2011年6月7日火曜日

最後の上京

昨年、私の母親は3回、私が勤務する慶應病院に入院した。その度に父親が付き添ってきた。両親が利用するのはいつも夜行バスであった。高知ー東京間は11時間かかる。長旅である。

両親が住む高知では、東京では当たり前と思える治療を受けることができない。医療水準が低い。よりによって私の母親は高度の医療技術を必要とする病気に何度も罹患した。どうにも困ってしまって慶應病院で治療を受けることになったこともある。数年前には整形外科に3回ほど入院。そして昨年は泌尿器科に入院した。

昨年の夏、母親が退院し高知に帰る際、私は両親を夜行バスの停留所まで送っていった。母親は歩行器なしでは歩けない。私は停留所のすぐ傍に車を停めて父親とふたりで母親を後部座席から降ろした。そして急いで運転席に戻り、車を駐車場に停めた。

悲しかったのは、母親を車の後部座席から降ろしている最中、小田急バスの交通整理係の若者から「ここは駐車禁止です。車をどけてください」と大声で注意され続けたことだ。母親の姿を見ればその場所に車を停めざるをえないことは一目瞭然ではないか。それに私が車を停めた場所にバスが入ろうとしていたわけでもなかった。

駐車場に車を停めて停留所に急いで戻ると、母親は地下道への入口のコンクリートに座り込んでいた。冬ではなかったので腰が冷えることはなかったであろうが、身体が不自由な年老いた母親が腰を丸めながら屋外でバスの到着を待つ姿を見るのは、息子の私にとって辛いことであった。私が幼い頃、母親はよく私と私の姉の二人を同時に背負ってくれた。もう50年も前のことである。

高知行きのバスが到着した。両親は乗客の列の最後尾に並んだ。やっと立っている母親を私と父親が支えた。「どうぞお先に」と行ってくれる乗客はいなかった。両親は最後にバスに乗り込んだ。

母親は脚をあげることができない。私は母親の足首を両手で左右交互につかんで一歩一歩バスの階段を上らせた。上体は父親が抱えた。

なんとか母親をバスに乗せることができた。そして私だけバスから降りた。振り返り、両親の姿を探そうとバスを見上げた瞬間、私はなんとも表現できない悲しみに襲われた。両親が上京するのはこれが最後だろうという思いが急に込み上げてきたのだ。

バスは静かに出発した。そして間もなく新宿駅前の雑踏の中に消えた。バスが見えなくなった後も私はしばらく停留所にぼうっとしながら立っていた。

「両親が上京するのはこれが最後」

ちょうど1週間前に父親が脳梗塞になり、私のこの予感は現実のものとなった。

2011年6月6日月曜日

帰省と介護

6日前(先週の火曜日)の昼、私は汐留のオフィスに勤めている友人と新橋駅前で会って話をしていた。彼との話はいつも家族や親戚のこと、そして高校時代の友人の近況。

そろそろ席を立とうかと思い携帯電話を見ると、父親からの電話の着信履歴があった。2回かかってきていた。

私は喫茶店から道路に出て父親に電話をかけた。すぐに父親は電話に出た。父親が病院に来ていることはわかった。しかし要領を得ない。代わって出てきたのは姉であった。父親の具合がわるくなり診察を受けていたところ、突然、診察医の目の前で訳がわからなくなったという。「訳がわからなくなる」ということの意味は不明であったが、おそらく頭が朦朧としたのだろうと推測した。

短時間ではあったが父親と話し、父親が失語症になっていることはわかった。脳梗塞が起きたのだろうと推測した。

学会があったため私は直ちに帰省することができなかった。結局、金曜日の夕方、学会会場から直接羽田空港に向かうことになった。学会会場から羽田空港までは徳島に住む友人がいっしょであった。早めについたので彼のお勧めの喫茶室でお茶をしながら時間を潰した。

