2021年5月5日水曜日

御巣鷹山 慰霊登山

一昨日の午前、御巣鷹山に慰霊登山した。今回も私と家内だけであった。息子を連れてきたいと思っているが、なかなか機会がない。

軽井沢に出かけてくると、毎年、私たちは引き寄せられるように御巣鷹山に登る。山を登っていく途中で私が想いを馳せるのは、いつも残された遺族のことである。この飛行機事故では520名の尊い命が奪われた。そしてその何倍もの人たちの人生を大きく変えた。登山途中で一組のご夫婦とすれ違った。ご遺族であった。毎年、最低3回は御巣鷹山を訪れるという。親しい肉親を失った悲しみは生涯消えないのであろう。事故が起きたのは1985年であった。今年の8月には37回忌の式典が盛大に執り行われるはずである。

人は皆、必ず死ぬ。私も20年後には生きていないであろう。私の祖父は88歳で亡くなった。祖父の死を知らされたとき、私はわっと涙が噴き出した。しかしその一方、心の中で祖父の88年の人生を誉め称えた。

私が死んだとき、家族から「あっぱれだった」と言ってもらうことができるであろうか。












2021年4月21日水曜日

「医療崩壊」(小松秀樹 著)のはしがきより抜粋一部改編

医療が進歩するにしたがって医療に対する社会の要求が強くなった。患者は医療にはすべてのことが可能であり、生命は永遠であると思うようになった。患者が死亡すれば医療過誤があったのではないかと猜疑の目でみるようになった。医療が進歩するほど紛争が増えるという皮肉な状況になっている。 特に小児科や産科では、 医療の結果が期待通りでないとき、死や障害が受け入れられない。悲しみが医療への恨み、さらに、ときとして攻撃につながる。患者側からの攻撃の強い小児救急や紛争の多い産科診療など脆弱な部分から医療が崩壊し始めた。 更に2002年前後より医療事故を警察が取り締まることが多くなり、善意の看護師、医師が犯罪の被疑者として扱われ、運が悪いと犯罪者の烙印を捺されるようになった。刑事事件と民事事件の境界がなくなり、これまで民事事件として扱われてきた事件が刑事事件として扱われるようになった。 こうした中、医療従事者の勤労意欲が低下し、彼らは病院勤務、特に業務の過酷な急性期病院から離れ始めた。現状はきわめて深刻である。医療機関の外から思われているよりはるかに危機的である。

2021年3月28日日曜日

軽井沢で

3月25日から2泊3日で軽井沢に出かけた。昨夜遅く東京の自宅に帰り着いた。軽井沢は暖かく天候にも恵まれ、家族でゆっくりと過ごすことができた。別荘にも変化はなかった。

ただ、私たちが別荘に着いたとき、見慣れぬ車が数台隣家の駐車場に停まっていた。隣家は喫茶店であったが営業しているようには見えなかった。軽井沢では冬場は営業していない店が多い。まだ営業を始めていないのかもしれないと思っていた。ただ、夜になっても隣家の駐車場に停まっているのは軽自動車1台だけであった。いつも2台の車を停めていた。

謎が解けたのは翌日の昼であった。見知らぬ壮年の男性が別荘を訪ねてきた。隣家で新しくレストランを営業することになったとの挨拶であった。隣家で喫茶店を経営していたご夫婦が離婚して喫茶店をたたみ、東京に帰っていったとのことであった。そこを買い取ったのだという。

喫茶店は20年近く営業していた。東京でガソリンスタンドを経営していたが、軽井沢が気に入ってガソリンスタンドを売り払い、軽井沢に移住したと聞かされていた。開店当時は連日、溢れんばかりの客で賑わっていた。当時、別荘と隣家との間には柵はなく、喫茶店を訪れる客は我が家の別荘の敷地にも車を停めていた。客ばかりでなく隣家の夫婦も我が家の別荘の敷地を我が物顔で使っていたらしい。軽井沢の住人からそう聞かされた。我が家の別荘の庭には深い轍ができており、地中に埋められている下水管を覆う鉄板は大きく曲がっていた。私たちが別荘に滞在している時ですら、車で出かけて戻ってくると客の車が別荘の敷地に停められていた。しかし喫茶店の経営者である隣家の夫婦は客に注意しなかった。それどころか、私たちが別荘に戻って客の自動車を別荘の敷地の外に出してくれうように依頼しても、「客が勝手に停めているのだから私たちは注意できない」と言い返してくる有り様であった。

