2021年1月7日木曜日

電子メールとメッセージ

電子メールは手軽である。メッセージはもっと手軽に送受信ができる。私は、メッセージ用のソフトウエアとしてはアップルのメッセージ、Facebookのメッセージ、そしてLINEを使用している。本当はアップルのメッセージだけを使いたいが、アップルのメッセージではAndroidのユーザーとの連絡が取りにくい。
 
セキュリティの面からはアップルのメールが最も安全であると思う。FacebookとLINEにはセキュリティ面で問題がある。
 
ただセキュリティのこととは関係なく、今後、メッセージを使うのは最小限にしようと思っている。
 
昨年の暮れから私は電子メールやメッセージの代わりに葉書を出すように努めている。葉書のやりとりは時間の流れが緩やかである。
 
私は、これまでいただいた手紙のなかで印象に残ったものを大切に保管している。それらを時々読み直すが、読むたびに心が洗われるような気がする。残念でたまらないのは、私がまだ独身であったころに父親からもらった手紙が見つからないことだ。十年ほど前に古い書類の山の中からその手紙を偶然見つけ、その文面に心を打たれた。どうもその手紙を大事に仕舞いすぎたようだ。見つからない。
 
私の人生もそう長くない。平均寿命まで生きたとしてもあと20年足らずである。私が最近出している葉書を長く保管してくれる人はいるであろうか。
 

2021年1月6日水曜日

墓参り

1月2日、天気が良かったので家内とふたりで墓参りにいってきた。自宅からは車で15分ほど。住宅に囲まれた小さな寺の一角に墓はある。閑静で日当たりもいい。今年の正月は、私たち以外に参拝人はいなかった。
 
墓石の背面には「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と刻まれている。我が家のルーツを知っているのは私の息子までであり、私の息子の子らは、自分たちの先祖が高知県出身であったことすら知ることはないであろう。そう思い、「高知県土佐市鷹ノ巣より改葬」と記した。
 
 
父親が亡くなったのは2014年3月7日。この墓石は父親の四十九日の法要の直前に完成した。私は父親の遺骨をしばらく自宅の仏壇に置いておきたかった。しかし家内は、納骨しないと成仏できないと言った。私は家内の言葉に従って父親の四十九日の法要の日に納骨した。法要に同席したのは、一人の僧侶と私、私の家内、そして私の一人息子だけであった。
 
祖父母まで、私の先祖は全て土葬であった。実家の裏山の斜面にあったわが家の墓地には30柱ほどの墓石が並んでいた。江戸時代からの墓石もあった。墓石の表面には苔が生え、名前が読めないものが少なくなかった。名前が刻まれていない墓石もあった。
 
改葬するにあたって遺骨は専門業者に依頼し、2日かけて掘り起こしてもらった。どの墓からも骨のかけらぐらいは見つけられるだろうと思っていた。しかし遺骨や遺品が出てきたのは祖母と祖父の墓だけであった。他の墓には遺品も遺骨も何も残っていなかった。驚いたのは、祖父の遺骨よりも祖父の遺骨が傷まずに残っていたことであった。祖母は祖父より20年前に亡くなっていた。しかし祖父より25歳若くして亡くなったので、まだ骨がしっかりしていたのかもしれない。祖母の遺骨はビニールの袋に包まれ、櫛などの遺品も出てきた。
 
遺品も遺骨も残っていなかった墓からは一握りの土だけを取り出しそれを丸めて遺骨代わりとした。
 
わが家では、親族のものと思われる墓も管理していた。子供の頃、私はその墓の掃除に何度か母親と行ったことがある。その墓は実家から数百メートル離れた小高い山の上にあった。雑木が生い茂り日当たりが悪く、湿っぽかった。途中の山道は狭く、坂は急峻で、滑りやすかった。当時はまだ母親の足腰はしっかりしており、どのように地面を踏みしめれば足を滑らさないかを私に教えてくれた。その墓地は昼間でも薄暗く気味がわるかった。私は一刻も早くその墓地から立ち去りたいといつも思ったが、母親は自宅から持ってきた竹箒で落ち葉を丁寧に掃き、ひとつひとつの墓に水を注いだ。いくつかあった墓石には「広瀬」と刻まれていた。しかし國弘家と広瀬家との関係について母親も父親も私に話したことはなかった。
 
