2016年1月23日土曜日

大崎瀬都 再び



きょう帰宅すると、一通の封筒が届いていた。差出人は「大崎瀬都」となっていた。私の高校時代の同期生である。 彼女は歌人として名が知られている。高校時代からすでに彼女は有名であった。彼女の歌は高校生向けの雑誌にしばしば掲載されていた。学生時代、私は彼女と一度も会話を交わしたことがなかったが、高校を卒業した後も長い間ずっと彼女の記憶は残っていた。

そんな彼女と初めて話したのは10年ほど前であった。高校の同窓会の二次会の席で彼女が歌集を出したことを聞き、同窓会に出席せず自宅にいた彼女にその場で電話をかけた。そして歌集を私に送ってくれないかと頼んだ。それが彼女との初めての会話であった。それ以来、彼女と年賀状のやりとりをするようになった。また、彼女は後に出版した2つの歌集も送ってきてくれた。今回のように新聞や雑誌に掲載された自分の歌も時々送ってくれる。 

きょう届いた封書には彼女の直筆の手紙が添えられていた。彼女は私のこのブログ「私と家族」を読んでくれていたらしい。その感想が書かれていた。 私はこのところ、「死」についてよく考える。彼女もそうらしい。彼女の手紙にはこう綴られていた。「自分の死を悲しんでくれる数人の人を大切にしようという思いを私も新たにしました。」 

3年前に父親が倒れて以来、私は高知と東京を往復する生活を続けた。真っ暗い時刻に家を出て羽田空港空港に向かい、始発便で高知に帰った。そして高知で両親を見舞ったり実家の片づけをしたり、銀行や市役所に出向いたり・・・。食事をする時間もとれないことが珍しくなかった。東京への帰りもいつも最終便であった。身体に堪えたばかりでなく、孤独な3年間であった。

あのように孤独な生活を送るのは初めてであった。しかしその3年間、多くの人たちが私を支えてくれた。私はその人たちの恩を生涯忘れないと思う。その一方で、私をなじったり罵倒したり陰口をたたく人も何人かいた。私のブログを読んで「あなたは最低の医師だ」というコメントを寄越してきた親戚もいた。しかし私のこのブログ(「私と家族」)には私の医師としての仕事については何も書いていない。また私は親戚とも実家のご近所の人たちとも医師として接したことはない。50年近くほとんど会話を交わしたことすらない親戚から「最低の医師」というコメントを送ってこられる理由は見つからない。私の人生のなかで最も辛い時期に何かにつけて私の足を引っ張った人のことも同様に、私は生涯忘れないであろう。その人たちとは今後、顔を合わせることも言葉を交わすことも手紙をやりとりすることもないであろうが。私にも刻一刻と死が近づいている。彼らにかかわる余裕はない。




2016年1月7日木曜日

思い出の写真 タイ・メイホンソー

正月から、撮りためた古いDVテープの映像をハードディスクに取り込んでいる。懐かしい思い出の場面ばかりである。写真は、息子が小学校一年の終わりの春(2006年3月)にタイのメイホンソーに行った際に撮影したビデオをキャプチャーしたものである。

2015年12月8日火曜日

母が亡くなって4か月

母親が亡くなって4か月経った。まだたったの4か月か、というのが実感である。 昨夜、中学校・高校時代の友人2人と会食しながら夜遅くまで語り合ったが、話題は実家をどうやって管理していくか、先祖代々の墓をどうするか、定年後にどこでどうやって暮らすかといったことが主たる話題であった。還暦が近くなると、話題はこんなことに集中する。 こんな話の合間に、自分たちが幼かった時代の思い出話も出る。一人の友人は、毎日毎日、かぼちゃばかり食べさせられて辛かった思い出を語った。「もう食べられない」と母親に言ったところ、「なら、もうつくらん」と言われたということであった。「今になると母親の気持ちがよくわかる」と彼は言った。。私にも似た思い出があった。大きな土鍋に山のようなわらび。そのわらびがなくなるまで、おかずは毎日そのわらびであった。「もう、いや」と私は涙ぐんだことがあった。そのとき母親はじっと下を向いて黙った。しかし、他のおかずを用意してくれることはなく、母親は黙々とそのわらびを口に入れて食事を続けた。タケノコの季節には、おかずは毎日タケノコになった。 我が家だけが貧しかったわけではなかった。時代が貧しかったのだ。 私の実家は、私が小学校3年生になるまで藁葺き屋根のあばらやであった。柱は虫に食われて穴だらけ。地震が起きると屋根が大きく揺れた。夏になると大きな蛇が家の中をよく這っていた。ムカデに咬まれたこともあった。高知は毎年必ず台風に襲われる。台風が近づくと我が家はミシミシと音を立てた。家が倒れる恐れがあると思われたときには、隣の家に避難させてもらったこともあった。 こんな貧乏生活から抜け出そうと、両親は懸命に働いた。そして父親が33歳の時に実家の隣のミカン畑に新しく家を建てた。その家が完成したのは私が小学校3年生のときの夏であった。落成式の前日、私と私の姉はほぼできあがった新しい家の床の間に布団を敷いてもらって二人だけでそこに寝た。藁葺き屋根の家は私たちが新しい家に引っ越してからしばらくして壊された。そして数年後にはその土地に倉庫が建てられた。 晩年、両親は金に不自由することはなかった。都会の基準では大した財産ではないが、それでも親族の中では一番裕福であったと思う。しかし両親は決して派手な生活をしなかった。年老いた二人だけの生活に対する不安が強かったのだと思う。また、周囲からの嫉妬も恐れていたように感じる。土佐弁では嫉妬のことを「しょのみ」という。妬むことを「しょのむ」と表現する。両親、特に父親は周囲からしょのまれることを警戒していた。 残念なことに、両親とも貯めた財産を使うことなく亡くなった。