そうこうしているうちに上述の友人も羽田空港に到着。その徳島の友人と別れ、彼といっしょに高知に帰ってきた。彼は入院している父親の看病のために2週間に1回、東京から高知に帰省している。

いつもは高知空港まで父親が迎えに来てくれる。しかし今回は誰も迎えに来てくれない。彼も然り。私たちは1台のレンタカーを借りることにしていた。まず、彼の家に行くことにした。彼の家は国道から分かれて狭いつづら折りの道を登った山の中腹の寒村にある。車で山を登る途中、小さな温泉があり光が見えた。しかし光はそれだけであった。彼の家の両隣には民家があるが、いずれの家からも光は漏れてこなかった。1軒の家は既に空家になっているということであった。あたりは真暗。私は彼が家の玄関の電灯をつけるまで待った。家が明るくなるのを確認して彼の家の前を離れた。

実家に着いたのは午後10時を過ぎていた。家にはまだ電燈が灯っていた。玄関のドアを開けて「ただいま」と言うと、「おかえり」という女性の声が返ってきた。しかし聞きなれない声であった。姉であった。姉とは数年間会っていなかったが、声が低くなっていた。私はてっきり父親と母親しかいないものと思っていたが、父親が病気になった日からずっと実家に泊まってくれていたのであった。

私の母親は長年、慢性関節リウマチを患い、手も足も大きく変形している。右の肘関節には人工関節が入っている。数年前には頚椎骨折のため四肢麻痺になるとともに意識も朦朧となり生死をさまよった。歩行器を使えばなんとか歩くことができるまでには回復したが、これ以上の回復は望めない。

こんな母親の介護は年老いた父親がすべてやってくれていた。その父親が脳梗塞になった。四肢の麻痺はないが、自分の名前すら書くことができない。このような状態では銀行から預金を引き出すことも自分ひとりではできない。運転も医師から禁じられた。田舎では車がないと何もできない。食べ物さえ買いにいけない。

こんな両親を置いたまま、私はきょうの午後、東京に戻らなければならない。当座は県内にすむ姉と姉の長女(私の両親の外孫)がなんとかしてくれると思うが、長期的な介護をどうするか。母親はこの家からは出たくないと言う。「頚の骨が折れた時になぜ死ななかったのだろう。あの時に死んでいればよかった。」この言葉を何度母親から聞かされたことか。身体の自由が利かず一日ごとに年老い、将来への希望を持たない高齢者に共通する心の中からの叫びかもしれない。

2011年5月15日日曜日

幼友達の死

ちょうど一週間前の朝、父親から電話がかかってきた。私の実家の西隣に住む幼友達が亡くなったという知らせであった。

彼は長い間、肝硬変を患っていた。アルコール性の肝硬変であった。数年前には危篤状態に陥ったこともあった。なんとか持ち直したものの、ほとんど家から出ることはなかった。だから昨年の正月、実家近くの氏神様に初詣でに出かけた際に彼の姿を見かけ驚いた。なんと彼は同じ部落に住む人たちと酒を酌み交わしていた。彼は私に向かって笑いながら「もう死なんで!」と言った。私は彼に「お酒は飲まん方がえいで」と忠告したが、彼は私の忠告を気に留めようともしなかった。

それから1年後。今年の正月に彼の家に新年の挨拶に行った。彼は笑顔で私を迎えてくれた。短時間話しただけであったが、元気そうに見えた。

この幼友達は私の隣に住んでいたこともあり、私が中学校に進学するまではよく一緒に遊んだ。当時、彼はめったに笑顔を崩すことがなかった。いつもにこにこしていた。彼の姉は自己主張と自己顕示欲が強かったから、彼の人柄は一層温厚に思われた。

私はこの幼友達を羨んでいた。まず、彼の家庭は私の家庭よりもはるかに裕福であった。少なくとも私の目にはそう見えた。そして彼は父親によく遊んでもらえた。

しかし、成人した後の彼の人生は幸福には見えなかった。彼は地元の工業高校を卒業したあと就職したが、定職についてじっくりと仕事をすることはほとんどなかったように思う。彼の父親も若くして交通事故で亡くなった。結婚生活にも恵まれず、離婚。子もいなかった。