私の実家の裏山の畑に後に父親が設けた納骨堂は、この「広瀬家」の人たちの遺骨が納められているようであった。それらの遺骨も父親や先祖の遺骨と一緒に東京に送った。納骨堂を開ける際に、納められていた遺骨の俗名を確認したが、忘れてしまった。遺骨はほとんど傷んでいなかった。國弘家の先祖のものとは大違いであった。おそらく「広瀬何某」であったのではなかろうか。
 
これだけ多くの遺骨を新しく完成した墓に納められるられるかどうか心配であったが、無事、納まった。
 
改葬は大変な作業である。多くの時間と労力を要する。経費もかかる。改葬に要した経費の大半は父親の通帳から出した。しかし出血性脳梗塞で入院していた父親は自分の意見を述べられる状態ではなかった。父親の通帳から通帳から改葬費用を引き落とすには裁判所の許可が必要であった。裁判所への嘆願書は司法書士の友人が書いてくれた。嘆願書には、父親が元気であった頃に改葬を希望していたことを証明する文書を添付しなければならなかった。この証明書を作成するために友人は私の親戚や隣人の家を訪れ、父親が改葬についてどう考えていたのかを聞いてくれた。父親がまだ元気であった頃、改葬のための経費の見積もりをある業者に要求していたことはその際に知った。
 
友人が書いてくれた裁判所への改葬嘆願書は長文であった。彼はその嘆願書の文面をファックスで私に送ってきた。私は彼の書いたものを推敲し送り返した。何度かファックスでやり取りした。裁判所からは、無事、改葬許可が下りた。
 
友人の名は土方昭。中学校時代からの友人である。私が両親の介護をするようになってからは、彼がいろいろとサポートしてくれた。彼は非常に真面目な男であった。手を抜かない。あまりにも熱心に働きすぎて燃え尽きてしまったようだ。数年前に仕事をやめ、今は悠々自適の生活を送っている。
 
話が前後するが、両親が元気だった頃、私は実家に帰るたびに実家の裏山にある先祖の墓地に参拝した。父親と一緒であることが多かった。墓地の草をむしった後、ひとつひとつの墓の前で祈った。祖父母の墓で祈る際には、父親はいつも「幸伸が来たぜよ」と祖父母の墓石に向かって話しかけた。そして「自分が元気なうちは自分が墓守をするが、ゆくゆくは幸伸、頼むぜよ」と言った。
 
その墓地にはもう両親を埋葬するスペースがなかった。漠然としてではあったが、私は、両親はどこに埋葬しようかと考えていた。父親が倒れた直後は、実家の裏に父親が設けていた親族の納骨堂に両親の遺骨を納めるつもりであった。しかしその納骨堂は畑の一角にあった。市役所に勤務しているた中学高校時代の同期生に相談すると、畑に納骨堂を設けるのは違法であると言われた。納骨堂も撤去しなければならなかった。
 
墓地を探さねばならなくなったのにはもう一つ訳があった。なんと、先祖代々の墓がある土地は我が家の所有地ではなかったのだ。実家の隣の家が所有していた。江戸時代からの墓石があったので、まさかそのようなことがあろうとは。私は驚いた。既に二百年以上我が家で使用していた。したがって我が家の所有地とする手続きをすることができないわけではなかったが、隣家と揉め事を起こしたくなかった。
 
当初は実家があった土佐市内で墓地を探した。しかし土佐市は高知龍馬空港から離れている。そのため、空港に近い高知市内の墓地を探した。高知市の市街を臨める小高い山の中腹にある墓地が私は気に入った。そこは日当たりもよかった。
 
その墓地に改装しよう、両親が亡くなったら両親の遺骨もそこに納めようとほぼ決めたとき、墓地は東京に移すのがいいと従姉から言われた。その従姉はある宗教に入信しており、信心深かった。彼女は「供養することが大事だから」と私に言った。確かに、墓参りのために高知を年に何度も訪れることは難しい。ましてや私の息子の代になれば一層困難になるであろう。
 
