2013年6月下旬に2度目の出血性脳梗塞で倒れた父親は、高知市内のもみのき病院に入院した。急性期の治療を終えたあとは、「すこやかな森」というリハビリテーション施設に転院することになっていた。
もみのき病院に入院して2ヶ月ほど経過した2013年8月下旬に、父親が入院している病棟の看護師から電話がかかってきた。その週の金曜日に父親がすこやかな森に転院するという知らせであった。転院にあたっては病棟の看護師が私の父親に付き添うが、家族も来院してもらいたいと依頼された。しかし毎週金曜日は私の外来診療日。しかもその日の午後には手術も予定されていた。そのため、父親の転院を1日遅らせて土曜日にしてくれないかと私は頼んだ。しかし、どうしても金曜日にもみの木病院を退院してすこやかな森に転院してもらいたいと、その看護師は言い、私の願いは聞き入れられなかった。しかも、すこやかな森に転院しても、最長3ヶ月しかその施設にはいられないとのことであった。
東京と高知とは遠い。大学病院に勤務する医師である私が、東京と高知とを往復しながら父親と母親二人の介護をすることは容易ではなった。私は長期にわたって父親を受け入れてくれる施設を探した。知人が長く勤めていた土佐市内の「白菊園」という施設に電話をかけ、直接院長に入院を依頼した。院長は穏やかな口調で快く父親の長期入院を認めてくれた。ただし、白菊園では、一旦、父親がすこやかな森に入院したならば、永久的に父親を引き取れないと言われた。
当時、母親も別の病院に入院していた。3ヶ月後に父親の転院先を再度探すのは無理であった。白菊園に父親を入院させる以外の選択肢は、当時の私にはなかった。
私はもみの木病院に電話し、父親はすこやかな森ではなく白菊園に転院させたい旨を伝えた。すると、電話に出た看護師は、「すこやかな森に転院しないのであれば、お父さんにうちの病院の看護師は付き添わず、一人でタクシーに乗せ白菊園に一人で行ってもらいますよ」と言った。
その頃、父親はほとんど意識がなくなっていた。左半身も完全麻痺の状態であった。こんな父親が一人でタクシーに乗って転院などできるはずがないではないか。
白菊園では院長を交えていろいろと討議してくれたようだ。白菊園の病棟の看護師長がもみのき病院まで足を運んでくれ、父親の病状を観察してくれた。到底、一人では転院できないと判断した白菊園側が、その週の金曜日に父親をもみの木病院まで迎えに行ってくれることになった。
ありがたかった。
ただ、高知県内には「系列」という患者には見えないバリアがあることを、父親の転院騒ぎを通じて知った。患者にはうかがい知ることのできないこのバリアにその後も何度か翻弄されることになるとは、このとき、私はまだ気づいていなかった。
80歳まで、あれほどまで懸命に働き続けた父親が受けたぞんざいな扱いに、私は一人泣いた。
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