私が物心ついた頃、祖父は既にびっこを引きながら歩いていた。特に右脚が不自由であったように記憶している。O脚でよたよたと歩いていた。ただし杖を必要とはしなかった。自転車に乗ることもできた。
祖父がなぜ膝を痛めたのかについてこれまで一度も家族の間で話が出ることはなかった。幼い頃からなぜだろうと私も思っていたが、祖父にも家族の誰にも尋ねなかった。祖父が自分の脚が不自由であることを難儀がっているのを見た記憶もない。
つい先日、帰省して両親と雑談している最中、母親が突然、父親に向かって、祖父はなぜ脚が不自由であったのかと尋ねた。母親も知らなかったのだ。母親が我が家に嫁いできたときには既に祖父の膝は歪んでいたのであろう。
父親は、「重いものを持ったからえや」と答えた。
祖父は若い頃、ある人の借金の保証人となっていた。その人が突然亡くなった。このことによって祖父は莫大な借金の返済を肩代わりしなければならなくなった。近所の人たちは皆、「これでヨイ(私の祖父の愛称)も終わりじゃねや」と噂したという。
借金を返済するために祖父は朝早くから深夜まで休まず働き続けた。焼いた木炭を自宅に運ぶために夜中に人里離れた寂しい山に出向くこともたびたびあったらしい。自分の身体の何倍ものカサのある荷物を背負って夜中に狭い山道を下ってきた。時折、人が叫ぶような不気味な声が聞こえてきたこともあるという。「ほー、ほー」という声が。怖かったにちがいない。
祖父は自分の身体の何倍もある荷物をいつも背中に負って運んでいた。だからその姿を見ると遠くからでもそれが私の祖父であることが一目瞭然であったという。
祖父が脚を痛めたのはこの重労働が原因であった。
祖父の身体が不自由であることは父親にも影響を与えた。祖父が脚を痛めると、その作業は父親が代わってしなければならなくなった。祖父は父親が17歳の時に父親に家督を譲った。
父親はふんどしひとつでキンマを引いた。若い女性とすれ違うと、とても恥ずかしかったと父はその当時の思い出を語る。
父親はまた、農家から栗やエンドウ豆を買い集めてそれを出荷する仕事もしていたという。夏のある晩、120キロもある栗の荷を自転車で引きながら山里離れた道を歩いているとき、突然、大雨が降り始め、雷も鳴り始めた。しかし重い荷物を引いている父親はゆっくりゆっくりとしか進めない。周囲には街灯もない。寂しい山道を大雨に打たれびしょびしょに塗れながら一歩一歩必死で自転車を押したという。
私が幼い頃、我が家にはアルミでできた大きな弁当箱があった。片手では持てないほどの大きさであった。深さも7センチほどあったであろうか。父親が野良仕事にでかけるときには、その弁当箱にぎっしりとご飯を詰めた。味付けは塩。それに沢庵が載っているだけであった。
私が小学校に持っていく弁当も大同小異であった。おかずは毎日同じ。「鯛でんぶ」と呼ばれていた一袋10円の甘い粉末だけがご飯の上に載せられていた。鯛でんぷに飽きた私はよく母親に愚痴をこぼした。しかし別のおかずが載ることはなかった。
母親もよく働いた。母親は病気を患うまでゆっくりとくつろぐことは片時もなかった。姑と嫁とはあまり仲が良くないものであるが、私の祖母は近所で「うちのミッチャン(私の母の愛称)は毎日ずっと走りゆうで」と嫁を褒めていたという。確かに私が母親と祖母とが言い争うのを見たことは一度もない。祖母が脳卒中で倒れたときも母親は自宅で献身的に祖母の介護をした。
当時、我が家は藁葺きで、かつ古く、いつ倒れるともしれなかった。家にはよく蛇が入ってきた。ムカデに噛まれることもよくあった。そんな家に住むことしかできないことは父親にとっても家族の誰にとっても恥ずかしいことであった。倹約に倹約を重ね、睡眠時間を削って働き、父親は家を新築するお金を蓄えた。いよいよ家を建てることになり少しずつ買い集めた材木が高く積み上げられていくのを見て、祖母は新しい家ができるのを心待ちにしていた。しかしその家の落成を見ることもなく、祖母は寒さの厳しい日の午後に脳卒中で倒れ、2週間後に息を引き取った。祖母が亡くなったのは私が小学校2年生であった年の12月30日であった。
貧困から抜け出すこと。これが祖父母と両親の大きな目標であった。家を建てることはこの貧困からの脱出のひとつの象徴的な出来事になるはずであった。しかし祖母はそれを見ずして亡くなった。祖母が亡くなったとき、母親は祖母を不憫に感じて涙が止まらなかったという。
新しい家が完成し引っ越しするまで、母親は毎晩深夜まで夜なべ仕事としてむしろを編んでいた。いつ母が床につくのか私は全く知らなかった。私が目覚めたときにはいつも母親は既に朝食の支度を終えていた。朝食が済むと近くの川まで洗濯にでかけた。冬、川の水は冷たい。手が凍える。それでも思い洗濯物をかかえて母親は川と自宅とを毎日何往復もし、山のような洗濯物を片づけた。冬になると母親の手はあかぎれと霜焼けで鳥の足のようであった。
「貧困」がマスコミを賑わせている。しかし現在の貧困など本当の貧困といえるのであろうか。私の両親は若い頃、もっとずっと貧しい生活に耐えた。そして窮乏の中でもできるかぎり他人に迷惑をかけないようにと心を砕きながら生きた。借金をしたこともない。ローンを組んだこともない。家を建てたときにもその費用は現金で一括で支払ったという。藁葺きの、いつ倒れるともしれない家に住み、倹約に倹約を重ねて、家を新築する費用を現金で一括払いできるようになるまで両親は近所の人たちからの嘲笑に耐えた。両親はこの家に今も住む。この家は、両親の終の住み処となるはずだ。
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