私は、父親と同じ病院に入院していた母親に、東京に改装しようと考えていると話した。それを聞いた母親は笑顔を浮かべながら賛成してくれた。母親はどんなことがあっても東京には行かない、高知で一生を終える、と若い頃から私に言っていた。しかし死後は私たちの家の近くに埋葬されるのが寂しくなくてよかったのであろう。父親も東京に移住する意志はないと母親から聞かされていた。しかし、実家の隣人には「いずれは東京に連れていかれるだろう」と父親は話していたという。「連れていかれる」というのは土佐の表現である。意味するのは、埋葬されるということである。
 
改葬するには市役所の許可が要る。この許可申請も手続きが煩雑であった。改葬許可を受けるには、まず過去70年ほどの先祖の一覧が必要であった。家系図のようなものである。市役所でもらったその書類を見ると、亡くなった先祖の名前は一本の横線で消されていた。こんなにも沢山の先祖がいたのかと驚かされた。しかし私が知っている名前はほとんどなかった。
 
もうひとつ大きな問題があった。改葬するには改葬先も決めなければ改装許可をもらえない。父親の病状はどんどん悪化していった。時間との競争になった。
 
改葬先探しは私の家内がやってくれた。家内はあちこちからカタログを取り寄せ、現地にも足を運んでくれた。私も何箇所か見て回った。
 
私たちの夫婦は宗派にはこだわらない。しかし母親は宗派を変えることを嫌がった。我が家の宗教は真言宗豊山派であった。自宅近くに真言宗の寺がなかったわけではなかった。しかしそれらの寺を私たち夫婦は好きになれなかった。住職が傲慢であった。宗派によって僧侶の性格が異なることに私たちは気づいた。
 
あちこちを下見した結果、私たちは文京区にある曹洞宗の寺を改装先に選んだ。その寺には信仰宗教不問の一角があった。寺に支払う権利費、業者に支払う墓石製作費は父親の銀行口座から引き落としたが、諸雑費もかなりかかった。私たち夫婦が費やした時間膨大であった。また息子も含めて家族全員が何度か高知に帰らねばならなかった。
 
改葬にあたって私たち夫婦は先祖のために全力を尽くした。しかし埋葬される先祖たちは自分たちの希望を私たちに告げることはできない。死人に口なしなのである。

2021年1月4日月曜日

従姉

母親が亡くなった後、書類の山の中に一通の手紙を見つけた。差出人を見ると兵庫県に住む従姉であった。開封されていたので私はその手紙を既に読んでいたのだろうと思う。ただ全く記憶になかった。
 
読み直してみると、その従姉の実家の改修に必要なお金を私の母親に無心したと言われたがそんなことはないという内容であった。

その従姉の実家には彼女の母親が一人で暮らしていた。従姉はなんとかしてその家の外壁を改修してやりたいがお金がないと私に言ったことがあった。改修には二百万円だか三百万円だかがかかると従姉は話した。しかし彼女が私に金を無心したわけではなかった。私にそれほど多額の金を出す余裕などあるはずがない。改修費を負担すべき立場にもない。私は彼女の話を単に聞くだけであった。

この従姉は、彼女が私の実家に改修費用を無心したと私の母親が私に言ったものと思い込んでいたようである。そして私の誤解を解きたくてこの手紙を寄越してきたように思われる。しかし母親が私にそのような話をしたことはなかった。私の母親と私の間でこの従姉の実家の改修費のことが話題にのぼったことはなかった。
 
ただ、私の姉からは次のような話を聞いたことがあった。姉は、その従姉からお金を無心されるのでいやになってその従姉には電話をかけなくなったと私に言った。正確には、「従姉から電話で話すたびに金がない金がないと言われる。改修費を無心されているようでいやなので最近はその従姉に電話しなくなった」と姉は私に語った。姉が私にこの話をした直前に私も従姉から改修費のことを聞いていたので、姉の話は理解できた。しかし私は姉の話も聞き流した。
 
そんな時期に父親に続いて母親も入院。退院して実家に戻ることは二人ともできそうもなくなった。空き家になった私の実家をゆくゆくは従姉に譲渡することにし、彼女の母親が住む家の改修はせず彼女の母親に私の実家に住んでもらうのがいいのではないかと思った。私は従姉に電話をしてそのことを話した。しかしその従姉は「いらんわ、あんな田舎には住めん」といって私の申し出を断った。従姉の母親は結局、その従姉の実姉の嫁ぎ先の近くに住むようになった。そしてそこで亡くなった。
 
