私には音楽の素養がまるっきりない。しかし、耳に入るとつい聴き入ってしまう曲が何曲かはある。そのひとつがサン・サーンス「白鳥」である。
私がこの曲を初めて聴いたのは私が保育園に入園したときであった。私が2年間通った保育園では、午後4時の帰宅時刻の10分前になるとこの曲が園内に流れ始めた。私たち園児は、この曲が流れ始めると同時に片づけを始めた。片づけを終えると、正門前に集合した。そしてみんなで歌を歌った後、解散した。♭♭先生さよなら、皆さんさよなら、お手手つないで帰りましょう♭♭ 皆で声を合わせ、先生に向かって手を振りながらこの歌を歌った。
当時、帰宅の合図である「白鳥」が流れ始めると、私はいつもとても寂しい思いにとらわれた。この曲のメロディーそのものによる寂しさもあったかもしれない。しかしこの曲を聴くと、その日は友達ともうお別れだという思いが私をよけいに切なくさせた。
信じられないかもしれないが、私がこの曲の題名を知ったのは、その後、30年ほど経ってからであった。それまで私は、誰に対してもこの曲の題名を尋ねることすらしなかった。
クラシック音楽などとは全く縁のない幼小児期を過ごした私は、クラシック音楽を聴いてもほとんど曲名がわからない。教えてもらってもすぐに忘れてしまう。子供のころからクラシック音楽に馴染んでいる人たちであれば、一度曲名を聞けばきっと忘れることはないのではないか。
クラシック音楽の曲名を覚えることができないというのは私の育ちの悪さを示すひとつの証左である。「育ちの悪さ」というものは、ごまかすことができないものだ。無意識に発する言葉や表情、身のこなしにその人が生きてきた人生そのものが表れるのだ。
私は自分の親を責めているわけではない。
私の両親は決して教育熱心ではなかった。しかし、社会人として生きていくうえで必要とされる最低限のモラルは教えてくれた。「他人のものを盗んではいけない」、「他人のお金を横領してはいけない」、「借りたお金は必ず返さなくてはいけない」、云々。列挙すれば限りがない。
どれも当たり前のことばかりである。しかし、両親が私に言って聞かせたことは、確かに両親も確実に守って生きてきたと思う。それで十分である。
躾けとは繰り返しである。
「北枕で寝てはいけない」と子供のころ繰り返し両親や祖父母から言われた。北枕は死人を寝かせる向きであると説明された。死人と同じ向きに寝たらなぜいけないのか。誰も答えられはしないであろう。それでも多くの人は北枕を避ける。私もそうである。
「人を跨いではいけない」ということや、「夜、爪を切ってはいけない」といったことも繰り返し諭された。人を跨いではいけないのは、人を跨ぐとその人の背が伸びなくなるからだと祖母は私に説明した。「なら、成長が止まった大人を跨ぐのはかまわないではないか。」
当時の私はそんなことは考えもしなかった。躾けとはそのようなものであろう。繰り返し繰り返し諭されることによって理屈を超えてその教えは自分の心の中に染み渡っていく。そしてその人の人生を生涯支配する。
電車のなかで若い女性が化粧をする姿は醜い。そればかりではない。電車のなかで化粧をしている女性の中に美人だと思える人はいない。女性の美しさとは顔のつくりだけではない。顔にはその人がそれまで生きてきた人生が表れる。その人の人生観が表れる。顔にいくら化粧を施したところで、それまでの自分の人生を覆い隠せるわけではない。覆い隠せるのは白髪や顔の皺であって心ではない。
彼女らは幼い頃に「美」に対する感覚を磨く訓練を親から受けなかったのであろう。すでに成人してしまった彼女らを諭す言葉はもうない。「美」も「醜」も言葉で教えることはできない。
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