2009年12月7日月曜日

服装

7年ほど前に、現在住んでいる家に引っ越してきた。留学から戻って6~7年ほどは家内の実家に住まわせてもらっていた。つまり、世に言う「マスオ」さんの生活を送っていたのだ。

息子が2歳になったこともあり、引っ越しを機に車を買うことにした。8年間以上車を持っていなかった私は、車のことはまるでわからない。そこで外車、日本車を問わずさまざまなディーラーに出かけていって車を見せてもらった。

そんな時期、ある日曜日に芝でフォークスワーゲンのBeatleの試乗会が開かれると聞き、家内と息子を連れて試乗会場に出かけていった。そこには何台かのBeatleが停められていた。係員に試乗させてもらいたい旨を話した。しかしはっきりとした返事が返ってこない。私たちは順番が来るのを待った。そんなとき、一人の男性の担当者が私たちのところに歩み寄ってきて次のように私たちに告げた。「車を買うところで試乗してください。」

私たちは即座には意味を理解しかねた。私たちは、確かにビートルを買おうという強い気持ちを持っていたわけではなかった。その様子を係員たちに察知されたのかとも思った。しかし、買わないと決めていたわけでもない。そのときはまだ全く白紙の状態であった。ただ、私たちは追い払われたのだということは何となくわかった。

「買うのでなければ試乗させない」というのであれば試乗させてくれるように無理に頼むわけにはいかない。私たちは試乗させてもらえるフォークスワーゲンのディーラーがないかとその担当者に尋ねた。その担当者は池袋にあるディーラーを紹介してくれた。

私たちは地下鉄を乗り継いでそのディーラーに向かった。私たちが地下鉄を降りて紹介してもらったディーラーに電話をすると、担当者が車で私たちを迎えにきてくれた。そして「お帰りはどちらですか」と尋ねた。私たちがJR池袋駅に出たいと話すと、帰りはそこまで送り届けてくれるとのことであった。

そのディーラーではいくつかの車種を見せてもらった。Golfにも試乗させてもらった。(Beatleは置いていなかった。)ただ、どの車もあまり気に入らなかった。私たちのその様子を見てかどうか、私たちが帰ろうとすると、「あそこにバス停がありますので、そこでバスに乗ってください」とその担当者はそっけなく私たちに告げた。

私たちは「えっ」と思ったが、何も言わず、バス停に向かった。

帰宅途中、家内は、「もうフォークスワーゲンの車は絶対買わない」とつぶやいた。

私には、フォークスワーゲンの人たちの冷たい対応の理由がわかった。服装であった。私たちは、誰が見ても金を持っているようには見えないような服装をしていた。私も、家内も、そして息子も。私たちの服装を見て、金のない客に用はないと、フォークスワーゲンのディーラーの人たちは思ったのであろう。服装がその人を判断す一つの指標となることは至極尤もである。実際、私たちは金持ちではない。フォークスワーゲンに乗ることが富の証であるとするならば、私たちはそれにふさわしいとはいえない。したがって私は彼らに恨みはない。

この出来事は私にとっていい勉強になった。私は、世の中というものがどういうものかということについて、その一端を見たような気がした。ただし、私たちが貧乏ではないように見せようと翌日からドレスアップしてディーラー出かけようという気は起きなかった。私たちは、その後もずっとみすぼらしい格好のまま、あっちこっちのディーラーを回った。いいか悪いかは別にして、当時も今も私たちにはほとんど見栄というものがない。

(余談であるが、私の息子は穴があいても気にせずその靴を履き続ける。先日、両親が上京してきた際にその靴を見て、父親が「お医者さんの息子がこんな靴を履いているというのは恥ずかしいから、どうぞやめて」と息子に言ったということを後で家内から聞かされた。家内は、単に笑っているだけであった。息子はその破れた靴をまだ履き続けている。つい昨日もその靴を履いて出かけた。服も然り。先週の土曜日には、塾の先生に、また同じ服を着てきているとからかわれたと息子から聞かされた。息子はそんなことは全く気にならないらしい。私も私で、「来週の土曜日も同じ服で塾に行けばどう?」と息子をからかった。息子が幼い頃、息子に着せた服はほとんどバザーで買ってきた古着であった。一着10円から150円程度のものばかり。スキーウェアーも30年以上昔のものではないかと思われる知人のお下がりをずっと着せて、毎年、スキーツアーに行かせている。息子はそれらをいやがらずに着る。他人からいろいろのことを言われても全く無頓着である。)

