2011年2月28日月曜日

良識か、行儀か、シツケ放棄か



一人ひとりの人間の価値を最も高めるものは何であろうか。学歴であるという人もいるであろう。地位であるという人もいるだろう。金であるという人もいるに違いない。若い人のなかには親の地位や財産、つまり親の七光りがあることを自慢に思っている人もいるだろう。

私はこの頃、人の価値を決めるのは品格であると思うようになった。品格と高価な装飾品とは関係がない。財産とも関係がない。当然、学歴とも。学歴がなくともきわめて品格のある人はたくさんいる。ベランベー調の話し方をしても妙に品格のある人もいる。逆にどれほど学歴や地位が高かろうと卑しい品格の人も少なくない。品格はその人が生きてきた人生そのものである。

つい最近発売されたサンデー毎日に岩見隆夫氏が「ティッシュペーパーと若い女性と」というコラムを書いている。このコラムの中で岩見氏は現代の若い女性の品格のなさを心から嘆いている。

現代の女性は「男女平等」教育によって育てられた。この「男女平等」教育によって女性は男性と同等の幸福と権利を獲得できるものと信じられていた。しかしこの「何でも男女平等教育」は残念ながら女性に幸せをもたらさなかった。そればかりでない。かつての日本女性が持っていたかけがえのない美を奪った。品格も奪った。そして若い男性からは自信を奪った。

2011年1月22日土曜日

帰省

昨年12月30日から今年1月3日まで家族で高知の実家に帰省した。いつもどおり、父親が高知龍馬空港まで迎えにきてくれた。空港から私の実家までは車で約1時間かかる。

私はまっすぐ実家に帰らず、途中の高知駅前で降ろしてもらい、その日開かれている忘年会会場に向かった。年によってメンバーは若干異なるが、いつも10数名以上集まる。12月30日は中学・高校時代の友人と開く忘年会の定例日になっている。

皆、老けた。しかし、表情も声も性格も高校時代と変わらない。しかし、話題は変わる。最近はどうしても親の病気や介護のことが中心になる。子供たちもほどんど高校生以上である。すでに社会人になった子を持つ友人もいる。孫が生まれた者もいる。私のようにまだ小学生の子を持つ者は私を含めて2人しかいない。

我が国では最近、結婚しない人が急増している。結婚年齢も上昇している。しかし私の同期生(約360名:男女ほぼ同数)はほとんどが結婚している。ずっと独身を通している同期生の数は数名以下であろう。(男子生徒も女子生徒も社会人になれば結婚し家庭を持つこと。これを前提とした、ごく「普通の教育」を私たちは6年間受けた。)

彼らと出会ったのは中学校1年生のとき。もう40年以上も前のことである。しかし入学当時のことは今でもありありと思い出すことができる。

体育館で開かれた入学式。起立し、背の高い同級生のなかに埋もれながら、初めて聴いた校歌。体育館全体に木霊した。その美しいメロディーと先輩たちの透き通る歌声は今も私の耳に残る。先輩たちが自分の学校に誇りを持つとともに、新しく入学してきた私たちを心から歓迎してくれているのを肌で感じることができた。「あさかぜのすがしき国、にひはりの道は開けぬ・・・。」

振り返れば、私の人生が始まったばかりの時期であった。

あれから40年以上経て、私の息子がちょうどこの年齢に達した。この4月、中学生になる。

息子にも間もなく思春期が訪れるであろう。息子にとってこれからが本当の人生である。

2010年8月3日火曜日

おもちゃ

息子がまだ幼稚園に通っていた頃、息子のおもちゃを全部取り上げて倉庫にしまってしまったことをこのブログに書いたことがある。あれから7~8年が過ぎた。それらのおもちゃは、今も我が家の倉庫に眠っている。結局、一度も取り出すことがなかった。

先日、自宅のリビングを眺めてみて驚いた。息子はほとんど何もおもちゃを持っていないのだ。あるのは本と将棋盤だけ。当然、テレビゲームはない。本も最近までは図書館で借りたものばかりであった。

