2018年6月15日金曜日

遺産相続 8

2013年6月下旬に父親が二度目の出血性脳梗塞で倒れた翌日、私は高知に帰省した。そして数日間、高知に滞在した。高知滞在中の6月30日に私は姉の家を訪れて姉の家の庭で短時間雑談を交わした。別れ際に私が自分の財布の中を覗き数千円しか入っていないのを見た姉は、私に金を貸そうかと言ってくれた。その翌々日には東京に戻る予定であったし高知滞在中はもう多額の金を必要とすることはあるまいと思った私は、姉から金を借りようかどうしようかと一瞬迷った。しかし、当時、高知にはATMが少なかった。それに私は高知市内の地理にも不案内であった。もし高知滞在中に金を引き出さなければならなくなったら時間がかかるかもしれない。そう考えた私は、姉に金を借りておくことにした。姉は家の中に戻り、再び庭に出てきて私に3万円手渡してくれた。姉は、いつ返してくれとも言わなかった。私は次に帰省する際にその金を姉に返すつもりであった。

ところが、何度も述べたように、その翌日の7月1日つまり私が東京に戻る日の前日、私は姉と姉の長女から母親との絶縁を告げられた。そのため、2週間後、再度高知に帰省した際には、姉に会わないまま東京に戻った。そしてその晩、姉に電話をかけた。父親が死んだ後、父親が所有する不動産を相続したいと思っているかどうかを姉に確認するためであった。田舎では山林や田畑を欲しがる人はもういない。父親が所有している山林や田畑などは誰が相続しても手に余るものであった。もし姉が相続を希望しないのであれば、父親が生きているうちに可能な限り不動産を処分しておかなければならない。東京に住む私とて、高知県内のどこにあるのかもわからない田畑や山林を相続することはできない。不動産を処分するとすれば、両親の介護のために私が度々高知に帰る時期しかなかった。

姉は不動産は要らないと答えた。私は、私が出来る限り不動産を処分するが残ってしまうかもしれないと言った。そして父親が亡くなったときにもし不動産が残っていたならば、姉と私が半分ずつ相続しようと提案した。しかし姉は、不動産は要らないの一点張りであった。母親は身体が不自由だから母親には山林や田畑は相続させられないではないかと私は声を荒立てた。すると姉は、「要らんものは要らん」と言って一方的に電話を切った。姉から借りた3万円のことは話せなかった。

その晩、姉は自分の長女に電話をするとともに、なんとその深夜(正確には、7月16日の午前1時過ぎ)にひとりの従姉に電話をかけて散々私をなじったという。姉がそんな深夜、従姉に電話したことはその数日後に従姉本人から聞かされた。「不動産はやるが銭は一銭もやらん」と私が言ったといって姉は憤慨していたという。その何日か後で再びその従姉と電話で話したときには、「幸伸は金を3万円取って行って返さん!」と言って姉が憤慨していると告げられた。どちらも心外であった。

7月中旬といえばまだ父親が倒れてから2週間余りしか経過していなかった。父親の病状がどうなるかはまだわからなかった。その時点では、父親は数十年以上生き続ける可能性もあった。父親の財産がどれほどあるのかもわからなかった。当然、父親の財産は父親の病気の治療に優先的に使うべきである。父親が倒れてまだ2週間あまりしか経っていない7月中旬の時点で、どうして私が父親の現金や預金の遺産分配について姉と話すことができよう。

私が姉から借りた3万円についても然り。私は姉の金を「取っていった」わけではない。高知に滞在中、少しでも多くの時間を両親の介護に費やしたいと思って姉の厚意に甘えただけである。私は、借りた3万円をそのまま姉に返すつもりはなかった。その頃はまだ、私はまさか本当に姉と姉の家族が私の両親と本当に絶縁するつもりだとは思ってはおらず、両親の介護に際して細々とした雑費も必要になるであろうからと考え、姉に少し多めに金を渡すつもりをしていた。

私は姉の讒言に腹が立ったが、現金書留で10万円姉に送った。しかし姉からは何の連絡もなかった。

三度目であったか四度目であったか記憶が定かでないが、私が再度高知に帰ったとき、姉から両親に送られてきていた絶縁状を母親から見せられた。その絶縁状には、姉が私に貸した3万円を返却してもらいたいということも書かれていた。その絶縁状が正確にいつ両親に送られてきたのかは知らなかったが、手紙の文面からは私が姉に10万円を送る前に届いたのであろうと推測された。

