2008年12月2日火曜日

小さき者へ 有島武郎

高校時代、私は多くの小説を読んだ。ほとんどは明治から昭和初期にかけての作家の作品であった。しかし有島武郎の作品はほとんど読んだことがない。その理由が最近になってやっとわかった。要するに読みづらいのだ。文体が翻訳調であるからである。

ただ、有島武郎の作品を全く読んだことがないわけではない。短編ではあるが、「小さき者へ」と「生まれいづる悩み」の2編は私の愛読書である。これらの作品は青空文庫としてネット上から手に入る。無料で読めるのだ。

今日の夕方、帰宅途中、青空文庫の中の「小さき者へ」を読み直してみた。次の一節は実に迫力があった。ここに引用する。

「お前たちの母親の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、賃でもお前たちに会わない決心を翻さなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上にも暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かねばならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母親は書いている。」

この一節がなぜ今の私の心を捕えたのであろうか。繰り返しこの一節を読むと、さまざまな想いが私の心の中を駆け巡る。

私のふたりの知人も幼子を遺して死んだ。彼女たちが生前繰り返し叫んだ無念さがこの一節の中からも溢れ出てくる。

2008年11月25日火曜日

祖母

寒くなると訃報を聞くことが多くなる。私の祖父母も冬に亡くなった。祖父の命日は1月21日。88歳。老衰であった。

一方、祖母は祖父よりもずっと早く、63歳で亡くなった。私が小学校2年生のときの12月30日のこと。やはり寒い時期であった。

当時のことは今でも鮮明に思い出すことができる。祖母が倒れた日。その日の朝、祖母は近所の農作業を手伝いに朝早くから出かけた。金柑採りであった。木枯らしの吹く寒い日であった。祖母は自宅を出る際に珍しく興奮していた。

祖母が倒れたという知らせが届いたのは日没前。一緒に農作業をしていた近所の人たちが意識のなくなった祖母を背中におぶって私の自宅まで運んでくれた。一目で中風だとわかった。祖母は血圧が高かった。高血圧にいいからと言って、長い間、野菜の汁と柿の葉の汁を飲んでいた。

祖母は囲炉裏端に寝かされた。母は献身的に看病をした。祖母が亡くなるまでの間にかかりつけの医師が3回か4回往診に来てくれたように思う。臨終の際にも立ち会ってくれた。しかし治療らしき治療は一切施さなかった。当時の医療水準からすれば術はなかったのであろう。

祖母が息を引き取ったのは早朝であった。父は祖父の死を確認すると突然あわただしく動き始めた。あらかじめ準備していたらしく、てきぱきと葬儀の準備を進めた。翌日は大晦日、その翌日は元旦。父は祖母の死の翌日の大晦日に葬儀を行うことに決めたようであった。

まだ当時は電話が普及していない。父は親族に対して次々と電報を打ち始めた。「ハハ、シス。・・・・」と電話で父親は何度も繰り返してしゃべっていた。あっという間に親族一同が集まった。祖母は実家の裏山にある墓地に埋葬された。土葬であった。

葬儀の後の会食が終わると親族は次々と帰宅し始めた。翌日は元旦であった。叔父夫婦もその日のうちに帰宅するという。

何を思ったのか私はその叔父に対して「おんちゃんの家に一緒に行く!」と言って、実家からバスと汽車を乗り継いで2時間ほどかかる叔父の家までついていった。そして叔父の家で3泊した。祖母の葬儀のあとひっそりとなるにちがいない実家にじっとしているのが当時の私には寂しくて我慢ができなかったのであろう。叔父の家では従兄弟たちと楽しい時間を過ごすことができた。気分は晴れなかったが、祖母の死の悲しみからわずかでも気を紛らすことができた。

叔父の家は中土佐町久礼にあった。「土佐の一本釣り」で有名になった海辺の小さな漁港だ。叔父の家は海に面していた。堤防の向こうに雄大な土佐湾が見渡せた。私の実家は山村にあったから、海を見ることはめったになかった。海に慣れない私は激しく打ち寄せる波が怖かった。

堤防の上に上ると風が強い。そばに立っている叔父に向かって私はふっと次のような質問をぶつけた。「風はなぜ吹くが?」

間をおいて叔父はゆっくりとしゃべり始めた。「地球上のあるところに空気がない場所ができて、そこに空気が流れ込むと風になる。」

幼い私は不思議に思った。空気がない場所ができたならばそこで暮らしている人たちは窒息してしまうのではないだろうかという素朴な疑問を持ったのだ。しかしこの疑問を私は叔父にぶつけることはしなかった。怖い答えが返ってくるのではないかというおぼろげな不安感のためであったように思う。「そうなんだよ。だから地球上のあちこちで、窒息のためにどんどん人が死んでいるんだよ。」こんな答えが叔父から返ってくるような気がしたのだ。

祖母が倒れた日の朝に祖母が興奮していた理由を私が知ったのは、祖母の死から3か月ほどしてからのことであった。祖母が倒れた日の朝、家を建て替えると父は祖母に告げたらしかった。祖母の生前、祖母と父とはたびたび口論をしていた。気性の激しい父は怒ると祖母に暴力を振るうこともあった。父は貧乏から這い上がろうと無我夢中であったのだろうと今の私は当時の父の気持ちを擁護することもできるが、その頃の私は父をただ恐れ憎んだ。祖母が亡くなると、祖母と激しく口論してばかりで親孝行できなかったことを父はひとり悔やんでいるようであった。家を建て替えることを祖母に知らせることができたことだけでもよかったと繰り返し父は家族に話した。