顔を合わすなり、「私の主人はどこどこ大学の教授であり、私の息子はどこどこ大学の専任講師をしています」などと一人勝手に話し始める婦人がいる。私は「そうですか」としか答えない。私は、学歴、地位、財産などといったものでその人の価値を測ったりはしない。そんなことでどんなに自慢されても私の心には何も響かない。学歴、地位、財産といったものを自慢する人は、逆にそれらに劣等感を抱いているのではないのかとすら思える。

学歴にこだわる人は学歴を得ようとして努力するであろう。努力すればそれなりの成果は得られるものだ。しかし自分が目標とした学歴を得られたとしても世の中には上には上がいる。その人たちを見れば羨ましく思うであろう。逆に自分よりも学歴が劣る人に対しては侮蔑の感情を抱くに違いない。お金に関しても同様である。学歴、地位、財産などというものを他人との比較という視点から捉えると際限がなくなる。相対的な比較の世界でしか生きていくことができない人は、生涯、心が満たされることはない。その不満は顔に表れる。その人の心構えやそれまで生きてきた人生はその人の顔にそのまま表れるものだ。態度にも表れる。自分よりの上の人に対しては卑屈な態度をとり、自分よりも下の人たちに対しては横柄になる。何のことはない。これは単に自分が自分自身に弄ばれているだけのことである。

さらに話は飛ぶが、私の父親の最終学歴は青年学校(今の中学校)である。母親の最終学歴も中学校。父親も母親も高校には行っていない。戦争と貧困という環境が進学を許さなかったのだ。しかし、自分たちの置かれた恵まれない環境のなかで、これまで一度も他人から後ろ指を指されることもなく正直にまっすぐ生きてきた両親は、たとえ学歴も地位も財産もなかろうと、それだけで十分立派ではないかと息子である私は思っている。これ以上、何を求めるのか。自分たちが歩んできた人生を振り返り、自らを褒めてあげたい気持ちを両親が持てるかどうかが最も大切なことであろう。

高知の実家に帰ると、私は近所に住む90歳を過ぎた老婆からよくこんなことを言われる。「あんたんくが今えい生活をできるのは、おじいさんが結構な人とじゃったけえよ。」そして私の祖父との思い出を語り始める。私の祖父が保証人になっていたためにその人の多額の借金を背負うことがあったが、私の祖父がその借金を誠実に返済していったことを私は何度もその老婆から聞かされた。祖父が莫大な借財を背負った当時、祖父にたかられることを心配して、近所の人たちは我が家に誰も近づこうとはしなかったという。父親も似たことを近所の人たちから言われるらしい。「おんしゃんくが今えい生活をしゆうがは、おんしゃらあがだれっちゃあに迷惑をかけんずつきたからえや」と。

ただ、見栄を張ろうとしない私の家族の生き方はエネルギーに乏しい。向上心も劣るかもしれない。虚栄心は向上心の源でもあるのだろうから。

2009年12月1日火曜日

祖父 その2

私が物心ついた頃、祖父は既にびっこを引きながら歩いていた。特に右脚が不自由であったように記憶している。O脚でよたよたと歩いていた。ただし杖を必要とはしなかった。自転車に乗ることもできた。

祖父がなぜ膝を痛めたのかについてこれまで一度も家族の間で話が出ることはなかった。幼い頃からなぜだろうと私も思っていたが、祖父にも家族の誰にも尋ねなかった。祖父が自分の脚が不自由であることを難儀がっているのを見た記憶もない。

つい先日、帰省して両親と雑談している最中、母親が突然、父親に向かって、祖父はなぜ脚が不自由であったのかと尋ねた。母親も知らなかったのだ。母親が我が家に嫁いできたときには既に祖父の膝は歪んでいたのであろう。

父親は、「重いものを持ったからえや」と答えた。

祖父は若い頃、ある人の借金の保証人となっていた。その人が突然亡くなった。このことによって祖父は莫大な借金の返済を肩代わりしなければならなくなった。近所の人たちは皆、「これでヨイ(私の祖父の愛称)も終わりじゃねや」と噂したという。

借金を返済するために祖父は朝早くから深夜まで休まず働き続けた。焼いた木炭を自宅に運ぶために夜中に人里離れた寂しい山に出向くこともたびたびあったらしい。自分の身体の何倍ものカサのある荷物を背負って夜中に狭い山道を下ってきた。時折、人が叫ぶような不気味な声が聞こえてきたこともあるという。「ほー、ほー」という声が。怖かったにちがいない。