私が姉に送った10万円に関して何の連絡もよこさなかった理由は私が怖かったからであると、後に姉の長女は述べた。その言葉を聞いて、姉と姉の長女は私によほど負い目を感じていたのであろうとしか私には思えなかった。それまでの自分たちの言動が非常識だったことに気づいていたのであろう。そうでなければ私を恐れる理由などない。姉の長女は、私が姉に送った現金封筒に手紙が添えられていなかったので私が怖かったと述べた。私が送った10万円に対して何の連絡も寄越さないような礼儀知らずにそのようなことを言われる筋合いはない。百歩譲って彼女たちが私を恐れる正当な理由があったとしても、それを理由に何をしても逆に何をしなくても許されるとでも考えているのであろうか。姉ばかりでなく姉の長女も全く社会常識のない女である。

遺産相続 7

父親は2011年6月に出血性脳梗塞の初回発作のため数ヶ月間入院した。その際、私は友人の司法書士の勧めで父親と任意後見人契約を結んだ。もし父親の意識がなくなったり父親の判断力がなくなった場合には私が後見人を務めるという契約であった。脳梗塞のためか父親は当時、理解力に乏しく、その契約を結ぶことを嫌がったが、最終的には同意してくれた。

私の姉は、この契約がどのようなものであるのかを全く理解していないようだ。私が父親の財産をどうとでも処理できるようになると思っているようだ。父親がその2年後に二度目の発作で倒れた後、私はその契約にしたがって父親の任意後見人になったが、任意後見人となった私の裁量範囲はきわめて狭いものであった。まず、父親のすべての財産目録を作成して家庭裁判所に提出しなければならなかった。そして全ての入出金を、領収書や請求書を添付して報告しなければならなかった。改葬や不動産の処理に関しては、家庭裁判所の許可が必要であったが、それらの許可をもらうにあたっては、多大な事務処理を必要とした。幸い、後見監督人を務めてくれた私の古くからの友人が改葬許可や不動産処理の許可を家庭裁判所からもらうために骨を折ってくれた。友人のこの協力については以前にも少し述べた。

任意後見人契約を結ぶということは多大な負担を負うことである。任意後見人を務めたことがある者であれば誰でもわかる。単に病院に届け物をするといったことや両親と面会するといった簡単なことではない。私が父親の任意後見人として家庭裁判所から認められたとき、私がまず考えたことは、嫡男として、父親に名誉ある死に方をさせるにはどうすればいいのだろうかということであった。私が実家の掃除や草むしりを怠らなかったのも、嫡男として、父親の名誉を守るためであった。家庭裁判所から許可される必要があったので少額にはなったが、両親の介護を手助けしてくれる人たちにお礼として金を渡したのもそれが理由であった。そして東京から帰省する際には両手にいっぱい手土産買いご近所や親戚に配ったのも、父親に恥ずかしい思いをさせたくないという思いからであった。

しかし、家族に看取られながら死ぬのがやはり父親にとっては最も名誉ある死であろうと考えた私は、なんとしても父親の最期は実娘である私の姉やその子たちに看取ってもらいたいと願った。私が実家で見つけた姉の小学校時代の通知簿や姉の結婚式の写真を姉の夫に届けたのもそういった気持ちがあったからであった。しかし姉は、結局、父親を見舞うことはなかった。父親の最期にも立ち会わなかった。葬式にも参列しなかった。姉は父親の人生を、そして死を汚した。

姉は今、このことについて、心の中で如何なる言い訳をしているのであろうか。

遺産相続 6

姉と姉の長女が、私の一家との絶縁を決断した理由は、私の母親が姉よりも私に多目に遺産を残したいと行ったことが理由であったことは既に書いた。このことを聞かされたのは2013年7月15日の晩であった。姉の長女からであった。この晩、姉の長女とはもうひとつのことで言い争った。

父親が倒れる半年前の2013年1月のこと。帰宅すると現金書留封筒が2通、リビングのテーブルの上に置かれていた。1通は私宛、もう1通は私の家内宛であった。差出人は私の父親であった。どういう趣旨の金であるのかわからなかったが、私の家内はその晩直ちに父親に電話をかけ、礼を述べた。そしてその金は大切に預かり、いつでも返却すると父親に告げた。