息子がおもちゃを買ってくれとねだったことはない。友達の家にはこんなおもちゃがあったといった話を家内には時折するようであるが。「親が子に一方的に与えるおもちゃは子の創造性を高めない」というのが私と家内の考えである。

幼稚園の頃、おもちゃを私に全て取り上げられた息子のおもちゃは、新聞の折込広告と鋏、そして色鉛筆だけになった。息子は家の中では折込広告の裏に絵を書いたり、折込広告で切り絵をしたり、折り紙をして遊んでいた。息子がつくった折り紙の一部はまだ残っているが、私には到底つくれないような作品がある。誰に習うのでもなく、どのようにして作ったのか、私にはわからない。折り紙に限らず、息子の「形」の認識力には舌を巻く。

息子が小学校に入ってからは近くの図書館に毎日のように通い、山のように本を借りてきてはむさぼるように読んだ。息子がこれまでに読んだ本の刷数は膨大である。いつの間にか、漢字検定2級に挑戦するまでになった。最近、ノートパソコンのキーボードを盛んに叩いているので、何をしているのかと尋ねたら、ミステリー小説のコンクールに応募する作品を書いているのだという。小学生に1万字近い文章が書けるのかどうかわからないが、息子は黙々とコンピュータのディスプレイを睨んでいる。

運動も好きだ。息子は小学校に入る直前に自宅近くの水泳教室に入った。4年生になってから教室をかえたが、6年近く水泳を続けていることになる。速さはたいしたことはないのであろうが、教室をかえてからは泳ぎのスタイルがよくなったようだ。スタイルが重視される学校の水泳学級で先日、1級の認定を受けたという。その直後に行われた水泳合宿で行われた、海での2キロメートルの遠泳も楽にこなせたという。息子にはスポーツで身を立てるほどの運動能力はないと私は思っているが、体を動かすことは子供にとって大切なことである。

スキー合宿にも息子が幼稚園に通い始めた頃から毎冬参加させた。2~3泊の合宿であった。息子ひとりでである。知った友だちもいなかった。私は、息子は一度だけでその合宿に行くのをやめるものだと思っていた。当時、息子はとても内気で、知らない人とはなかなか話せなかったからだ。しかし、合宿から帰宅すると、毎回、楽しかったと答えた。そして、また翌年も行くと言った。結局、息子は昨年の冬まで、毎年、知らない人たちに混じってスキー合宿に参加した。今年の年末にもまた出かけるに違いない。

週1回であるが、サッカー教室にも通っている。どこでもサッカーは大人気。息子も入会申し込みから1年ほど待ってやっと近所のサッカークラブに入会することができた。

息子は何かを始めると決して中途でやめない。この点には感心する。塾通いもそうである。小学校1年生のときから通っている塾は自宅から遠い。近くの塾にすればどうかと何度か息子に話したが、息子はやめると言わない。学校の行事などで出席できない場合を除き、欠席することはない。今年の初めからは将棋教室にも通っている。場所は千葉県の柏。自宅からは1時間かかる。それも苦にならないらしい。

私自身は、小学生の頃、学校から帰宅すると、ランドセルを家に放り込むやいなや近所の幼友達と遊びに出かけた。遊び場所は、夏は川。冬は神社の境内であった。夏は上半身素っ裸になって田んぼで走りまわり、体が熱くなるとそのまま川に飛び込んだ。1日に4回も5回も川で泳いだ。全身が真っ黒になり、皮膚の皮がむけた。冬の神社の境内ではもっぱら野球。私が自転車に乗る練習をしたのも神社の境内であった。自宅の裏山もかけずり回った。帰宅するのは、いつも日が沈み、あたりが真っ暗になってからであった。帰宅した私に、「勉強しなさい」とか、「宿題はすんだのか」といった言葉が私の両親から出たことは一度もなかった。私は、翌日は何をして遊ぼうかということ以外には考えていなかった。