祖父は自分の身体の何倍もある荷物をいつも背中に負って運んでいた。だからその姿を見ると遠くからでもそれが私の祖父であることが一目瞭然であったという。

祖父が脚を痛めたのはこの重労働が原因であった。

祖父の身体が不自由であることは父親にも影響を与えた。祖父が脚を痛めると、その作業は父親が代わってしなければならなくなった。祖父は父親が17歳の時に父親に家督を譲った。

父親はふんどしひとつでキンマを引いた。若い女性とすれ違うと、とても恥ずかしかったと父はその当時の思い出を語る。

父親はまた、農家から栗やエンドウ豆を買い集めてそれを出荷する仕事もしていたという。夏のある晩、120キロもある栗の荷を自転車で引きながら山里離れた道を歩いているとき、突然、大雨が降り始め、雷も鳴り始めた。しかし重い荷物を引いている父親はゆっくりゆっくりとしか進めない。周囲には街灯もない。寂しい山道を大雨に打たれびしょびしょに塗れながら一歩一歩必死で自転車を押したという。

私が幼い頃、我が家にはアルミでできた大きな弁当箱があった。片手では持てないほどの大きさであった。深さも7センチほどあったであろうか。父親が野良仕事にでかけるときには、その弁当箱にぎっしりとご飯を詰めた。味付けは塩。それに沢庵が載っているだけであった。

私が小学校に持っていく弁当も大同小異であった。おかずは毎日同じ。「鯛でんぶ」と呼ばれていた一袋10円の甘い粉末だけがご飯の上に載せられていた。鯛でんぷに飽きた私はよく母親に愚痴をこぼした。しかし別のおかずが載ることはなかった。

母親もよく働いた。母親は病気を患うまでゆっくりとくつろぐことは片時もなかった。姑と嫁とはあまり仲が良くないものであるが、私の祖母は近所で「うちのミッチャン(私の母の愛称)は毎日ずっと走りゆうで」と嫁を褒めていたという。確かに私が母親と祖母とが言い争うのを見たことは一度もない。祖母が脳卒中で倒れたときも母親は自宅で献身的に祖母の介護をした。

当時、我が家は藁葺きで、かつ古く、いつ倒れるともしれなかった。家にはよく蛇が入ってきた。ムカデに噛まれることもよくあった。そんな家に住むことしかできないことは父親にとっても家族の誰にとっても恥ずかしいことであった。倹約に倹約を重ね、睡眠時間を削って働き、父親は家を新築するお金を蓄えた。いよいよ家を建てることになり少しずつ買い集めた材木が高く積み上げられていくのを見て、祖母は新しい家ができるのを心待ちにしていた。しかしその家の落成を見ることもなく、祖母は寒さの厳しい日の午後に脳卒中で倒れ、2週間後に息を引き取った。祖母が亡くなったのは私が小学校2年生であった年の12月30日であった。

貧困から抜け出すこと。これが祖父母と両親の大きな目標であった。家を建てることはこの貧困からの脱出のひとつの象徴的な出来事になるはずであった。しかし祖母はそれを見ずして亡くなった。祖母が亡くなったとき、母親は祖母を不憫に感じて涙が止まらなかったという。

新しい家が完成し引っ越しするまで、母親は毎晩深夜まで夜なべ仕事としてむしろを編んでいた。いつ母が床につくのか私は全く知らなかった。私が目覚めたときにはいつも母親は既に朝食の支度を終えていた。朝食が済むと近くの川まで洗濯にでかけた。冬、川の水は冷たい。手が凍える。それでも思い洗濯物をかかえて母親は川と自宅とを毎日何往復もし、山のような洗濯物を片づけた。冬になると母親の手はあかぎれと霜焼けで鳥の足のようであった。

「貧困」がマスコミを賑わせている。しかし現在の貧困など本当の貧困といえるのであろうか。私の両親は若い頃、もっとずっと貧しい生活に耐えた。そして窮乏の中でもできるかぎり他人に迷惑をかけないようにと心を砕きながら生きた。借金をしたこともない。ローンを組んだこともない。家を建てたときにもその費用は現金で一括で支払ったという。藁葺きの、いつ倒れるともしれない家に住み、倹約に倹約を重ねて、家を新築する費用を現金で一括払いできるようになるまで両親は近所の人たちからの嘲笑に耐えた。両親はこの家に今も住む。この家は、両親の終の住み処となるはずだ。