彼がアルコール漬けの生活を送るようになったのも無理からぬところがあったと思う。

彼の家には年老いた彼の母親ひとりが残された。彼の家は遠からず廃屋になる。私の実家の東隣は既に昨年から空家になっている。我が家も両親が亡くなれば廃屋になるであろう。

2011年5月1日日曜日

軽井沢

今年初めて軽井沢に出かけた。10数年前から、ゴールデンウイークには、私は家族と一緒に必ず軽井沢にでかける。

自宅を出たのは4月29日の午後10時過ぎであった。着いたのは30日の午前0時10分。高速道路の渋滞に巻き込まれることなく、ちょうど2時間で軽井沢に到着した。気温は2℃。東京よりも15度以上気温が低かった。電気毛布を敷いて、その晩は、すぐに寝た。

翌朝目覚めたのは午前7時。家族が起きぬ間にと思って7時30分に起き出し、締切が過ぎている依頼原稿の執筆にとりかかった。4月29日の昼間にほぼ原稿は書き上げていたが、一晩寝ると気分が変わっており、結局、大幅に書き直すことになった。昨年秋に新しく開店した、私たちの別荘近くのレストランで昼食。その後、再び執筆作業にとりかかった。原稿が仕上がったのは午後4時。直ちにメールで出版社に原稿を送った。約1万2千字。原稿用紙30枚。曇天であったこともあり、すでに外は薄暗くなり始めていた。私は息子と一緒に近くの書店に出かけて40分ほどその店で過ごした。

夕食はチゲ鍋。料理に手間がかからないから軽井沢では毎日のようにチゲ鍋ばかり作る。夕食を済ませた後は、アイススケートの世界選手権をテレビで観戦。安藤美姫は気合いのこもった演技で金メダル。しかし浅田真央の演技には全く精彩ががなかった。上の空で滑っているように見えた。

きょうの午前中はテレビ。日曜日の午前中は、毎週、NHKの将棋講座とNHK杯を観る。NHK杯の対局が終局に近づいたとき、iPhoneが鳴った。北尾まどかさんからのMMSであった。四国で開かれる催し物に招待されて東京を発つと書かれていた。彼女の活動がある雑誌に掲載されることも、添えられていた写真から知った。彼女は将棋の女流プロ二段。一昨年、NHKの将棋講座のアシスタントを務めていた。どうぶつしょうぎの発明者でもある。彼女の夫は、同じく将棋プロの片上大輔六段。

私の大学時代の後輩が、片上六段と北尾女流二段のサポータになっている。私も彼に頼まれて、一昨年の暮れ、北尾女流二段を応援する会の会員になった。以来、片上・北尾ご夫妻とは1年に何回か話す機会がある。

昨年の夏には、この私の大学時代の後輩が所有する御代田のマンションにお二人やその友人が集まった。その際に、私も家内と一緒にそのマンションを訪れ、一緒にバーベキューを囲んだ。片上六段と北尾女流二段はなかなかお似合いのカップルである。

きょう私は、午後3時から開かれる小さな演奏会を聴きに家族とでかけることにしていた。場所は私たちの別荘から車で20分ほどの場所にある「オナーズヒル」という店。ここは小高い山の頂上近くにあり、浅間山がよく見える。

ここで、まず昼食をとった。そして温泉にゆっくりつかりながら、演奏会が始まるのを待った。演奏会はレストランを利用して開かれた。観客は20名ほど。文字通り「小さな演奏会」であった。クラリネットとギターの二重奏。演奏は決して上手ではなかった。それでも、遠くにそびえる浅間山を背景にした静かな演奏会に、私はしばし時間が経つのを忘れた。

