2011年3月23日水曜日

震災の後の卒業式

きょうの午前、息子の通う小学校で卒業式が開かれた。息子は今年卒業する。

卒業式は講堂で開かれるはずであった。しかし3月11日の午後、息子たちが卒業式の練習をしている最中に例の地震に見舞われて講堂は一部損壊した。そのため、急遽、第二体育館で卒業式を行うことになった。

会場となった第二体育館のなかに入るのは、私は初めてであった。古い建物であった。講堂と比べると狭い。当然、暖房はない。しんしんと冷えた。前方には卒業生と来賓の座る椅子が、後方には父兄が座る椅子が並べられていた。その椅子の数から、在校生は今年の卒業式に参加しないことがわかった。

式の初めに進行係から簡単な説明があった。椅子を並べるのも在校生ではなく教職員が行ったという。「卒業おめでとう」と書かれた飾りも教職員が自ら作ったのだということであった。非常口の場所の説明も行われた。

卒業式は、3月11日の地震で犠牲となった方々への黙祷で始まった。参加者数も少なくしんみりとした卒業式となった。最後まで笑いはなかった。

卒業式が終わったあと、卒業生、父兄、それに担任の先生がクラスごとに教室に集まった。最初に、担任の先生が改めてひとりひとりに対して卒業証書を手渡した。その後、引き続き教室で担任の先生へのささやかな感謝の会を開いた。子供たちは担任の先生への贈り物をいくつか用意していた。自分たちの思い出の写真を保存したフォトビューアー、文集、花束。そして出てきたのが担任の先生の写真を真ん中に貼った額縁。その先生の写真のまわりに一人ひとりの子供たちが順番に自分の顔写真を貼った。その額縁は子供たちが用意した最後の贈り物であった。担任の先生はそれまで笑顔を絶やすことがなかった。しかし、教室の周囲を取り囲んでいた父兄からの歌が流れ出すと、急にハンカチで涙をぬぐい始めた。結局、先生は涙に耐えきれず、子供たちへの挨拶を短く切り上げた。父兄たちが歌ったのは山口百恵の「さよならの向こう側」であった。ただし、歌詞が一部変えられていた。

会が終わりに近づいた頃、廊下のスピーカーから学校中に「蛍の光」が流れ始めた。お別れ会終了の合図であった。ほんとうのお別れの時が近づいた。子供たちは、あらかじめ打ち合わせてあったのか、誰が声をかけるのでもなく自分たちの机と椅子を教室の片隅に移動し始めた。そして黒板の前に集合した。子供たち全員と先生との集合写真を撮るためであった。子供たちにとって最後の集合写真であった。私も、何回も何回もカメラのシャッターを押した。

子供たちは終始、笑顔であった。息子のクラスメートのほとんどは、そのまま附属中学校に進学する。だから卒業は友達との別れではないのだ。

しかし、少数ではあったが、附属中学校への進学を希望したのにもかかわらず他の中学校に出ざるを得ない子もきょう集まった教室のなかにいるはずであった。もちろん、自ら希望して他の中学校に進学する者もいたが。

解散した後、再度、全員が小学校の裏庭に集合した。そして子供たちは思い思いに担任の先生と並んで写真を撮ってもらった。息子はクラスメートと一緒のときには家では見ることができない表情をいつも見せる。とても優しい微笑みをたたえている。友達といっしょにいるのが嬉しくて仕方がないようだ。

まだ皆がわいわいと賑わっている最中に、私は家内と息子を連れてひっそりと裏門を出た。そして息子が1日も休まず通った小学校を後にした。

地震の影響を受けて何から何まで異例ずくめの卒業式になった。予定していた父兄と子供たちとの会食もなくなった。その後のボウリングも取りやめになった。

6年前の息子の入学式が開かれた日。その日、学校の裏庭の桜の花はすでに散りかけていた。その桜の木の下で息子の写真を撮った。当時、まだ息子は幼かった。背も低かった。制服も制帽もだぶだぶであった。きょう帰り際に裏門で家内と息子と3人で並んで撮ってもらった写真。いつの間にか息子は私よりも背が高くなっていた。

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