思い返してみると、従姉から金を無心されると私の母親に告げたのは私の姉であったと思われる。私の母親がその従姉と家の改修について直接話したことはなかったのではないかと私は推測している。姉から改修費の話を聞いやとしても、母親が従姉に抗議の電話を入れるといったことは、母親の性格からは考えにくい。
 
理由がわからないが、私はその従姉に恨まれることになった。
 
私の姉は、全く理由なく他人の悪口を言っては他人同士の人間関係を壊す。他人の人間関係を破壊することが姉の生き甲斐のようだ。姉が何か事実無根の話を従姉にしたのであろう。

嫉妬

この世を動かしているエネルギーは嫉妬と憎しみであると私の知人が言ったことがある。そのことを聞いたとき、私はそのようなこともあるだろうしそうでないこともあるのではないかと思った。また、そういう人もいるかもしれないがそうでない人もいるのではないかとも思った。
 
しかし最近、嫉妬と憎しみがどれほど恐ろしいものであるのかを知った。
 
両親の最晩年に私の姉がとった行動はまさに嫉妬と憎しみそして猜疑心以外では説明がつかない。姉は元々、猜疑心が強かった。姉が人を褒めるのを聞いたことはこれまで一回しかない。それは姉の三女について話したときであった。姉の三女だけが心優しいと姉は言った。姉には4人の子がいた。その4人のうち3人は女の子であった。しかし姉はそれら3人の子の誰も褒めたことがなかった。姉が自分の子を批判するときに用いる言葉は今思い出してもへどが出そうになる。
 
姉は亡くなった父親と母親も褒めたことが一度たりとなかった。感謝の言葉を口にしたことすらなかった。私の妻の悪口を言い始めたときも際限がなかった。1時間も2時間も延々と私の家内を批判し続けた。自分(姉)の夫の批判もひどかった。あんな酷い男はいない、と夫の批判を続けた。特に、姉の夫が兄嫁を褒めることが気に入らなかったらしい。兄嫁のことも散々罵った。「会社が潰れたのに着飾ってのうのうと何一つ不自由のない生活をしている」、「カラオケに毎日のように通っている」といったような調子であった。
 
姉の夫が姉を批判したときのことも姉の口から聞かされた。姉から話を聞くと、姉の夫(つまり私の義兄)は酷い人だと思えた。しかし、義兄が時折姉に対して声を荒立てたのも当たり前でなかったかと思う。繰り返しになるが、姉は誰も褒めなかった。姉から出る言葉は悪口と愚痴だけであった。毎日他人の悪口ばかり聞かされれば、誰でもうんざりするであろう。
 
私が姉に意見すると、突然、攻撃の矛先が私に向かった。
 
父親が倒れる1〜2年前、私が年末年始に帰省した際に、父親が私と私の姉とが不仲なのを心配して「お姉(おねえ)とは仲よう(なかよく)やりゆうかえ。なかようなりよ」と何度か言った。私はそのとき、父親の意図がわからなかった。私は私と姉の関係に特段変化はないと思っていたからである。しかし、姉は両親に対してさんざん私の批判をしていたらしい。
 
姉はある人に電話をかけると他の人の悪口を言う。それの繰り返しであった。悪口のねずみ講である。
 
姉は父親と母親が相次いで入院したとき、國弘家から絶縁すると宣言した。私は両親が亡くなるまでの2年あまり、東京と高知とを往復しながら両親を介護した。仕事に多大な支障が出た。しかしこの2年間は私にとって無駄ではなかった。両親の私に対する愛情を身近に感じることができたからである。両親は間違いなく姉にも私に対すると同じように深い愛情を持ってくれていた。私はそれをひしひしと感じた。姉は両親の愛情を身をもって感じる貴重な機会を自ら閉ざした。
 