隣家と我が家の別荘との間に柵を設置することになったのはこのような事情からであった。この話し合いをするにあたっては、当時、別荘の所有者であった義母(家内の母親)と隣家の夫婦との間にはいざこざがあったらしい。以来、義母はこの別荘を訪れることがなくなった。私たちも隣家の夫婦とはほとんど言葉を交わさなくなった。今、別荘は私の息子の名義になっている。

隣家の夫婦が軽井沢に引っ越してきた当時、夫婦はまだ30歳そこそこであったのではなかったか。開店当初、喫茶店は大繁盛。夏場には猫の手も借りたかったようで、この時期にはパートの従業員を雇っていた。またご主人の実母も応援に駆けつけた。この実母から、夫婦はわずか1年で借金を返済したと聞かされた。しかし歳を追うごとに客足は遠ざかり、我が家の別荘と隣家との間に柵を設けてから喫茶店を訪れる客が激減した。

迷信と笑われるかもしれないが、喫茶店の客が急減したのも隣家の夫婦の仲が悪くなったのも、風水と関係があるのであろうか。柵の設置と客の急減とは同時であった。










2021年3月27日土曜日

House of Karuizawa

一昨日、家族で軽井沢に出かけてきた。こんなに早く軽井沢に出かけてくるのは初めてである。軽井沢で過ごすようになるのは、例年、ゴールデンウィーク。毎年3月には家族で海外旅行に出かけるが、今年はコロナウイルスのために海外に出かけられなかった。

今年、軽井沢は暖かい。

きょうのランチは「House of Karuizawa」で。このレストランは南原の静かな森林の中にある。私も私の家族も軽井沢で最も好きなレストランである。上品な奥様がいつも私たちを笑顔で迎えてくれる。店内は広く、ゆったりと食事をとることができる





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2021年3月25日木曜日

懇意にしている臨床心理士(心理カウンセラー)がいる。彼女は70歳代前半。前の職場で大変お世話になった。彼女は優れた技術を持っている。私は心理治療が必要と判断した患者は今でも全員彼女に治療を依頼する。

何年か彼女のご主人が東北地方のある県に単身赴任していた。ふたりのお嬢さんは既に嫁ぎ、ご主人の単身赴任中、彼女は自宅で東京で一人暮らしをしていた。彼女のご主人が東京に戻ってくることになったとき、彼女は急に落ち着きを失くした。一緒に暮らしたくないと彼女は言った。別に、特に夫婦仲が悪いからというわけではないと思った私は、誰であっても長期間一人暮らしすると人と共同生活できなくなるものだろうと、彼女の話を聞き流していた。

ところが彼女のご主人が東京に戻りふたりで暮らすようになってからも彼女はご主人と向かい合って食事ができないと私に話した。向かい合ってご主人と一緒に食事ができない彼女はどうしているのか。彼女はご主人と向かい合わないためにご主人の横に座って食事をしているということであった。面白いことにこのことを彼女は自分の患者や知人にも勧めていた。

私は、臨床心理士としての彼女の素晴らしさはここにあると思い、いたく感心した。そう、大きなストレス源と正面から向かい合ってはいけないのだ。逆にストレス源から目を背けてもいけない。

私の友人の4人が鬱に陥った。うち3人は仕事を辞めた。残りのひとりは子会社に転籍することによって鬱から脱した。

LINE

先日の夜、散歩中、LINEにメッセージが届いた。高校時代の友人からであった。彼は私が最も信頼する友人のひとりである。しかしこの数年、彼とは会っていなかった。電話で話したこともなかった。昨年7月に私が転勤した直後にメッセージをやりとりしただけであった。今年私が出した年賀状にも返信はなかった。(喪中であったためであろう。後で気づいた。)

彼のご両親は数年前から土佐市内の養老施設に入っていらっしゃったが、お父様は昨年亡くなった。彼の中土佐町久礼の実家が空き家になっている。私が高知に帰省するときにはそこに泊まってくれと彼は言ってくれる。

半世紀昔のことになったが、高校時代、彼の家に何度か遊びに行った。泊めてもらったこともある。彼の家は材木商であった。彼の顔はお父様似。面長で下顎が張り出していた。お母様は対照的に丸顔。いつも笑みを浮かべていた。3人の息子を育ててきた母親としての自信に満ち溢れていた。(友人は三人兄弟の長男。)彼の家に行ったときには、いつも近くの広場で彼の家の原付に乗って遊んだ。当然、無免許であった。彼のお母様は家でアイスクリームを売っていた。いつも高価なレディーボーデンを冷凍庫から取り出して振る舞ってくれた。笑いが絶えない朗らかな一家であった。一方、私はその頃、両親の不和に苦しんでいた。子にとって自分の親の仲が悪いことほど辛いことはない。笑いの絶えない彼の家族を羨ましく思った。