2009年11月28日土曜日

墓参

きょうの昼、先祖の墓参りをした。我が家の墓地は実家の裏山にある。ほとんど土葬である。若くして亡くなった祖父の3人の墓地は離れた場所にあったが、数年前に遺骨を裏山に埋葬し治した。この3人はまとめられて埋葬されている。

私がひとつひとつの石塔の前かがむと、傍にいた父親が一人一人について説明してくれた。

父親は5人兄弟の末っ子であった。一人の兄と一人の姉は私が生れたとき既に亡くなっており、我が家の墓地に埋葬されていた。兄は戦死であった。終戦の一ヶ月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。父親のこの兄は私にとって伯父にあたるが、この伯父は生れたばかりの幼子を残して戦地に出向いた。残された伯父の妻とその幼子は、その後、貧困の中で一生を終えた。

(伯父が出征したのは我が子が生れて32日目であった。高知駅で親族全員が見送った。汽車が動き出しても伯父は顔が見えなくなるまで帽子を持った手を振り続けたという。母と子はその後、一回だけ広島県福山市の駐屯地を訪ねた。そこで伯父は一晩だけ息子と一緒に寝た。それが父子が顔を合わした最後となった。間もなく伯父は朝鮮に出征した。母子は朝鮮まで面会に出かけようとしていた。その矢先に今度はフィリピンに出兵。そして安否がわからなくなった。伯父がレイテ島で戦死したことが知らされたのはずっと後のことであった。)

もう一人の夭逝した姉の名は米尾といった。20歳で亡くなった。結核であった。発病後、死ぬまでの間、姉(私の伯母)は自宅の牛小屋の側の小部屋で養生したという。

伯母が息を引き取る直前、伯母は胸水が溜まって苦しんだ。胸水を抜くと死ぬと医師に言われていたが、あまりに伯母が苦しみ胸水を抜いてくれるようにと懇願する姿を見かねた私の祖父(米尾の父親)は、伯母の死を覚悟で胸水を抜いてくれるように医師に依頼したという。そして「気丈にしていなくてはいけないから」と言って酒を飲み始めた。伯母はほどなく息を引き取った。

伯母が亡くなったことを聞いた近所の方が駆けつけてきてくれた。そして酔っている祖父に向かって伯母の遺体の処理を手伝おうかと申し出てくれた。

当時、結核は忌み嫌われていた。伯母が闘病中は誰も我が家に近づこうとはしなかったという。そんな時期に結核で亡くなった伯母の遺体に触れようとする人などいようはずはない。

もちろん、その申し出は丁重に辞退した。しかしその方の親切は今も父親は忘れないと言う。

伯母は土葬であったのであろう。しかし伯母の遺品はことごとく自宅の庭で燃やした。

私の祖父は生前、何一つ愚痴を言ったことはなかった。自分の息子と娘の死は私の祖父にとってとてもつらい出来事であったに違いないが、その不幸な出来事についても祖父から聞かされたことはなかった。

伯母・米尾が亡くなって70年以上経った。祖父が亡くなってからも既に30年近く経つ。これほど時間が経って初めて父親が話してくれた伯父・伯母の小さな思い出話である。父親が亡くなれば、裏山の墓地で父親からこの話を聞かされたことが私にとって忘れることのできない父の思い出となるであろう。

戦死した伯父の遺影も結核で亡くなった伯母の遺影も、まだ実家の仏壇に掲げられている。その傍に私の祖父母つまり彼らの両親の遺影も一緒に飾られている。4人とも同じ墓地に眠る。

帰省

今月の25日から27日まで徳島市で学会が開かれた、その学会を利用して高知の実家に帰省した。

徳島駅前から高知駅前まではバスで2時間40分。途中、渋滞に巻き込まれることもなく、予定通り高知駅に着いた。高知駅までは父親が迎えに来てくれることになっていた。高知駅到着は午後6時20分。すでに空は真っ暗であった。