当時は、確かに物質的には貧しかった。私自身もおもちゃといえるおもちゃはほとんど持っていなかった。近所に住む幼友達の家におもちゃが山のように積み上げられていたのとは対照的であった。ひとりの幼友達の家には顕微鏡があった。もちろん子供用であったが。私はその顕微鏡で花粉を見てみたくなったことがあった。しかし、その遊び友達の母親は、私にその顕微鏡を触らせることを認めなかった。当時の私が、自分の親に向かって、たとえおもちゃのものであろうと顕微鏡を買ってくれなどと言えるはずはなかった。私は自分の家が貧乏であると親から頭に叩き込まれていた。この他にも貧乏故に惨めな思いをしたことも何度かあった。それでも私はいじけることもなく、近所の幼友達と元気よく遊んだ。楽しくて仕方がなかった。ちゃんばらがしたくなったら、木を切って自分で刀を作った。竹馬も自分で作った。吹き矢はストローと釘。釘をストローの中に入れて思いっきり吹いた。思い切り息を吸い込んだときに誤って釘を飲み込んでしまったこともあった。釘を飲み込んだなどと親に話すこともできず、私は長い間不安であった。

死にそうになったことも3回ほどある。

台風が過ぎ去った直後、私は増水した川に泳ぎに行った。当然、まだ濁流であった。足元は見えない。ふっと深くなった場所で私の体は流され、滝から下へ流され落ちそうになった。私は必死でコンクリートに捕まった。助けてもらうまでどれほどの時間があったのだろうか。水の流れが強いので私はいっそ手を放そうかと思った。もし、あのとき、手を放していたら、私はおそらく死んでいたであろう。滝の下は大きな岩だらけであった。

木登りをしていて、高い木の上から大きな石の上に転落したこともあった。幸い、その石の角に体が当たらなかった。鉄棒で回転飛び降りをした際に、バランスを崩し、砂に背中を強く打ったこともあった。もし角度がわるかったならば、頚部の骨を折っていたに違いない。

鬼ごっこをしても、駆けまわるのは地面ではなかった。2年間通った自宅近くの保育園の外塀の上であった。そのコンクリートの外塀の上をピョンピョンと跳び回って逃げたり追いかけたり。転落したならば大怪我をしたであろう。

私の前頭部には今も傷が残っている。断崖から川に頭から飛び込んだ際に川底の岩に前頭部をぶつけた際にできた傷である。怪我をしたとき噴き出るように出血したのを今も鮮明に覚えている。幸い、この傷は髪に隠されていて見えないが。

どれもぞっとするような記憶である。

私の息子の遊びは鳥かごの中での遊びのように見える。常に護られている環境での遊びである。しかし、私自身の子供の頃の遊び方を真似るようにと息子に言う勇気はない。

2010年6月5日土曜日

恩師:植田和男先生の訃報

昨夜、職場からの帰宅途中、一通のメールが届いた。差出人欄には「匿名」と書かれていた。私が前回書いたブログ「うげる」に対するコメントとして私に送信されていた。しかしそのメールは「うげる」に対するコメントではなく、昨年11月に書いた私のブログ「熊本」に対するコメントであった。そのメールを読み、私は強い衝撃を受けた。「熊本」の中に書いた恩師、植田和男先生の死を知らせるメールであった。

以下は、原文のとおり。
「突然失礼いたします。私は熊本で科学展という事業のお手伝いをしている者です。科学展が今年70回を迎えることから、この10年の功労者の足跡を調べていましたら、あなたのブログに行き当たりました。
 2009年の11月、熊本にいらっしゃった時のブログを見てコメントしました。
 話題に上がっていましたU先生は、昨年お亡くなりになっています。最後の勤務校は大津高校という学校で、亡くなられた経緯は良く存じませんが、誰に対しても威張らず、いつでも子どものように好奇心一杯で、学究肌の先生でした。先生がフィールドワークされたデータはウェブでも公開されて(今は閉鎖していますが)大学の先生方も参考にされる程でした。先生は、学校が嫌いだったり、勉強が苦手な生徒達を連れてよく岩石採集のフィールドワークに連れて行くなどされていました。生徒とそういう関わり方をずっとされてきた方でした。先生の教職生活の中で、あなたのような感じ方をしていただいた方がいらっしゃったということだけでも救われる思いがいたしました。 」