両親とも亡くなった今、姉の心は生涯救われないであろう。
 

2021年1月3日日曜日

再従従妹

私には同じ小学校、中学校、高校に通った再従従妹(はとこ)がいる。彼女には私の姉と同い年の姉がいたが、物静かな兄とは対照的に非常に活動的で気が強かった。小学校1〜2年生のときには私は一人のクラスメートによく泣かされた。その際に私をかばってそのクラスメートを叱りつけてくれたのはいつも彼女であった。小学校1年、2年の担任であった先生(中野とし先生)私が小学校卒業卒業式の日、「あんなに泣き虫だったのに逞しくなったね」と私に微笑みながら話しかけてくれたのを今でも思い出す。
 
私は小学校1年、2年の頃はあまり成績がよくなかった。小学校3年になって突然、成績がクラスのトップクラスになった。両親の介護のために東京と高知の実家とを往復しているときに箪笥の中かから当時の通知簿が出てきた。良心は私の思いでの品をしっかりと箪笥のなかにしまっておいてくれていた。成績は私が思っていたとおりであった。小学校1年と2年のときにも算数は非常によくできたらしいが、他の教科のできは大したことはなかった。ところが小学校3年生の通知簿からは別人のように成績が上がっていた。成績が上がった理由はわからない。
 
話を戻す。
 
その従妹は、私と同じ高校を卒業した後、徳島県にある大学の薬学部に進学した。そして薬剤師になった。今も薬剤師として働いている。この再従兄弟とは年一回、年賀状をやりとりする程度のつきあいでしかなかった。
 
彼女とよく連絡を取り合うようになったのは私の両親が入院し、私が東京と高知とを往復するようになったときからであった。私は2週間に1回高知に帰った。土曜日,日曜日、月曜日と三日間高知に滞在することが多かった。土曜日には朝5時に起床し、始発の飛行機で高知に向った。高知からの帰りはいつも月曜日の最終便であった。月曜日には銀行、市役所、郵便局などを回るとともに病院に見舞いにも行かなければならなかった。月曜日は朝食も昼食もとれないことが多かった。夕食は空港内の食事でさぬきうどんをかけこんだ。
 
そんな私を見かねたのか、私が高知に行くときには空港まで私の車(私の父親所有であった)を運んでくれた。私が高知龍馬空港に着いたときには毎回、私の車が駐車場に停められていた。そして私が東京に帰る歳には空港に乗り捨てた車を駐車場まで運んでくれた。「少しでも長くおんちゃんとおばちゃんの側におっちゃりや」と彼女は言ってくれた。
 
私の母親は尿管結石の手術を受けた後、尿管にカテーテルが入っていた。そのカテーテルは2か月に一回交換しなければならなかった。そのため、入院先の病院から高知大学医学部附属病院を受診せねばならなかった。その歳には付添がいる。親戚が付き添ってくれたこともあったが、私の家内も何度か高知に帰省した。台風が高知県を直撃したときに家内が高知に行かなければならないときもあった。そんなときでもその再従兄弟は私の家内を自分の栗間に乗せて母親の入院している病院まで連れていってくれた。途中、通る仁淀川は大きく増水し、箪笥も流れてきていたらしい。このような気管な非にも再従兄弟は助けてくれた。
 
その日、私の家内は、母親が入院している近くに住んでいる私の従姉に挨拶に立寄ったというが、その従姉は私の家内の輻湊を見て「みすぼらしい。もっときちんとした身なりをしなさい」と叱ったという。私もその従姉には幾度となく同じ叱責を受けたことがある。
 
しかし私が帰省したときには、私は泥だらけになりながら父親が所有する山林や田畑を回らねばならなかった。家内とて似たようなものである。着飾って行く必要などないではないか。それに私たちは金には不自由していない。見栄を張る必要はない。
 
両親が亡くなるまで、私は実に多くの人たちに助けてもらった。その一方で、最も近くに住んでいる娘である姉は何もしなかった。見舞にも来なかった。姉にはいずれ天罰が下るであろう。

2021年1月2日土曜日

恩師 4

浅野先生が亡くなったのは16〜17年前のことであった。淺野先生の年齢を本人に尋ねたことはなかったが、私より10歳以上年上だろうと私は思っていた。
 
淺野先生とはウマが合った。彼女は独身であったが、二十歳代のころにイギリス人の俳優にあこがれてその俳優と結婚しようと思い、イギリスにあるその俳優の家の前で寝泊まりするためにテントを買い野宿の準備をしたことがあったという。ところがその俳優は浅野先生が日本を発つ直前に亡くなった。
 