バスから降り立った私は、高知駅が様変わりしていることに驚かされた。私の記憶の中にある古ぼけた高知駅の建物は跡形もなく、近代的な鉄筋の建物が建っていた。駅のターミナルも整備され、駅前の景色もすっかり姿が変わっていた。私が乗ってきたバスが着いたのは高知駅の北口であった。しかしそれに気づくのにしばしの時間を要した。父親と携帯電話で話しながら父親を探したがどうしても父親を見つけることができない。父親は高知駅の南口で待ってくれていた。しかし南口に着いたと思っている私が父親を見つけられるはずがなかった。

高知駅から私の実家までは車で約1時間。高知県は過疎が進む。しかし帰省するたびに新しい道路ができあがっている。対照的に、かつての高知市内の繁華街にはチャッターを下ろした店が並ぶ。

自宅に帰る車の中で、私の実家の隣の家が空き家になったことを父親から聞かされた。その家には、93歳のおばあさんと30歳台の孫娘が二人で住んでいた。そのおばあさんが転倒し大腿骨を骨折した。手術を受けたが歩くことはできず、そのおばあさんの長女が住む東京に二人で移り住むことになったという。

私の実家は土佐市であるが、須崎市に近い。四方を山に囲まれた農村である。図書館や劇場などの文化施設はない。書店もない。

小学校6年生になるまでに私が手にすることができた本は学校の教科書と学校の図書館の蔵書、そして小学校の近くの文房具店で買うことのできた漫画本だけであった。しかし図書館で本を借りて読むことはなかった。だから学校の授業の予習や復習をすることもなかった。私が自宅で読むのは漫画本だけであった。私は月刊誌である「冒険王」という漫画本が発売になる日をいつも心待ちにしていた。

クラスメートのなかには小学校5年生のころから塾に通っていた人がいたように思う。私は小学校6年生になって塾に通うようになった。そこは自宅から10キロほど離れた場所にあった。バスで週3回その塾に通った。塾では参考書を渡された。私はその本の厚さとぎっしりと詰まった文字に圧倒された。結局、私がそれらの参考書を開くことはなかった。だからそれらの参考書に何が書かれていたのか全く憶えていない。

小学校6年の2学期になると運動会の準備が忙しくなった。当時、私は、児童会の会長を務めていた。私の関心は運動会の準備に奪われた。そして塾には行かなくなった。

私が再び塾に通うようになったのは、翌年の1月からであった。4か月近く無断欠席していた私はばつが悪く、復学の依頼を母親に頼んだ。私は塾に戻ることを許された。

私は中学校受験することにしていた。しかし今振り返ると、信じられないほど暢気であった。受験勉強といえる受験勉強は何もしないまま入学試験を受けるつもりでいたのだ。入学試験は3月。もういくばくも受験準備の日は残されていなかった。

さあ、明日は入学試験、という日の前の晩、私は父親から突然、受験を思いとどまるようにと言われた。あまりに突然のことであった。私は激しく怒り、父親と口論になった。

父親が私の受験に反対する理由は何であったのか、はっきりとは覚えていない。ただ、経済的な理由からだったのだろうと思う。父親と私との口論の最中に、祖父が田畑を売ってもいいから私に受験させてやるように、と言った記憶が鮮明に残っているからである。

親から譲られた財産を売るということは父親には想像することすらできないことであった。77歳となった今も、父親は親から譲られた田畑を売ろうとはしない。

入学試験の朝、父親は私を受験会場まで車で送っていってくれた。母親もいっしょであったと思う。私は顔を泣きはらしたまま試験を受けた。受験会場の父兄控え室には、担任の先生も来てくれていた。隣のクラスの担任の先生も来てくれていた。受験したのは私のクラスでは私を含めて2人、隣のクラスでは3人であった。しかし、その3人のうちの2人は他の中学校を受験した。だから私と同じ中学校を受験したのは3人であった。

私は当時、「おとそ」という言葉を知らなかった。したがって、誤って「おそと」と書いてしまった。他の2人はきちんと「おとそ」と書いたとのことであった、また、「精を出す」と書くべきところを、私は「勢を出す」と書いてしまった。やはり他の2人は「精を出す」と書いていた。受験勉強をほとんどしなかっただけでなく、おとそを飲むような家庭に育たなかった自らの育ちの悪さを心のなかで私は恥ずかしく思った。

ただ、入学試験には運良く合格することができた。5人とも合格した。そして私と同じ中学校に入学した他の2人とは高校卒業までいっしょに学生生活を送ることになった。

試験が終ったあと、同じ中学校に進学することになった3人は担任の先生のご自宅に招待された。1泊目は隣のクラスの担任の先生のご自宅に2泊目は私のクラスの担任の先生のご自宅に泊めてもらった。

