしりもした。両親が実家にいなくとも実家をきれいに保つことは、長男である私の責務であると考えていた。