午後7時前に軽井沢を発ち、帰途についた。途中、事故や故障車のために高速道路は渋滞していた。しかし3時間半ほどで帰宅できた。

明日の夜、再度、家族と軽井沢にでかける。

2011年3月26日土曜日

家族旅行

いま、羽田空港のロビーにいる。家内と息子も一緒だ。明日、午前1時20分発の飛行機でマレーシアのコタキナバルに向かう。コタキナバルに行くのは4年続けてとなった。

今年の家族旅行が例年と違うのは、今年は息子のクラスメートの一家と一緒であるということだ。一緒に行こうと相談してそうしたわけではない。偶然であった。その上、行きの飛行機まで同じであるとは。びっくりした。どうも、私の家内が、「コタキナバルはいい、コタキナバルはいい」と息子のクラスメートの母親たちにいつも話していたらしい。

驚いたことに、実は、コタキナバルにこの春休みに行くのは、いま一緒になった一家と私たちだけではない。もう一家族もほぼ同じ時期にコタキナバルに行くのだ。もちろん息子のクラスメート一家が。ただし、その家族は成田発のクアラルンプール経由だということだ。だから、現地では3家族がいっしょになる。

2011年3月23日水曜日

震災の後の卒業式

きょうの午前、息子の通う小学校で卒業式が開かれた。息子は今年卒業する。

卒業式は講堂で開かれるはずであった。しかし3月11日の午後、息子たちが卒業式の練習をしている最中に例の地震に見舞われて講堂は一部損壊した。そのため、急遽、第二体育館で卒業式を行うことになった。

会場となった第二体育館のなかに入るのは、私は初めてであった。古い建物であった。講堂と比べると狭い。当然、暖房はない。しんしんと冷えた。前方には卒業生と来賓の座る椅子が、後方には父兄が座る椅子が並べられていた。その椅子の数から、在校生は今年の卒業式に参加しないことがわかった。

式の初めに進行係から簡単な説明があった。椅子を並べるのも在校生ではなく教職員が行ったという。「卒業おめでとう」と書かれた飾りも教職員が自ら作ったのだということであった。非常口の場所の説明も行われた。

卒業式は、3月11日の地震で犠牲となった方々への黙祷で始まった。参加者数も少なくしんみりとした卒業式となった。最後まで笑いはなかった。

卒業式が終わったあと、卒業生、父兄、それに担任の先生がクラスごとに教室に集まった。最初に、担任の先生が改めてひとりひとりに対して卒業証書を手渡した。その後、引き続き教室で担任の先生へのささやかな感謝の会を開いた。子供たちは担任の先生への贈り物をいくつか用意していた。自分たちの思い出の写真を保存したフォトビューアー、文集、花束。そして出てきたのが担任の先生の写真を真ん中に貼った額縁。その先生の写真のまわりに一人ひとりの子供たちが順番に自分の顔写真を貼った。その額縁は子供たちが用意した最後の贈り物であった。担任の先生はそれまで笑顔を絶やすことがなかった。しかし、教室の周囲を取り囲んでいた父兄からの歌が流れ出すと、急にハンカチで涙をぬぐい始めた。結局、先生は涙に耐えきれず、子供たちへの挨拶を短く切り上げた。父兄たちが歌ったのは山口百恵の「さよならの向こう側」であった。ただし、歌詞が一部変えられていた。

会が終わりに近づいた頃、廊下のスピーカーから学校中に「蛍の光」が流れ始めた。お別れ会終了の合図であった。ほんとうのお別れの時が近づいた。子供たちは、あらかじめ打ち合わせてあったのか、誰が声をかけるのでもなく自分たちの机と椅子を教室の片隅に移動し始めた。そして黒板の前に集合した。子供たち全員と先生との集合写真を撮るためであった。子供たちにとって最後の集合写真であった。私も、何回も何回もカメラのシャッターを押した。