昨年11月、私は、熊本市に行ったついでに阿蘇にある高森町を訪れた。30年余り前、私が大学生だった頃、植田和男先生はこの高森町に住んでいた。当時、先生はまだ独身であり、一人暮らしをしていた。

私は高森町駅に車を止め、しばし駅の周りを歩いた。しかし30年前の高森町駅舎がどうであったのか、当時の光景を思い出すことはできなかった。私が思い出すことができたのは、植田先生私に向かって見せた、恥ずかしそうな笑顔だけであった。

上に紹介したメールを読むと、植田先生は最晩年まで職場の同僚からはうとんじられていたのではないかと思われる。植田先生はロマンチストであった。常に弱いものの味方であった。きっと孤独であっただろうと思う。しかし植田先生が支えようとした子供たちの心のなかで植田先生は生き続けるに違いない。

私の中学高校時代の恩師はこれで皆亡くなられた。

2010年5月11日火曜日

うげる

「うげる」は土佐弁である。「うげる」を東京で使われる言葉ひとつで置き換えることはできない。「久しく会わなかった知人や肉親の帰り・訪問を喜び、その喜びを言葉や態度で表す」ということであるが、こんな表現はなんともまどろこしい。東京では、単に「喜ぶ」という表現を用いるのであろうが、「喜ぶ」では「うげる」が持つニュアンスを伝えることができない。

言葉は文化である。生活を反映する。「うげる」ことも「うげてもらう」ことも、土佐に生れ育った者にとっては生活の一部である。

「もんたかえ」も同様。「もんたかえ」という土佐の表現は、直訳すると「戻りましたか」という意味である。しかし、この言葉は、自分の子や知人の帰省(や帰宅)に対する喜びを表す土佐の挨拶である。

何年か前のこと。交通事故で母親をなくした中学・高校時代の友人からメールが届いた。高知空港からであった。そのメールには「『もんたかえ』と言って自分を出迎えてくれる母親の姿がないことが悲しい」と書かれていた。

私の実家は高知県の土佐市にある。山村である。ここにはまだ両親が住んでいる。私がこの土地を離れ、当時通っていた高校の寮に住むようになったのは私が高校2年生のときであった。しかし中学校から高知市内の私立に通っていた私は、小学校を卒業した直後から既にこの生まれ故郷とは縁が薄くなっていた。

しかし、私が年末年始に帰省すると今でも近所の人たちが私をうげてくれる。そして「もんたかえ、幸伸」と言ってくれる。ありがたいことである。

2010年4月25日日曜日

医療はサービス業か 3

2~3年前のことである。

30歳代の患者が私の外来を受診した。その患者が私の外来を受診するのははじめてであった。

カルテを読み、その患者が数ヶ月前に私の科に入院していたことを知った。その患者の担当医はすでに他の病院に転勤していた。

私がその患者の名を呼ぶと、患者といっしょにその患者の両親も診察室に入ってきた。診察室に入ってくると同時に、その患者の母親が「私の主人は〇〇大学の××学部の△△です。息子も〇〇大学の□□をしております」と私に告げた。

私は一通りの診察を終えたあと、患者の現在の病状とその後の見通しについて話した。しかし私が話したことについて患者も家族もほとんど関心を示さなかった。なぜこんなに無関心なのだろうと私が不思議に思っていると、患者の母親が突然一方的にしゃべり始めた。入院当時に受けた検査結果について説明してもらいたいということであったが、私には合点がいかなかった。上で述べたように入院からは既に数カ月経過していた。その間、担当医から何の説明も受けなかったのであろうかと思ったのだ。