ところが、いつ頃であったのかは定かでないが、彼がご両親と絶縁状態になっているとある友人から聞かされた。確かに彼は毎年暮れに高校時代の友人と開く同窓会の後、自分の実家には帰らず、奥様の実家に戻っていった。理由は友人の誰も知らなかった。彼もその理由を語ろうとはしなかった。私は、自分の体験から、どんな事情があろうと血を分けた肉親は許し合って生きていくべきだと思っていた。しかしそんな説教じみたことを彼に言う気にはならなかった。私は、彼は私の何倍も生きる達人だと思っていた。他の友人も彼に何も言えなかった。

私が彼のお父様に最後にお目にかかったのは、2013年ではなかったかと思う。私が両親の介護のためによく高知に帰省している時期のことであった。誰もいなくなった実家の窓を開け、掃除し、庭の草をむしり、布団を干す。介護は孤独な作業であった。入院して いる両親を見舞っても、病状は悪化する一方。数少ない気分転換方法は高知市での日曜市と中土佐町久礼の大正市場を訪れることであった。両親が入院していた病院から大正市場までは車を飛ばせば30分ほどで行けた。友人の実家を訪れたのは大正市場からの帰路であった。彼の実家を最後に訪れてから40数年が経っていた。彼の実家にたどり着くまで、多くの人たちに道を尋ねねばならなかった。玄関のチャイムを鳴らすと、程なく背の高い老人が玄関に出てきた。彼のお父様であった。腰も曲がっておらずかくしゃくとされていた。短時間話を交わしただけで私は彼の実家を立ち去った。彼と彼の両親とが絶縁状態であることを知っていたからである。ただ、彼のご両親が養老施設に入られた頃には、彼とご両親との間の絶縁状態は解消されていたようである。

先日、彼から届いたLINEのメッセージの冒頭は以下の通りである。

「元気にしているか?会社辞めて自分の考えを言うようにます。
孤立しています。いと
くにひ国広と井戸もとよし
御免なさい」

誤字脱字だらけである。「いと」といのは友人の「井戸」のことであろうか。「もとよし」というのはもうひとりの友人である「元吉」のことであろう。

彼とはこの後、メッセージのやりとりをしたが、最後まで要領を得なかった。単に泥酔されていたためだけならいいが。詳しく語ろうとはしなかったが、彼は大きな悩み事を抱えているようであった。今、彼と交わしたLINEのメッセージを読み返してみると、冒頭の「孤立しています」という文言が気になって仕方がない。社交的で人懐っこい彼が孤立するような事態が起きるとは想像できない。

2021年3月20日土曜日

懐メロ

いつからかはっきり記憶にないが、私はほとんどテレビを観なくなった。たまに観るのはNHKの将棋トーナメントぐらいである。ニュースも観ない。私だけでなく家内も息子もほとんどテレビを観ない。家内が観るのは水曜日の夜に放映している「刑事コロンボ」のみ。息子に至っては、今年に入ってテレビを観ている姿が記憶にない。
 
ただ、私は、夜の散歩の最中によくYouTubeを観る。YouTubeで音楽を聴くこともある。クラシックか懐メロ。
 
昔は、流行した歌を聴くとその当時の思い出が蘇ってくることが多かった。ひとつひとつの歌が私の人生と結びついていた。しかし最近はYouTubeで懐メロを聴いても、それらの曲が流行った当時の出来事が全く頭に浮かばなくなった。歳である。
 
今、どのような局が流行っているのか全く知らない。また、今流行っている曲を聴いても歌詞はよく聞き取れない。
 
ただ、私がYouTubeで聴く懐メロは、恋を題材にしたものが多い。きっと今もそうなのではないだろうか。
 
恋は情熱である。自己陶酔である。今、熱い恋愛の真っ最中の若者は、現在の流行歌を聴くたびに胸が高鳴ることであろう。恋愛とは自分が描いた異性のイメージに盲目的に酔うことなのだと思う。陶酔。そう、恋愛は文字どおり陶酔である。
 
「秘め事」という言葉が死語となった今、若者は異性に陶酔しにくくなった。SNSも陶酔の妨げとなる。饒舌は情熱を殺す。他人にはバカなこととしか思えなくとも、人生の一時期において、理性を失うような陶酔に浸らなかったならば不幸ではないだろうか。
 
今の私は、恋愛を「自己が作り上げた異性のイメージへの陶酔」つまり独り相撲としか考えられない。懐メロを聴くたびに自分が年老いたことをひしひしと感じる。