昨年、私の母親は3回、私が勤務する慶應病院に入院した。その度に父親が付き添ってきた。両親が利用するのはいつも夜行バスであった。高知ー東京間は11時間かかる。長旅である。
両親が住む高知では、東京では当たり前と思える治療を受けることができない。医療水準が低い。よりによって私の母親は高度の医療技術を必要とする病気に何度も罹患した。どうにも困ってしまって慶應病院で治療を受けることになったこともある。数年前には整形外科に3回ほど入院。そして昨年は泌尿器科に入院した。
昨年の夏、母親が退院し高知に帰る際、私は両親を夜行バスの停留所まで送っていった。母親は歩行器なしでは歩けない。私は停留所のすぐ傍に車を停めて父親とふたりで母親を後部座席から降ろした。そして急いで運転席に戻り、車を駐車場に停めた。
悲しかったのは、母親を車の後部座席から降ろしている最中、小田急バスの交通整理係の若者から「ここは駐車禁止です。車をどけてください」と大声で注意され続けたことだ。母親の姿を見ればその場所に車を停めざるをえないことは一目瞭然ではないか。それに私が車を停めた場所にバスが入ろうとしていたわけでもなかった。
駐車場に車を停めて停留所に急いで戻ると、母親は地下道への入口のコンクリートに座り込んでいた。冬ではなかったので腰が冷えることはなかったであろうが、身体が不自由な年老いた母親が腰を丸めながら屋外でバスの到着を待つ姿を見るのは、息子の私にとって辛いことであった。私が幼い頃、母親はよく私と私の姉の二人を同時に背負ってくれた。もう50年も前のことである。
高知行きのバスが到着した。両親は乗客の列の最後尾に並んだ。やっと立っている母親を私と父親が支えた。「どうぞお先に」と行ってくれる乗客はいなかった。両親は最後にバスに乗り込んだ。
母親は脚をあげることができない。私は母親の足首を両手で左右交互につかんで一歩一歩バスの階段を上らせた。上体は父親が抱えた。
なんとか母親をバスに乗せることができた。そして私だけバスから降りた。振り返り、両親の姿を探そうとバスを見上げた瞬間、私はなんとも表現できない悲しみに襲われた。両親が上京するのはこれが最後だろうという思いが急に込み上げてきたのだ。
バスは静かに出発した。そして間もなく新宿駅前の雑踏の中に消えた。バスが見えなくなった後も私はしばらく停留所にぼうっとしながら立っていた。
「両親が上京するのはこれが最後」
ちょうど1週間前に父親が脳梗塞になり、私のこの予感は現実のものとなった。
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