きょうの昼、先祖の墓参りをした。我が家の墓地は実家の裏山にある。ほとんど土葬である。若くして亡くなった祖父の3人の墓地は離れた場所にあったが、数年前に遺骨を裏山に埋葬し治した。この3人はまとめられて埋葬されている。
私がひとつひとつの石塔の前かがむと、傍にいた父親が一人一人について説明してくれた。
父親は5人兄弟の末っ子であった。一人の兄と一人の姉は私が生れたとき既に亡くなっており、我が家の墓地に埋葬されていた。兄は戦死であった。終戦の一ヶ月前にフィリピンのレイテ島で戦死した。父親のこの兄は私にとって伯父にあたるが、この伯父は生れたばかりの幼子を残して戦地に出向いた。残された伯父の妻とその幼子は、その後、貧困の中で一生を終えた。
(伯父が出征したのは我が子が生れて32日目であった。高知駅で親族全員が見送った。汽車が動き出しても伯父は顔が見えなくなるまで帽子を持った手を振り続けたという。母と子はその後、一回だけ広島県福山市の駐屯地を訪ねた。そこで伯父は一晩だけ息子と一緒に寝た。それが父子が顔を合わした最後となった。間もなく伯父は朝鮮に出征した。母子は朝鮮まで面会に出かけようとしていた。その矢先に今度はフィリピンに出兵。そして安否がわからなくなった。伯父がレイテ島で戦死したことが知らされたのはずっと後のことであった。)
もう一人の夭逝した姉の名は米尾といった。20歳で亡くなった。結核であった。発病後、死ぬまでの間、姉(私の伯母)は自宅の牛小屋の側の小部屋で養生したという。
伯母が息を引き取る直前、伯母は胸水が溜まって苦しんだ。胸水を抜くと死ぬと医師に言われていたが、あまりに伯母が苦しみ胸水を抜いてくれるようにと懇願する姿を見かねた私の祖父(米尾の父親)は、伯母の死を覚悟で胸水を抜いてくれるように医師に依頼したという。そして「気丈にしていなくてはいけないから」と言って酒を飲み始めた。伯母はほどなく息を引き取った。
伯母が亡くなったことを聞いた近所の方が駆けつけてきてくれた。そして酔っている祖父に向かって伯母の遺体の処理を手伝おうかと申し出てくれた。
当時、結核は忌み嫌われていた。伯母が闘病中は誰も我が家に近づこうとはしなかったという。そんな時期に結核で亡くなった伯母の遺体に触れようとする人などいようはずはない。
もちろん、その申し出は丁重に辞退した。しかしその方の親切は今も父親は忘れないと言う。
伯母は土葬であったのであろう。しかし伯母の遺品はことごとく自宅の庭で燃やした。
私の祖父は生前、何一つ愚痴を言ったことはなかった。自分の息子と娘の死は私の祖父にとってとてもつらい出来事であったに違いないが、その不幸な出来事についても祖父から聞かされたことはなかった。
伯母・米尾が亡くなって70年以上経った。祖父が亡くなってからも既に30年近く経つ。これほど時間が経って初めて父親が話してくれた伯父・伯母の小さな思い出話である。父親が亡くなれば、裏山の墓地で父親からこの話を聞かされたことが私にとって忘れることのできない父の思い出となるであろう。
戦死した伯父の遺影も結核で亡くなった伯母の遺影も、まだ実家の仏壇に掲げられている。その傍に私の祖父母つまり彼らの両親の遺影も一緒に飾られている。4人とも同じ墓地に眠る。
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