患者が受けたといういくつかの検査の結果を探してみた。しかし、いずれの結果についてもカルテには何の記録も残っていなかった。診療用のコンピュータにも、検査結果ばかりでなく担当医が検査をオーダーした記録も見当たらなかった。

私はそのことを患者に告げた。

すると、その患者と家族が大声で怒りだした。しかしいくら調べても検査結果がないばかりでなく担当医が検査をオーダーしたという記録もなかった。私はそのことを再度患者に告げた。

しかし患者も家族もさらに声を荒立てて怒り出すばかりであった。「採血を入院日に2度受けた。2度目の検査の結果はどうなんだ! 退院後にMRIとCTも受けた。△△検査も受けた。検査室まで私が息子に付き添って行ったから間違いない!」と母親がまくしてた。

私は担当医ではなかった。その患者を診察するのも初めてであった。しかも外来カルテにも入院カルテにもコンピュータにも検査をオーダーした記録がない。検査結果もない。

診療が数十分間にわたってストップした。もう少し調べてみるので、一旦、診察室を出て待合室で待ってくれるように患者とその家族に告げた。3人は診察室の外に出て行った。

しかし患者の大声は止むことがなかった。

「医療費の過剰請求をしやがって! 訴えてやる」と患者が叫ぶ声も何度か聞こえてきた。

やはり検査結果は見つからなかった。

患者と患者の家族にもう一度診察室の中に入ってもらった。そしてその旨を告げた。

患者から出てくる言葉は更にエスカレートしていった。「大学の理事と知り合いなので、その人に言いつけてやる」という言葉も私に投げつけた。

私の外来を受診する患者は重症患者が多い。そのような患者であっても診察を受ける前に数時間待たなければならない。この患者にそれ以上時間を割いている余裕はなかった。もう一度調べてご自宅に電話しますと患者とその家族に告げて帰宅してもらった。

診察が終わった後、検査室の台帳を調べてもらった。しかし台帳にその患者の名前はなかった。私はその晩、患者の家に電話をかけた。電話に出たのは母親であった。検査が行われた記録はないと私が何度説明しても母親は頑として受け入れなかった。そして悪口雑言の限りをつくした。

電話で話した時間は2時間。

翌日、医事課に頼んで、その患者のレセプトを出してもらった。しかしレセプトには検査の請求記録はなかった。

私は再度、患者の自宅に電話をかけた。そして、「病院側が過剰請求していると主張するならば領収書を見せてください。病院のレセプトと照合しますから」と母親に告げた。

「あらっ、私の勘違いだったのかしら」

母親は一言だけこうつぶやいて電話を切った。顔は見えなくとも、その母親がうろたえていたのは声からはっきりとわかった。私が費やした時間と心労、他の患者が失った時間、私の病院の職員が費やした時間に対するねぎらい、感謝、謝罪の言葉は全くなかった。

この両親は、息子の病気のことは心配でないのだろうか。息子の病気よりもお金のことが大切なのであろうか。電話を切ったあと、私はこの「エリート家族」の不幸な親子関係を憐れんだ。

大崎瀬都 「朱い実」 その1

何週間か前、私が書いているブログに対するコメント・メールが届いた。差出人は「せつ」となっていた。「せつ」とは一体誰であろうかと思いつつそのメールを開いてみた。

そのメールは私のブログに対するコメントではなかった。高校時代の同期生である大崎瀬都からの、私の現住所を知らせてもらいたいという内容であった。

大崎瀬都については以前にも書いたことがある。彼女は高校生の頃から短歌を詠んでいた。いや、もっとずっと前から詠んでいたのかも知れない。

高校時代、彼女の短歌は毎月のように高校生向けの月刊誌に入選作品として掲載されていた。クラスが異なったこともあり、高校在学中に私は彼女を会話を交わしたことがなかったが、彼女と廊下ですれ違う度に私は彼女のみずみずしい感性を心のなかで讃えていた。