父親は私に現金書留を送ったのとほぼ同時期に姉の家を訪れていた。このことは、その直後に姉から直接電話で聞いた。父親が姉の家を訪れたとき、父親が家の外から大声で姉の名前を繰り返し呼んだという。父親と顔を合わせたくなかった姉は頑として玄関を開けなかった。しかしあまりにも長時間にわたって父親が姉の名を連呼するため、ご近所に恥ずかしく思い、止むを得ず玄関の鍵を開けたと姉は言った。ただし、姉は、そのとき父親が玄関で姉に現金を渡したことは私に話さなかった。

父親が姉に現金を渡したことは、その6ヶ月後に父親が入院した後、実家で母親から聞かされた。母親から聞いたところによると、姉は親戚やご近所の人たちに対して「要らない金を押しつけられた。この金は返す」と繰り返し話していたそうである。その一方で、父親にも母親にも一言も礼を言わなかった。そればかりか、両親がかけた電話にも出ず、金も両親に返してはこなかった。父親が倒れる直前、「親と口もきかぬ者には、もう銭はやらない」と言って憤慨していたという。父親が怒ったのは当然である。

姉はすべてにおいてこうであった。姉は、自分の嫁ぎ先が経営する会社が倒産した後、私の両親から多額の援助を受けてきた。それらの援助の大半を姉は自分の夫や子たちに伏せていた。私の両親はそのことを知っていたが、姉が嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしてはいけないと考え、姉の家族には何も告げないでいた。それをいいことに、姉は家族や実家のご近所の人たちに対して、「両親は1円の金もくれない」と言いふらしていた。私もことことを耳にタコができるほど姉から聞かされていた。

話を戻す。2013年7月15日の晩、私と私の家内が父親から送ってもらった現金書留のことが姉の長女との間で問題になった。彼女は、私の家内には金をやる必要はないと頑強に主張した。私は、私と私の家内が受け取った合計金額は彼女の母親つまり私の姉が一人で受け取った金と同額であることを理由に、彼女の主張には合理性がないと言った。しかし姪は理由も告げず、私の家内には金をやる必要がないという言葉を繰り返した。私は腹が立ち、私の家内は我が家の長男の嫁であること、私の家内が受け取った金は私の姉のものでもなくましてや姉の長女のものでもなく父親の金であることを告げ、私の父親の孫である姉の長女が口出しすることではないと言った。それでも姉の長女は納得しなかった。姉の長女が尋常でない憎しみを私の家内に対して抱いていることを私は知った。おそらく彼女が私の家内に対して抱いている憎しみは、私の姉の影響であろうと思った。

私は、私の母親の実家から経済的援助を受けることなど想像したことすらない。母親の実家の遺産を母親が相続し、それを私がもらうといったことも考えたことすらない。姉の長女は、自分の母親の実家からの経済的援助を当然のことだと考えてきたようだ。その後の彼女の言動からは、自分の母親が相続する実家からの遺産を彼女が相続することまで想像していたのではないかと思わざるを得ない。情けない姪である。卑しい。

2018年6月13日水曜日

又従姉妹 1

2013年6月に父親が倒れて亡くなるまでの8ヶ月間は、精神的にも肉体的にもとても辛い時期であった。父親を追うようにして母親も入院した。ふたりの介護をするには、帰省したときにはどうしても平日に最低1日は高知に滞在しなければならなかった。週末には市役所も銀行も閉まっており、何の事務手続きもできなかった。したがって必然的に土曜日、日曜日、月曜日と2泊3日で帰省することが多くなった。

土曜日と日曜日には、実家を訪れ、天気がよければ家の窓を開け布団を干した。庭の草むしりも欠かさなかった。夏には汗まみれ泥まみれになった。しかし実家をきれいに保つことは両親に対する私の責務であると考えた。実家では、倉庫に山のように積み上げられていた農機具などの始末もせねばならなかった。自宅にあった重要書類も急いで整理する必要があった。家庭裁判所に父親の財産目録を一日も早く提出しなければならなかったからだ。

実家に母親が住んでいる時期には母親と雑談しながらそれらの作業を行うことができたので気が紛れた。しかし母親は父親の後を追うかのごとく1ヶ月半後に腰椎圧迫骨折のため入院した。母親が入院した後は、実家に帰っても会話を交わす人はいなかった。私は一人、黙々と実家の清掃と書類の整理を続けた。このような孤独な作業の最中に古いタンスの引き出しに仕舞われていた私と私の姉の小学校時代の通知簿を見つけたときには驚いた。通知簿は紫色の風呂敷の中に入れられていた。風呂敷を紐解くと、当時のままの通知簿が出てきた。
 
