2018年5月1日火曜日

任意後見人

もみの木病院に入院した父親の容態は私が帰省するたびに悪化していった。私は、司法書士の友人の力を借りて家庭裁判所に任意後見人の申請を行い、家庭裁判所内で面接審査を受けた。面接の担当官は女性であった。残念ながら、その面接担当官から話されたことも私が担当官に話したことも、ほとんど覚えていない。ただ、その担当官は、面接のあと父親が入院しているもみの木病院に足を運び、自分の目で父親の病状を観察してくれた。

私が家庭裁判所から任意後見人に指名され高知駅近くにある法務局で登記事項証明書を受け取ったのは2013年9月中旬であったように思う。9月上旬であったかもしれない。その登記事項証明書を持参すれば、市役所でも銀行でも、本来父親本人でなければできない手続きができるはずであった。ところが、そうはならないことが多かった。登記事項証明書がいかなる書類であるのかを知らない窓口の担当者が少なくなかったからである。登記事項証明書を持参するようになった後も、銀行の窓口で長い時間待たされることが珍しくなかった。

市役所や銀行に出向かなければならないときには、私は平日、仕事を休まねばならなかった。任意後見人に指名された後は、土曜日の始発便で羽田を発って高知に帰り、月曜日の最終便で東京に戻ることが多くなった。月曜日には朝食も昼食もとる時間がなかった。月曜日には市役所や銀行を回るだけでなく、父親の不動産の処理をするために行政書士の方や土地家屋調査士の方々と打ち合わせをしたりしなければならなかった。天気がいい日には実家の掃除もせねばならなかった。父親にも母親にもとても申し訳なかったが、両親を見舞う時間は極端に少なかった。東京に戻る日には、高知龍馬空港その日のはじめての食事をとることが珍しくなかった。重い荷物を抱えて高知から東京の自宅に戻ったとき、私の顔は青ざめ、唇も白くなっていたという。

土佐市民病院

2013年6月下旬に父親が2度目の出血性脳梗塞で倒れたことを知らされたとき、私は、「ああ、最も恐れていたことが起きた」と、暗澹たる気持ちに陥った。主治医は、父親の意識は2日以内になくなるので大急ぎで親族を呼ぶようにと言ったという。

喫緊の問題は、父親の治療費をどうやって捻出するかということであった。2011年に父親が初回発作で入院した際、司法書士の友人の勧めで、父親にもしものことが起きたときに備えて私は父親と後見人契約を結んでいた。私は、父親が倒れた日の夜、その司法書士の友人に電話をかけて相談した。友人は、任意後見人申請のための診断書を主治医に書いてもらうようにと言い、その書類を私にファックスで送ってくれた。

父親が倒れたのは木曜日であった。その週末は主治医は出勤しないかもしれない。早めに診断書をお願いしておいた方がいい。そう思った私は、父親が入院している病棟に電話をかけて事情を話し、書類をファクスで送った。

ところが、このことが翌日、物議をかもすことになった。

私が父親が入院した病院に着いたのは、翌日の昼前であった。病棟のエレベータを降りて父親の部屋に向かっていると、その病棟の婦長から呼び止められた。主治医が私に話したいことがあるから、ナースステーションに入ってくれという。私は婦長に導かれてナースステーションに入った。そして婦長に勧められた椅子に座った。

数分後に主治医が現れた。その主治医はとても興奮していた。主治医は、私の前に座ると、父親の病状については一言も話さず、私が送った書類はどういうつもりなのかといきなり大声で怒鳴り始めた。私はあっけにとられた。私は、直ちにその診断書を書いてくれるようにと依頼したわけではなかった。父親は2日以内に意識がなくなると言われていたので、そのときに備えて私が高知に滞在中に主治医に診断書を預けておこうと思っただけであった。その主治医は私に「お父さんの病状をみたのか!」と大声で言った。私は病室に行く前に婦長に呼び止められてナースステーションに入った。父親の病状を自分で観察しているはずがなかった。主治医の発言の真意を測りかねた私は、単に「いいえ、まだ」と答えた。主治医は、任意後見人申請用の診断書を書く必要があるほど父親の病状は悪くないと言いたかったのか。私には皆目わからなかった。

主治医は頭ごなしに私を怒鳴りつけると、いきなり席を立ってナースステーションから出て行った。私は、椅子に座ったまま、主治医が戻るのを待った。なかなか主治医が戻らないので、ナースステーションの看護師に、どれほど待てば良いのかと尋ねた。その看護師は主治医に電話してくれた。そして20分ほど待つようにと言った。