2015年8月24日月曜日

母親の死去 1

8月7日の午後8時8分に母親が亡くなった。80歳であった。

その日の午前中の外来診療を終えて携帯電話を確認すると、母親の入院先の主治医からメールが入っていた。「容態」という見出しのメールであった。そのメールには次のように書かれていた。

「おつかれさまです。
先日来ていただいて以来、IVH栄養を減少させることで肝機能は改善しましたが、そのぶん淡白質が減少し、アルブミンを投与しました。しかし、尿量も減少し、現在利尿剤等でfollowしておりますが、どこまで反応してくれるかが不明です(HANPやサムスカの追加を考えておりますが)。胸水のため呼吸状態は悪く、血圧も安定しません。大きな声を出す元気もなくなっています。
このまま反応しなかった場合には、厳しい状態になることが予想されます。
現在までの経過や、血小板も低い(DICではないと思いますがガベキサートの投与を開始しました)ことなどを考えますと血液透析は厳しいと思います。

よろしくお願いいたします。」

私は直ちに主治医の携帯電話に電話をかけた。主治医からは、病状が思わしくないこと、早ければ3日ほどで、長くとも1週間ほどで母親が死亡する可能性が高いことを知らされた。そして「亡くなる数日前に知らせてもらいたいと言われていたので、ご連絡を差し上げました」と説明を受けた。

そのとき、私はまだ、母親がその日に亡くなるだろうとは思っていなかった。しかし心配であったので、実家の近所の方に母親の病状をみてきてくれないかと依頼した。家内には「母親の病状がかなり悪いようです。万が一のときのために、喪服を準備しておいてくれますか」とだけメッセージを送っておいた。

その日の午後の手術を終えた直後に携帯電話を再度確認すると、上述した実家の近所の方からメッセージが入っていた。母親の病状がかなり悪いと書かれていた。その方は、ご近所や親戚に連絡をしてくれ、皆が母親の病室に集まってくれているという。従兄とも電話で話したが、病状は刻一刻と悪化しているとのことであった。

「もう駄目です」というメッセージが従兄から入ったのは午後7時58分であった。その10分後に、母親の死亡が確認された。

私は自宅に電話をかけ、家内に母親の死亡を伝えた。なんと、家内は、私が昼間送っておいたメッセージを読んでおらず、母親の死に驚いた。私は帰省する飛行機の手配を頼んだ。しかし、翌日(8月8)の午前中の飛行機に空席はなかった。大阪まで新幹線で行って大阪から高知龍馬空港に向かおうとも考えたが、大阪高知便はのチケットは8月8日の分は全て売り切れていた。幸いなことに、午後5時5分羽田発高知龍馬空港行きのJAL便が数席空いていた。

母親の遺体は、その日のうちに親族によって葬儀場に運ばれた。そしてその晩は親族が母親の遺体に付き添ってくれた。

私と家内は翌日(8月8日)、前日の晩に手配した午後5時5分発の飛行機に乗って高知に向かった。息子は塾があるため、1日遅れて高知に来てもらうことにした。予定時刻に私たちは飛行機に搭乗したが、お盆のため空港は混雑しており、離陸が遅れた。前日の晩、ほとんど寝付けなかったため、飛行機に搭乗した後、私は短時間うとうとした。ふっと目を覚ましたときに飛行機のエンジン音が静かだったので、高知龍馬空港に到着したのかと一瞬思いシートベルトをはずそうとした。しかし、飛行機はまだ離陸さえしていなかった。飛行機の高知空港への到着は20分ほど遅れた。