私はこれらの通知簿を破棄する気持ちにはなれず 、姉の通知簿を姉の夫(私の義兄)の勤務先に届けた。その日、義兄は出勤しておらず、義兄の同僚に通知簿を入れた包みを託した。その通知簿の入った包みを見て、姉が両親の愛情に気づいてくれることを願った。私自身の通知簿は東京に持ち帰った。

ただ、私が最も多く時間を取られたのは、田畑と山林の処分であった。両親が所有していた土地は50筆近くあった。それらの殆どの正確な場所も境界もわからなかった。場所も境界もわからなければ処分はできない。私は実家のご近所の人たちを頼って田畑や山林の場所と境界を教えてもらった。ただ、市役所でコピーした切り図と実際の区割りとが違っており、誰も正確な境界がわからない田畑も少なくなかった。田畑を荒らすと隣りの田畑を所有する農家に迷惑がかかる。そのため、東京では、時間を見つけてはインターネットで田畑を管理してくれる人を探した。しかしそのような人は見つからなかった。私は途方にくれた。

そんな私に手を差しのべてくれる人がいた。私の又従姉妹であった。彼女とは小学校から高校まで同じ学校に通った。彼女は、私が少しでも長い時間両親のそばにいられるようにと、高知空港のそばにある駐車場を貸してくれた。そればかりか、私が高知に帰る際には、予め車を空港の駐車場まで届けてくれた。そして私が東京に戻る際には車を空港の駐車場に乗り捨てて置くようにと言ってくれた。私は彼女の行為に甘えることにした。

彼女がこのような申し出をしてくれたのには理由があった。 彼女は自分の人生の進路を巡って父親と衝突することが多かったという。女性は大学進学も不要であると彼女の父親は彼女に行ったという。彼女は父親の反対を押し切って1年浪人した後、薬学部に入学した。今も薬剤師として働いている。また、彼女が離婚したときにも父親と大ゲンカしたらしい。彼女ははっきりとは言わなかったが、彼女の話からは、彼女の父親の存命中には何度か絶縁状態に陥ったこともあったのではないかと私は思った。

しかし彼女の父親が脳出血で倒れた後は、彼女は懸命に父親の介護をした。父親が入院したときには1日も欠かさず仕事を終えた後、病院を訪れたということであった。片道1時間を要した。彼女は、父親の側に行ってあげることが最大の親孝行だと考えたという。私の父親が倒れたとき、彼女が私のためにいろいろと便宜を図ってくれたのも、私が少しでも長い時間、父親の側にいてあげられるようにという配慮であった。嬉しかった。「棄てる」神あれば拾う神あり。

一方で、何の力もなくなった最晩年の両親を見捨てた姉を救う神はいるだろうか。

2018年6月12日火曜日

遺産相続 5

姉と姉の長女が私の母親と一方的に縁を切った理由は、私の母親が私の方に多目に遺産を残したいと言ったことが理由であったことはすでに書いた。姉の長女(つまり私の姪)から絶縁の理由を聞かされたとき、私は驚いた。私は遺産相続については母親ばかりでなく他の誰とも話したことがなかったからだ。しかし母親の考えは理解できた。

姉には4人の子がいるが、彼らは私の両親からの援助もあって既に全員が大学を卒業し社会人になっていた。4人の子のうち上のふたりは既に結婚して子もいた。その一方で、私の一人息子はまだ中学生であった。両親が亡くなれば、長男である私が実家の建物ばかりでなく田畑や山林の始末もしなくてはならない。田舎の田畑や山林は誰も欲しがらない。タダでも受け取らない。加えて我が家の墓も移す必要があった。両親が死んだ後、私は多額の金が必要になる。姉よりも私に遺産を多目に残すことによって両親の死後の整理を私に頼もうというのが母親の意図したことであろうと私は考えた。

私はその推測を姪に告げた。そうしたところ、姪はいきなり「外孫と内孫を差別することは許さん!」と怒り出した。私は呆れた。私の両親から姉の子たちはどれほど多額の援助を受けてきたのかを忘れたのであろうか。これに対して、当時はまだ中学生であった私の息子には何もしてやれないまま両親は死んでいく。どれほど父親も母親も気がかりだったことだろう。

私は姪に対して次のように言った。「お前ら4人はおじいちゃんとおばあちゃんのお蔭で大学も出て社会人になった。それに引き換え、私の息子は中学生だ。まだおじいちゃんとおばあちゃんには何もしてもらっていない。そのことだけでもおばあちゃんが私に多目に遺産を残したいと言ったとしても当たり前のことじゃないかえ。」