子供たちは終始、笑顔であった。息子のクラスメートのほとんどは、そのまま附属中学校に進学する。だから卒業は友達との別れではないのだ。

しかし、少数ではあったが、附属中学校への進学を希望したのにもかかわらず他の中学校に出ざるを得ない子もきょう集まった教室のなかにいるはずであった。もちろん、自ら希望して他の中学校に進学する者もいたが。

解散した後、再度、全員が小学校の裏庭に集合した。そして子供たちは思い思いに担任の先生と並んで写真を撮ってもらった。息子はクラスメートと一緒のときには家では見ることができない表情をいつも見せる。とても優しい微笑みをたたえている。友達といっしょにいるのが嬉しくて仕方がないようだ。

まだ皆がわいわいと賑わっている最中に、私は家内と息子を連れてひっそりと裏門を出た。そして息子が1日も休まず通った小学校を後にした。

地震の影響を受けて何から何まで異例ずくめの卒業式になった。予定していた父兄と子供たちとの会食もなくなった。その後のボウリングも取りやめになった。

6年前の息子の入学式が開かれた日。その日、学校の裏庭の桜の花はすでに散りかけていた。その桜の木の下で息子の写真を撮った。当時、まだ息子は幼かった。背も低かった。制服も制帽もだぶだぶであった。きょう帰り際に裏門で家内と息子と3人で並んで撮ってもらった写真。いつの間にか息子は私よりも背が高くなっていた。

2011年3月21日月曜日

宇宙桜

 私の高校時代の3年後輩が歌を送ってきた。「地質館に集ひし人に見守られ宇宙桜は定植を待つ」という歌である。地元紙である高知新聞の歌壇に投稿したところ入選したという。彼がこの歌を詠んだきっかけも書かれていた。彼は連歌の世界ではかなり有名らしい。
 彼は、私が高校時代に寮生活を送っていた時期に1年間同室で過ごした。当時からとてもユニークな発想をする男であった。彼からの年賀状には、毎回、へんてこな歌が下手な字で書かれてくる。そして、今回のように時折、メールでも自慢の歌を送ってくる。
 彼はまだ独身。今後も結婚しそうにない。何年か前に彼に結婚しないのかと尋ねたことがあるが、生活力がないので結婚はあきらめていると彼は答えた。以来、私は彼の前で結婚話をするのは控えている。
 確かに、彼には生活力がない。彼が勤めていた小さな新聞社(従業員、わずか2名)は何年か前に潰れた。そして彼は失業した。生まれ故郷である高知に職を求め、彼は東京を去った。高知に帰って職を得ることはできたようだ。しかし彼が収入に結びつくことに自分の時間と精神力を費やしているようには見えない。相変わらず道楽三昧の生活のようだ。もちろん彼は歌を詠むことを道楽だと考えてはいまいが。連歌は彼にとってとても大切なものであるからだ。
 彼は社交的である。知人も多い。彼は彼なりに自分の人生を楽しみ、生き甲斐を感じている。そして周りの人たちも楽しませている。
 彼と話をすると、私はいつも高校時代の私に戻ってしまう。彼にはいつも命令口調で話すのだ。土佐弁丸出しで。「おい、○○、これをしちょいてや」と。連歌の世界で大御所となった彼にこのように横柄な口をきいている私はきっと無礼なのであろう。しかし若い時代にでき上がった上下関係は何十年経とうと崩せないものである。私が通った高校では、先輩は後輩よりも偉いのだ。後輩は先輩を「さん」付けで呼ぶ。先輩は後輩を呼び捨てる。

追記:
 このブログを読んだ彼から返事が来た。「会社は潰れていない。社長ひとりで頑張っている」ということであった。上に書いた「おい、○○、これをしちょいてや」というのは、私の父が所有する山林の管理をやってくれないかと彼に頼んだのだ。帰省のたびに私の父親は私を山に連れていくが、私は境界を覚えられない。いや、山林の場所すら覚えられない。「高知県の森林組合の総務部長と知り合いになっています。不在山主ツアーをしかけられますので、東京で仲間を募ってください???!」というのが彼からの返事である。