そのイギリス人の俳優が浅野先生を知っていたはずはない。その俳優が生きていたとしても浅野先生がその俳優と結婚できたとは到底思えない。
 
しかし「人生」というものを大局的に考えると、浅野先生が実行しようとしていたその無鉄砲な行動は、浅野先生がその後の人生を生きていく上で必須の経験であったのではなかろうか。
 
到底かなえられないとわかっていてもその希望や目標を達成するために全力で努力した経験。これは誰にとってもその後の人生の糧となる。イギリス人の俳優を追いかけた思い出は、浅野先生にとっては人生で一番懐かしい思い出であったようだ。何度もその話を聞かされた。いつも笑いながら。
 

2021年1月1日金曜日

恩師 3

やんしゅう先生の奥様と性格がよく似た知人がいる。彼女は45歳。二人の子持ちである。結婚後、ずっと東京に住んでいたが子育てのために家族で静岡県に引っ越した。二人の子供は少し障害を抱えているという。ご主人は東京の会社に新幹線で通勤している。
 
彼女の性格を一言で表現すると、前向き。このことは彼女自身も自覚している。活動的である。これとは対照的にご主人は物静か。東大を出ているのにもかかわらず控えめ。目立つことが嫌いだという。時間があれば家事も手伝うらしい。2か月ほど前に久しぶりにご夫婦にお目にかかった。ご主人は少し白髪が目立つようになっていたが雰囲気は以前と同じであった。ご主人にその前にお目にかかったのは栃木県でであった。盆栽の家元のご自宅でお会いした。そのときは上のお子様の乳母車をご主人が押しておられたのを覚えている。
 
彼女とどういうきっかで知り合ったのかは説明のしようがない。というのは、私が懇意にしていた職場の心理治療師が私の診察室に彼女を連れてきたのだ。彼女は私の患者でもなんでもなかった。なぜその心理治療師が彼女を私に紹介したのかは今もわからない。彼女は当時、20歳代半ばであった。ひょっとしたら、その心理治療師は彼女の結婚相手を私に紹介させようとでも考えたのであろうか。
 
その心理治療師の名前は浅野恭子(以下、浅野先生)。浅野先生にはとてもお世話になった。彼女のカウンセリングの技術を私は高く評価していた。仕事を離れて、浅野先生が生きてきた人生を聞くのも楽しかった。
 
彼女は急性膵炎で急死した。
 
浅野先生本人から電話をもらったのは木曜日であった。年は覚えていないが、6月ではなかったかと思う。急に強い腹痛が起きた。これから病院に行くという連絡であった。浅野先生にはその数日後に私の研究班での講演を依頼していた。浅野先生は、講演ができなくなったと言った。
 
浅野先生危篤の連絡が入ったのはその数日後。勉強会が終わり散会した直後であった。私は仲間に電話をかけ、再度集まり、浅野先生が入院している病院に車に相乗りして駆けつけた。その際、上で話した女性にも連絡し、一緒に病院に向かった。
 
病院に着いたのは深夜であったが、病院の職員は私たちを全員病室に案内してくれた。浅野先生は集中治療に入っていた。人工呼吸器が付けられていた。当然、意識は落とされており、会話はできなかった。一緒に行った一人の後輩は浅野先生の浮腫んだ脚をなでながら涙を流した。
 
浅野先生の訃報が届いたのはその数日後であった。浅野先生は独身であった。私たちは葬儀の後に彼女のお姉さまが開いた偲ぶ会に招待された。ささやかな会であった。
 
人の死は身近な人には深い悲しみを与える。しかし私のように単なる職場の同僚にすぎなかった者が20年近く経っても浅野先生の死を悲しんでいることを誰が想像できようか。
 
上述した女性とは最近、めったに会う機会はないが、彼女はFacebookに時々、自身の近況をアップロードしている。昨年、私はFacebookに投稿することをやめた。他の方達の投稿にも「いいね」はつけない。彼女の投稿にもレスポンスしないが、変わりなく元気に過ごしているようだ。彼女は浅野先生の形見のような存在である。