しかし、姪は、「外孫と内孫を差別することは許さん!」と繰り返すだけであった。怒りがこみ上げてきた私は続けて次のように言った。

「じゃあ、私の一人息子が百万円もらったらお前たちは四百万円もらわないと納得しないということかえ?」

この私の問いかけに姪は返事をしなかった。

最近、このときの姪との会話について家内と話した。外孫である姪たちがあれほどまで多額の援助を受けたのだから内孫である私の息子は更に多額の援助を私の両親から受けてきたに違いないと邪推していたのではないかというのが私の家内の考えであった。そうだったのかもしれない。

金に執着する者は哀れである。金の奴隷でしかない。

遺産相続 4

私は、母親よりも父親のことを思い出すことが多い。「思い出す」というよりも「考える」ことが多い。なぜだろうかと時々思う。おそらく、母親の最晩年があまりにも寂しいものであったため、母親が亡くなって3年近く経った今でも思い出すのが辛いからであろう。

父親は2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れて緊急入院した。母親は一人暮らしとなった。一人暮らし自体は母親にとっては寂しくはなかったようである。ご近所の方が母親と同居して母親をお世話してあげようかと言ってくれたことがあった。私は身体が不自由で歩くこともまままらない母親に一人暮らしさせることが心配で、そのご近所の方の申し出を母親に伝えた。しかし母親は頑としてその申し出を拒否した。母親は、「寂しくなんかない。今が人生で一番幸せだ」と言った。結婚以来、ずっと夫である私の父親に受けてきた圧迫からやっと解放されて幸せだということであった。

しかし母親は、程なくして娘(私の姉)と孫(姉の長女)から送られてきた絶縁状を読み、愕然としていた。母親は、私の姉と話そうと、繰り返し繰り返し電話した。何度電話しても電話は通じなかった。

母親が絶縁状を受け取る3週間ほど前の2013年7月1日に、私は私の姉と姉の長女から、母親と縁を切るということを告げられていた。しかし私は母親が酷くてそのことを母親に告げることができなかった。結局、このことは母親が死ぬまで話さなかった。

姉と姪が母親との縁切りを私に告げたとき、私はそのことをあまり重大には捉えていなかった。またすぐ仲直りするだろうという程度にしか考えていなかった。ただ、なぜ父親と縁を切るとは言わず母親と縁を切ると言ったのかは不思議だった。姉は父親を激しく憎悪していたが、それ以上に母親を憎んでいるとは知らなかった。

なぜ姉と姪が私の母親と縁を切ったのかは、2018年7月15日の番に私が姪と電話で話した際にわかった。いつことだったのかは聞かなかったが、私の母親が娘である私の姉よりも私に多目に遺産を残したいと言ったことが許せないと姪は言った。私は父親とも母親とも遺産相続について話したことは一度もなかった。ただ、姉は、両親の遺産を一日も早く相続したがっていた。そのため、私と電話で話す際には、必ず「祖父は早く死ね!」といった言葉を口にした。私の父親はちっとも金をくれないが、父親が死ねば遺産を手にすることができると姉は考えているようであった。私は「父親が生前に金を使わなければその分遺産が多くなるのだから、早く死ねなどと言う必要はない」と姉を諭したが、姉のくちぶりからはすぐにでも金が欲しいようであった。

父親は遺言状も残さずにほぼ意識がなくなった。父親には意志表示能力はない。後は母親だ。母親は私の姉よりも息子である私に遺産を多く残したいと言った。母親と縁を切り一切母親の介護はせず、母親を懲らしめなくては。ふたりはきっとそう考えたのであろう。

愚かであった。単なる欲のために親と縁を切ることが後にどれほど心の重荷となるのかを彼らは理解できなかったのだ。


2018年6月9日土曜日

人を動かすもの 1

人の行動を支配するのは嫉妬と憎しみであると主張する人がいる。この考えもあながち間違っていないと実姉との確執の過程で感じた。私の姉の行動を支配しているのは、まさに嫉妬と憎しみであるように思う。

ただ、嫉妬と憎悪に狂っている人が客観的に見て不幸かといえばそうではないことが多い。私の目には、姉も客観的には人並み以上に幸せな環境の中で生きてきたのではないかと映る。姉は長年病気を患っており、「床に伏していることが多い」と姉本人から聞かされたことがあるが、その病は自ら引き寄せたものである。