「ナポレオン」というトランプゲームを教えてもらったのはそのときであった。ナポレオンを教えてくれた隣のクラスの担任の先生は、トランプゲームのなかで一番楽しいものであると説明してくれた。ナポレオンは独特の駆け引きを要求される知能ゲームであった。私はその先生の駆け引きのうまさに感嘆した。私たちは深夜までナポレオンを楽しんだ。

二日目は私と私のクラスメートの2人だけであったように思う。隣のクラスの先生もいらっしゃらなかった。私たち3人は布団を並べて眠った。先生は布団のなかで長時間にわたって私たちにいろいろの話を聞かせてくれた。何人かのクラスメートの家庭の事情などの裏話などもしてくれた。また、隣のクラスの担任の先生が、ご主人との関係で長年悩んでいたといったことも話してくれた。

私のクラスの担任の先生も隣のクラスの担任の先生も日教組の活動家であった。私はクラスの代表として日本国憲法第9条を暗記させられ、ある催しのなかで起立して大声でその条文を復唱したこともあった。二人とも私たちが私立の中学校に進学することには反対であった。ただ、私たちが進学することになった中学校ならば受験してもいいと言ってくれていた。

私は、先生のご自宅に招かれたこの3日間のことをその後ほとんど思い出すことはなかった。しかしいま、こうして文章を綴りながら当時の光景を振り返ってみると、2人の先生は心から私たちの前途を祝ってくれたのだろうと思う。

私が通ったのは片田舎の小さな小学校であった。過疎と少子化が進行し、いつ廃校になるともしれない。しかし私はここで育てられた。かけがえのない思い出をつくることができた心のルーツである。

2009年11月21日土曜日

サン・サーンス 「白鳥」

私には音楽の素養がまるっきりない。しかし、耳に入るとつい聴き入ってしまう曲が何曲かはある。そのひとつがサン・サーンス「白鳥」である。

私がこの曲を初めて聴いたのは私が保育園に入園したときであった。私が2年間通った保育園では、午後4時の帰宅時刻の10分前になるとこの曲が園内に流れ始めた。私たち園児は、この曲が流れ始めると同時に片づけを始めた。片づけを終えると、正門前に集合した。そしてみんなで歌を歌った後、解散した。♭♭先生さよなら、皆さんさよなら、お手手つないで帰りましょう♭♭ 皆で声を合わせ、先生に向かって手を振りながらこの歌を歌った。

当時、帰宅の合図である「白鳥」が流れ始めると、私はいつもとても寂しい思いにとらわれた。この曲のメロディーそのものによる寂しさもあったかもしれない。しかしこの曲を聴くと、その日は友達ともうお別れだという思いが私をよけいに切なくさせた。

信じられないかもしれないが、私がこの曲の題名を知ったのは、その後、30年ほど経ってからであった。それまで私は、誰に対してもこの曲の題名を尋ねることすらしなかった。

クラシック音楽などとは全く縁のない幼小児期を過ごした私は、クラシック音楽を聴いてもほとんど曲名がわからない。教えてもらってもすぐに忘れてしまう。子供のころからクラシック音楽に馴染んでいる人たちであれば、一度曲名を聞けばきっと忘れることはないのではないか。

クラシック音楽の曲名を覚えることができないというのは私の育ちの悪さを示すひとつの証左である。「育ちの悪さ」というものは、ごまかすことができないものだ。無意識に発する言葉や表情、身のこなしにその人が生きてきた人生そのものが表れるのだ。

私は自分の親を責めているわけではない。

私の両親は決して教育熱心ではなかった。しかし、社会人として生きていくうえで必要とされる最低限のモラルは教えてくれた。「他人のものを盗んではいけない」、「他人のお金を横領してはいけない」、「借りたお金は必ず返さなくてはいけない」、云々。列挙すれば限りがない。

どれも当たり前のことばかりである。しかし、両親が私に言って聞かせたことは、確かに両親も確実に守って生きてきたと思う。それで十分である。

躾けとは繰り返しである。

「北枕で寝てはいけない」と子供のころ繰り返し両親や祖父母から言われた。北枕は死人を寝かせる向きであると説明された。死人と同じ向きに寝たらなぜいけないのか。誰も答えられはしないであろう。それでも多くの人は北枕を避ける。私もそうである。