車は、又従妹が既に高知龍馬空港に届けてくれていた。その車を運転して私と家内は土佐市高岡町の葬儀場に向かった。ところが、途中、土佐市宇佐町で花火大会が開かれており、交通渋滞に巻き込まれた。葬儀場に着いたのは午後10時過ぎであった。

葬儀場には、前日、頻繁に母親の病状を伝えてくれた従兄ともう一人の従姉、そしてご近所のご夫婦が私たちの到着を待ってくれていた。驚いたことに、私の姉も葬儀場に来ていた。

私は、広い畳の間に寝かされている母親の遺体をみると同時に急に涙がこぼれてきて、数分間、母親の遺体の側で泣き崩れた、

2015年8月22日土曜日

「悲しみを抱きしめて 御巣鷹・日航機事故の30年」 西村匡史 講談社新書

昨夜、偶然、この本を書店で見つけた。そして、一気に最後まで読み終えた。読み進める途中、何度も涙がこぼれてきた。しかし私の涙は日航機事故で亡くなった犠牲者たちに対するものというより、むしろ残された家族や関係者に対するものであった。

特に、三人のお嬢さんを事故で亡くした田淵夫妻について書かれている第1章と第2章には心を打たれた。事故前には全くアルコールを口にしなかった母親の輝子さんは、事故後25年間、アルコールが手放せなかったという。

この本を書店で見つけた直前の8月15日に、偶然、私たちは田淵夫妻が亡くした三姉妹の墓標にお参りしていた。この本に載せられている3人の写真が墓標に飾られていた。

事故から30年経った今も遺族が苦しみ続けているのはなぜかと私は考えた。若くして命をなくした犠牲者が多かったからなのか。それとも病気ではなく予期せぬ事故で亡くなったからなのか。あるいは、事故は防げたはずだという思いが今も遺族の心に強く残っているからか。遺族にすら今も自分たちを苦しめているものが何であるのかがはっきりとはわからないかもしれない。

ただし、上野村の皆様や、その他、大勢の皆様の励ましが遺族の方々の心の支えになったということは確かだと思う。本書では、遺族の悲しみを綴ったばかりでなく、事故以来ずっと遺族を支え続けてきた上野村の方々や関係者の皆様の心の温かさも生き生きと描かれている。

2015年8月17日月曜日

御巣鷹山

一昨日(2015年8月15日)に家内とふたりで御巣鷹山に登った。昨年に引き続いて二度目の登山となった。

日航機が御巣鷹山に墜落してから30年。事故が起きた当時、家内は日本航空に勤務していた。私たちが結婚したのは事故の3年後であった。結婚と同時に家内は退職した。

ごく最近まで、この事故が夫婦の間で話題にのぼることはほとんどなかった。私も家内も意識してこの話題を避けていたのかもしれない。この事故では、家内の知人も何人か亡くなった。

事故から29年経った昨年の夏、軽井沢に滞在中、初めて御巣鷹山に登ってみようかという話になった。そして車を運転し佐久・十石峠経由で御巣鷹山に向かった。しかし途中、雨のために崖崩れがおきた場所が通行止めになっており、上野村に抜けるのに難渋した。今年は下仁田経由で上野村に向かった。

駐車場はいっぱいであった。私たちは道路脇に車を停めて事故現場に向かった。すれ違う人たちは皆、「こんにちは」と私たちに声をかけた。私たちも挨拶した。この山に登る人たちは犠牲者の肉親や親族ではなくとも、共通の悲しみを抱いている仲間だと感じた。

坂を登りながら、家内は事故で亡くなった同僚の思い出を語った。

ひとりの客室乗務員の同僚は、子どもを産むために国際線から国内線に移った。その直後にこの事故のために亡くなった。別の同僚は、事故当日、出勤するのをいやがっていたという。事故の予感でもあったのであろうか。

30年経っても思い出は風化しない。親でも子でも親族でもない家内の思い出のなかで同僚はまだ生きていた。

この事故は誰の責任でもない。少なくとも私はそう思う。しかし、人が死ねばどれだけ多くの人に悲しみをもたらすのか、そしてそれらの人びとのその後の人生にどれほど大きな影響を与えるのか、これらのことについては息子にも伝えておきたいと思う。

おそらく私たちは来年も御巣鷹山を訪れるであろう。次回は息子も同伴したい。



2015年8月13日木曜日

息子が幼かりし頃 父の日

物置になっていた自宅の一部屋を最近、家内が必死に片付けている。高校2年生になった息子の勉強部屋をつくるためだ。息子はこれまで、リビングに敷いた万年床の上で寝、そして勉強していた。下の写真は、部屋の片付けをしている最中に出てきた。私が父の日を記念して書いた懐かしい記事が残っていた。下の段が、私が書いた文章である。