高校卒業後も彼女と話す機会はなかった。彼女がどこの大学に進学したのかも知らなかった。彼女の話題が高校の同期との間で出ることもなかった。

彼女が千葉県に住んでいること、彼女が歌集を出したことを聞いたのは10年ほど前。東京で開かれた同窓会の席であった。そのことを聞いた私はその場で彼女に電話をかけた。そしてその歌集を送ってくれないかと頼んだ。彼女と会話を交わしたのはこのときが最初であった。(その後も彼女と話す機会はない。)

彼女からは間もなく1冊の歌集が届いた。その歌集の表表紙には「海に向かへば」と書かれていた。「海」とは太平洋のことである。私の生まれ故郷である高知県には雄大な太平洋が広がる。彼女も私と同じくその雄大な太平洋と向かい合いながら青春時代を過ごしたのだ。

この歌集に掲載されていたいくつかの歌は以前すでに紹介した。私自身の思い出と重なる場面が綴られている作品がいくつか掲載されていた。それらの歌に目を通すたびに、私の頭には高知で過ごした青春時代の光景が浮かんでは消え浮かんでは消え、知らぬ間にその記憶の糸をだどる作業に心を奪われた。「海に向かへば」はいまも私の書斎の書棚に立っている。

この歌集の末尾には、ふたつ目の歌集をまとめるのは定年退職後になるだろうと書かれていた。したがって、彼女がこんなにも早くふたつ目の歌集を出したことに驚いた。そのことを彼女への返事のなかに書いた。

しばらくして彼女からまたメールが届いた。退職したため早くふたつ目の歌集をまとめることができたと書かれていた。しかし彼女がなぜ早期退職したのかについては何も記されていなかった。

彼女が送ってくれたふたつ目の歌集「朱い実」(ながらみ書房)は、今、私の自宅のリビングのテーブルの上に置いている。1日に1~2回、パラパラとページをめくる。末尾には「あとがき」として次のような記述がある。

「本歌集には、最近の作品は含めず330首を収めた。この時期、今は特別支援学校と名前を変えた養護学校に勤務し、重い疾患を持つ子どもたちの教育に携わっていた。少しは人の役に立っているという満足感よりも、自らの無力さや子どもたちを襲う運命の過酷さを思い知ることのほうが多かった。また体力精神的に仕事をすることが辛くなり、自分で自分を励ましつつ日々を凌いでいた。そのような朝夕のなかにもささやかな愉しみや喜びがあり、短歌を作り続けることができたことを幸いに思っている。」

この「朱い実」はまだ流し読みしかしていない。しかし彼女は重い疾患を持つ子どもたちの人生の意味や価値、そして自分自身の人生の意味について希望を持ち得ないまま退職したのではないかと私は危惧した。

確かに、誰であろうと自分が生きていくことの意義を明確に認識することは難しい。生の意義については、誰もが毎日、自問自答しながら生きているのが実情であろう。ましてや重度の障害を持つ教え子たちの過酷な運命を意義あるものと感じることはもっと困難かもしれない。しかし誰であろうと自分の死を受け入れることも難しい。重度の障害があってもなくても・・・。生あるうちは生きることに意義を見いだし、死を迎えても平常心を失わずその死を受け入れる。生も死も自分自身で決定することができない以上、私たちにはこれ以上のことはできない。しかし、自らの生も死もともに積極的に肯定することはほとんどの人にとって不可能なことである。

「朱い実」に掲載されている短歌のいくつかについては改めて紹介する機会があると思う。その際、もう一度、彼女の人生観について言及する機会があるであろう。もし彼女が三つ目の歌集を出すことがあれば、その歌集のなかでは、彼女自身のそれまでの人生を讃えるとともに、重度の障害を持つかつての教え子たちが生きていく意義についても高らかに詠ってもらいたいと願う。