「人を跨いではいけない」ということや、「夜、爪を切ってはいけない」といったことも繰り返し諭された。人を跨いではいけないのは、人を跨ぐとその人の背が伸びなくなるからだと祖母は私に説明した。「なら、成長が止まった大人を跨ぐのはかまわないではないか。」

当時の私はそんなことは考えもしなかった。躾けとはそのようなものであろう。繰り返し繰り返し諭されることによって理屈を超えてその教えは自分の心の中に染み渡っていく。そしてその人の人生を生涯支配する。

電車のなかで若い女性が化粧をする姿は醜い。そればかりではない。電車のなかで化粧をしている女性の中に美人だと思える人はいない。女性の美しさとは顔のつくりだけではない。顔にはその人がそれまで生きてきた人生が表れる。その人の人生観が表れる。顔にいくら化粧を施したところで、それまでの自分の人生を覆い隠せるわけではない。覆い隠せるのは白髪や顔の皺であって心ではない。

彼女らは幼い頃に「美」に対する感覚を磨く訓練を親から受けなかったのであろう。すでに成人してしまった彼女らを諭す言葉はもうない。「美」も「醜」も言葉で教えることはできない。

2009年11月14日土曜日

熊本

きょうの昼、熊本市にやってきた。明日、熊本市内で開かれる、あるセミナーで講演をするためである。

熊本市を訪れるのは初めて。熊本県を訪れるのも33年ぶりである。

33年前に訪れたのは阿蘇であった。阿蘇郡高森町。そこには私が高校時代に地学を習った先生が住んでいた。名前は植田和男。

私は高校2年とき自宅を離れ、2年間寮生活を送った。寮生活を送るようになってからは、夜、よく植田先生の下宿にお邪魔した。植田先生は高校の近くの一軒家で独り住まいをしていた。当時はまだ20歳代後半であった。もちろん独身。

私が植田先生の下宿を訪ねるときには、徳永啓二という友人がいつもいっしょであった。彼は私とは入れ替わりに寮を出て下宿生活を送っていた。

私たちがいつも通された植田先生の下宿の居間には仏壇があった。「仏壇」と呼ぶのは誤りかもしれない。植田先生は当時、密教に凝っていた。密教の祭壇も仏壇と読んでいいのかどうか、宗教に造詣がない私にはわからない。

私たちがお邪魔すると、植田先生はいつもコーヒーを入れてくれた。そのコーヒーをすすりながら、私たちは植田先生の話を聞いた。

植田先生は登山が大好きであった。だから登山の話はよく聞かされた。ただ、登山の話をするとき、植田先生はきわめて冷静であった。対照的に、密教の話をするときにはいつも語り口が熱くなった。密教の話を一度始めると、植田先生の話は尽きなかった。しかし残念なことに、当時の私たちは、植田先生が語る内容をあまり理解できなかった。ただただ、植田先生の表情や身振り手振りに呑み込まれているだけであった。だから密教について植田先生がどんな話をしてくたのか、ひとつのことを除いて全く憶えていない。

そのひとつのこととは、密教の話の途中で植田先生が次のようなことを言ったことだ。「男の価値は才能である。女性の価値は宇宙を包み込むような母性があるかどうかで決まる。」

私は植田先生の口から「才能」という言葉が発せられたことに驚いた。植田先生は「人の価値は才能の有無では決まらない」という思想の持ち主であるとそれまで私は思い込んでいたからだ。

ただ、植田先生は、「男の価値は才能である」という部分よりも「女性の価値は宇宙を包み込むような母性が持てるかどうかで決まる」という後半の部分を強調したかったのだと思う。

私が通っていた高校は、高知県内では進学校として知られていた。しかし植田先生はその進学指導に強い違和感を抱いていた。教員の中で植田先生はひとり浮いているように見えた。

進学指導に対する反発心からか、地学を専攻する教員としての興味からであったのかは今もわからないが、先生は、天気がいい日には、教室のなかでの授業を途中で切り上げて、「城山」と呼ばれていた学校のすぐ側の小高い山にクラス全員を連れていってくれた。私たちは嬉々として山道を駆け回った。