確かに、これまでの姉の人生の中で不幸な出来事がなかったわけではない。一番不幸だったのは、両親の不和である。父親は他人に対しては実に温和であった。父親が家族以外の者に対して声を荒だてたり暴力を振るったりといったことは一度もなかった。対照的に家族には厳しかった。母親や祖母にはすぐに暴力を振るった。このことは、これまでに何度も書いた。父親の暴力に耐えかねて、私は高校2年生のときに寮生活を始めた。姉も高校を卒業して2年足らずで結婚して家を出た。ただ、高校卒業と同時に東京に出てきた私と違って、姉は嫁いだ後も両親の喧嘩を身近で見聞きせざるをえなかった。父親に殴られて顔を大きく腫らし血を流している母親が姉の嫁ぎ先に逃げてきたこともあったという。    

私が留学中には、嫁ぎ先が経営していた会社が倒産し、姉の家族は家を失って借家住まいとなった。会社が倒産した後は、嫁ぎ先の親族や自分の夫との関係も壊れがちになったという。夫とは罵り合う毎日だったようだ。私の父親も家を失った姉に対して「乞食以下である」といった言葉も投げつけたという。まだ幼かった4人の子を抱え、姉は途方にくれる毎日を送っていたことであろう。

ただ、子は必ず育つ。最小限の食べ物と親の愛情がありさえすれば十分である。子は金を食べて育つわけではない。私の両親の援助もあって、姉の4人の子は全員国立大学に進学し無事卒業した。 

姉は口を開けば父親を罵った。「早く死ね!」といった言葉も度々口にした。しかし父親が姉を悪く言う言葉を私が聞いたことは一度もなかった。父親は常に姉と姉の家族のことを心配していた。

父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れた直後に姉と姉の長女は、私の家族との絶縁を一方的に告げてきた。姉と長女は私の母親と絶縁すると私に告げた。そしてその直後に父親と母親に対して絶縁状を送ってきた。私は直接絶縁を告げられたことはないが、実家のご近所の人に対して私とも縁を切ると告げたという。

父親は入院の8ヶ月後に亡くなった。父親が入院してから1ヶ月半後に腰椎の圧迫骨折のために入院した母親も、父親の死から1年5ヶ月後に亡くなった。この時期、私は度々帰省して両親の世話をした。土曜日の始発便で東京を発ち、月曜日の最終便で東京に戻った。いつもリッチモンドホテル高知に泊まった。このホテルの方すぐそばで日曜市が開かれる。日曜市で馴染みになった人たちと雑談を交わすのが唯一の気休めであった。高知での滞在中、姉にも姉の家族にも連絡したことは一度もなかった。

いま振り返ると、父親と母親の介護のために東京と高知とを行き来した2年あまりは私にとって貴重な体験であった。父親はほとんど意識がないように見えた。しかし少なくとも亡くなる3ヶ月前まで私がベッドサイドに来ていることに気がついていたようだ。父親が返事をすることはなかったが、私は改葬や田畑の処分状況について報告した。このときの父親との感情のやり取りはそれまで経験したことのないものであった。まもなく人生を終えようとしている父親を見つめながら、私は父親からの愛情を感じるとともに私も父親に対して心から感謝した。姉も、両親の最晩年の姿を身近で見ておくべきであった。おそらくそれまで抱いていた両親に対する憎しみも怒りも消え去り、長年の苦しみから解き放たれたであろう。親からの愛情に気づくことが姉にとって最良の薬となったはずである。

両親の最晩年の人生から目をそらした姉は立ち直る機会を自ら放棄した。放棄した最も大きな理由は、私と私の家内、特に私の家内に対する嫉妬と猜疑心であった。私と結婚後、波乱のない人生を送ってきた私の家内に対する激しい怒りであった。姉の長女と最後に話したとき、彼女の言葉の端々から姉と彼女の私の家内に対する憎しみが伝わってきた。父親が倒れたとき、父親の命が長くないと感じた姉と彼女は、私の家内に対する最後の復讐の機会だと感じたのであろう。私と私の家内に両親の介護の負担を担わせることによって復讐しようとした。大きな誤りであった。私の家内は、私の両親の介護を長男の嫁の当然の責務と考え、立派に責任を果たしてくれた。そして私と私の家内は、両親の最期を看取ったことに誇りを持つことができた。

これに対して姉が失ったものはあまりにも大きかった。