主治医は何も言わず席を立った。こんなことは東京では許されない。

私は主治医が戻るのを待たず立ち上がり、ナースステーションを出た。そして父親の部屋を訪ねた。

父親は完全には意識がなくなっていなかった。しかし目を開けることはなく、ただ、「頭にズンときた」と言ったことを独り言のように繰り返し喋った。

私は、父親を転院させることにした。その日のうちに高知市内のもみの木病院に救急車で搬送父親を搬送した。結局、土佐市民病院では父親の病状については、一言も説明を受けられなかった。

バラギ湖

昨日は、北軽井沢の行きつけのカフェレストランで昼食を摂ったあと、バラギ湖にまで足を伸ばした。絶景であった。












2018年4月29日日曜日

軽井沢 佐久市 蓼科

きょうは格好のドライブ日和であった。












軽井沢 雲場池

昨夜、軽井沢に出かけてきた。今月、4回目である。きょうは清々しい天気である。改修作業が終わり、つい先日、一般に再開放された雲場池を訪れた。





2018年4月26日木曜日

高知市 もみのき病院

2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れた父親は、高知市内のもみのき病院に入院した。急性期の治療を終えたあとは、「すこやかな森」というリハビリテーション施設に転院することになっていた。

もみのき病院に入院して2ヶ月ほど経過した2013年8月下旬に、父親が入院している病棟の看護師から電話がかかってきた。その週の金曜日に父親がすこやかな森に転院するという知らせであった。転院にあたっては病棟の看護師が私の父親に付き添うが、家族も来院してもらいたいと依頼された。しかし毎週金曜日は私の外来診療日。しかもその日の午後には手術も予定されていた。そのため、父親の転院を1日遅らせて土曜日にしてくれないかと私は頼んだ。しかし、どうしても金曜日にもみの木病院を退院してすこやかな森に転院してもらいたいと、その看護師は言い、私の願いは聞き入れられなかった。しかも、すこやかな森に転院しても、最長3ヶ月しかその施設にはいられないとのことであった。

東京と高知とは遠い。大学病院に勤務する医師である私が、東京と高知とを往復しながら父親と母親二人の介護をすることは容易ではなった。私は長期にわたって父親を受け入れてくれる施設を探した。知人が長く勤めていた土佐市内の「白菊園」という施設に電話をかけ、直接院長に入院を依頼した。院長は穏やかな口調で快く父親の長期入院を認めてくれた。ただし、白菊園では、一旦、父親がすこやかな森に入院したならば、永久的に父親を引き取れないと言われた。

当時、母親も別の病院に入院していた。3ヶ月後に父親の転院先を再度探すのは無理であった。白菊園に父親を入院させる以外の選択肢は、当時の私にはなかった。

私はもみの木病院に電話し、父親はすこやかな森ではなく白菊園に転院させたい旨を伝えた。すると、電話に出た看護師は、「すこやかな森に転院しないのであれば、お父さんにうちの病院の看護師は付き添わず、一人でタクシーに乗せ白菊園に一人で行ってもらいますよ」と言った。

その頃、父親はほとんど意識がなくなっていた。左半身も完全麻痺の状態であった。こんな父親が一人でタクシーに乗って転院などできるはずがないではないか。

白菊園では院長を交えていろいろと討議してくれたようだ。白菊園の病棟の看護師長がもみのき病院まで足を運んでくれ、父親の病状を観察してくれた。到底、一人では転院できないと判断した白菊園側が、その週の金曜日に父親をもみの木病院まで迎えに行ってくれることになった。

ありがたかった。

ただ、高知県内には「系列」という患者には見えないバリアがあることを、父親の転院騒ぎを通じて知った。患者にはうかがい知ることのできないこのバリアにその後も何度か翻弄されることになるとは、このとき、私はまだ気づいていなかった。

80歳まで、あれほどまで懸命に働き続けた父親が受けたぞんざいな扱いに、私は一人泣いた。

2018年4月24日火曜日

母の思い出 2

国立高知病院に緊急入院した母親を数日後に見舞ったとき、母親はナースステーションの隣の部屋に寝かされていた。ナースステーションと母親のベッドとの間には扉がなく、母親の状態はナースステーションから常に観察できるようになっていた。

母親はまだ激しい痛みを訴えていた。鎮痛剤を頻回投与しても痛みが取れないようであった。苦しそうであった。母親は激しい痛みに苦しみながら、私にあることで強い怒りをぶつけた。

母親が緊急入院した当初、母親はたびたびナースコールボタンを押したらしい。度重なるナースコールに耐えかねたのが原因だったのかもしれないが、母親は何日間か、真っ暗でナースコールボタンもない部屋にひとり閉じ込められていたというのだ。母親は病院に対して激しく怒っていた。いずれ、このことを病院に訴え出ると言った。

私は、機会があれば、このことについて国立高知病院の管理者に事情を訪ねようと思っていた。しかし、結局、その機会が訪れることはなかった。