私は高校を卒業と同時に東京に出てきた。その2年ほどあとに植田先生は私の母校を去った。そして熊本県の阿蘇の高校に移った。

植田先生が阿蘇に行った後も何年間か私と植田先生との間の手紙のやり取りは続いた。そして大学時代に二度、植田先生が住んでいる阿蘇の高森町を訪れた。東京から阿蘇まで休まずに行くのは難しかった。二度とも私は京都で一泊し、京都駅前で植田先生にさしあげるお土産を買った。東京から熊本までは比較的楽であった。しかし熊本から阿蘇の高森町までは一両編成のローカル電車を乗り継いでの心細くて長い一人旅であった。

最初に私が植田先生に買っていったお土産はタイチェーンであった。タイチェーンが入った箱を開けると同時に、植田先生が困ったように、「これを着ける機会がここであるかなあ」と何度かつぶやいた。その通りであった。高森町は阿蘇の外輪山に囲まれたなかにある田舎町であった。

私が大学を卒業する間際になって植田先生から一枚の写真が届いた。ひとりの女性といっしょの写真であった。テントの傍らで植田先生とその女性が並んでしゃがんでいる姿が写っていた。その写真に添えられていた手紙には、「私と一緒に山に登ってくれる女性ができました」と書かれていた。私はきっとこの小柄な女性が植田先生の将来の奥様になる女性であろうと思った。その女性はさして美人ではなかった。しかし写真のなかの植田先生はとてもうれしそうに微笑んでいた。この女性は、それまで孤独であった植田先生をきっと真から理解しようとしてくれている方なのだろうと私は思った。

植田先生からもらった手紙はそれが最後となった。

植田先生に伴侶ができた。植田先生はもう独りぼっちではない。そういう安心感からか、私もいつしか植田先生に手紙を書かなくなった。

33年ぶりに熊本を訪れ、急に植田先生に会いたくなった。しかし植田先生の所在はわからない。

2009年10月27日火曜日

通信簿

私の息子が通う小学校では、4年生になると通信簿がつくようになる。

通信簿のことを私は子供の頃から「通知簿」と呼んできた。「通信簿」と「通知簿」とどちらが正しい呼び名なのか、私は知らない。どちらも正しい呼び名なのかもしれない。

私が子供の頃は、小学校1年生のときからずっと学期末に通信簿をもらった。学校で担任の先生から一人一人名前を呼ばれ教壇に立つ担任の先生から通信簿をもらう。これは私が小学校を卒業するまで毎回繰り返された終業式の日のお決まり行事であった。

私が初めてもらった小学校1年生の1学期の通信簿のことは、今もおぼろげに覚えている。私はその通信簿を自宅の囲炉裏端で母親と一緒に見た。5段階評価であった。算数は「5」であった。「5」の評価をもらったのは算数のみ。他の教科は「4」か「3」であった。母親は何も言わずその通信簿を棚にしまった。

私は高校を卒業するまで、自分の通信簿について親から何か言われたことは一度もなかった。親は私の学校での成績には関心がないものと私は思っていた。

定期試験の直前には「早く寝るように」と、親からよく諭された。しかし「もっと勉強するように」と言われたことはなかった。私と姉とは3歳違いであった。私が中学校に入った年に姉は高校生になった。私と姉の定期試験の時期はほぼ重なった。私たちふたりは定期試験の直前になるといっしょに勉強したが、二人ともいつも一夜漬けであった。勉強用の机は買ってもらっていた。しかし私たちが机に向かって勉強することはなかった。電気炬燵が私たちの勉強机であった。母親は時折、眠いだろうからと言って私たちにコーヒーを運んでくれたが、私たちが勉強している姿を見ても喜ぶことはなかった。私たちの勉強が終わりそうもないのを確かめると、逆に落胆したかのような表情を見せながら「早く寝なさいよ」と一言だけ言って立ち去り、先に寝た。

父親が私の通信簿を見ていた記憶は私にはない。私が社会人になってから、私の高校までの成績について知っていたのかと父親に尋ねたことがある。父親は「知っちょったよ(知っていたよ)」と答えた。ただ、それだけであった。私の通信簿を見た際にどのような感想を抱いたかについて語ることはなかった。

のんびりした時代であった。少なくとも親が自分の子の成績に一喜一憂する時代ではなかった。

ただ、私の両親と同じ世代の人たちはこう言うかもしれない。「自分が生きていくのに精一杯だっただけなんだよ。」

確かに貧しい時代であった。しかし将来への希望に満ちた時代でもあった。私自身もクラスメートも、そして誰もが、自分の将来にはきっといいことが待ち受けていると無意識に思っていた時代であった。