当時の私の実家はわらぶき屋根のおんぼろ屋敷であった。四角い柱はほとんどなかった。虫に喰われ、どの柱も円くなっていた。それに暗かった。台風や地震のときには家全体が大きく揺れた。家が揺れるたびに祖母は大声で「ほー、ほー」と叫んだ。何かのお呪いであろうと私は思った。蛇やムカデが家の中に入ってくることもよくあった。ムカデに噛まれたことも一度や二度ではなかった。

新しい家が落成したのは祖母の死の翌年の8月。その晩、私の姉と私のふたりは新居の床の間で寝かされた。当時、その地域ではひとつの儀式であったらしい。夏ではあったが、まだ畳も敷かれておらず、すきま風も入ってくる。このように開けっぴろげの場所で子供をふたりきりで寝かせるということは今の東京では信じられないことであろう。少し寂しかったが、私は心地よい檜の匂いに包まれていつしかぐっすり眠ってしまった。翌日は朝から快晴であった。

祖母が亡くなって44年経った。祖母の死はまだ昨日のことのように思い出される。祖母は私の記憶の中で今も生き続けている。

2008年11月16日日曜日

軽井沢

私は、毎年、夏休みを家族と一緒に軽井沢で過ごす。そして軽井沢から一泊か二泊であちこちに出かける。今年は白馬の八方池まで足を伸ばした。

白馬山麓駅からケーブルカーとリフトを乗り継いで山を登る途中に長野オリンピックでの大滑降の競技場があった。長野オリンピックが開催されたのは1998年。ちょうどこの直前に長野新幹線が開通した。そしてその数か月後に息子が生まれた。

八方池に行くにはケーブルカーとリフトを乗り継いだあと更に1時間ほど歩かなければならない。私たちは山の裾野に広がる白馬の町や遠くかすむ北アルプスを眺めながらゆっくり山を登った。田園の中に広がる白馬の町は私たちが2年間住んだことのあるドイツを思い出させた。その光景は南ドイツにあるNeuschwanstein城から眺めたドイツの小さな町にそっくりであった。私はときおり足を止め高山植物をカメラに収めた。写真を撮り終わると先を行っている家内と息子に追いつこうと走った。

その晩、私たちは白馬の町にある小さなペンションに宿泊した。昨年も一昨年も白馬に一泊した。入浴をすませて宿泊客一同そろって夕食。そのペンションに当日宿泊していたのは家族連ればかりであった。

翌日は雨。私たちはそのペンションを出て鬼無里に向かった。そこには「いろは堂」というおやきの店がある。この店のおやきは東京のデパートでも見かけることがあると家内から聞かされていたが、デパートで買うおやきとこの店で食べるおやきとでは味が全く違うのではなかろうか。いろは堂でおやきを食べて以来、これまでに私たちは何度もこの店を訪れた。和服姿のおかみさんがいつも快く私たちをもてなしてくれる。

おやきを食べ終わってもまだ雨は降り続いていた。私たちはその日、戸隠で歩きながらいくつかの湖めぐりをする予定であったが断念するほかなかった。戸隠ではちびっこ忍者村を訪れたあと車で鏡池に立ち寄った。ちびっこ忍者村にも鏡池にも私たちは何度か来たことがあったので長居することはなく、軽井沢に戻ってきた。

軽井沢では、私たちは雑踏の中にほとんど足を踏み入れない。小諸にある農園でブルーベリー狩りやリンゴ狩りをしたり、その農園にある釣り堀で鱒釣りをしながら時間を過ごすことが多い。釣った鱒はその場で塩焼きにしてもらう。松井農園の職員の方々ともすっかり顔なじみになった。平素お世話になりながら義理を欠いている方々に今年はその農園からぶどうやりんごを送ってもらった。

息子はあっという間に10歳になった。もうすぐ思春期を迎える。私たちが揃って家族旅行にでかけることができるのも、もうそう多くはないであろう。親として自分の子に残せる最大の遺産は家族で過ごした楽しかった思い出であろうと私は思う。

2008年7月31日木曜日

きょう私に一通の手紙が届いた。赤のボールペンで「親展」と書かれていた。宛名書は筆字であった。差出人は私の知人のお母様。黒のボールペンで綴られた2枚の便せんが入っていた。知人の死を私に知らせる内容であった。娘の死の模様が淡々と述べられていた。私は繰り返しその手紙を読み直した。私は深い悲しみに捕らわれた。しかしその知人の死が意味のないこととは感じなかった。これから永遠に続く安らかな眠りは、その知人がこの数年の苦しみにじっと耐えてきた我慢の当然の代償のように思われた。

帰宅途中、週刊誌の中吊り広告が目に入った。「”死にたい人”には重労働を」という文字が私の目を引きつけた。有名な作家の投稿記事であった。

人は必ず死ぬ。どれほど生き続けたくてもいつかは必ず死ぬ。しかも死ぬ時期や死に方を選ぶ自由など誰にも与えられてはいない。死にゆく人にとっても家族にとってもほとんどすべての死は望まざるものであり、死に方もまた望まざる死に方なのだ。せめて残された人たちは、愛する者の死に価値を見いだす努力をしなければならない。たとえその死がいかなる死であったとしても・・・。死に対して意味を与えるのは死んでいく人だけの責務ではなく、死にゆく人と残される人たちとの共同作業であるべきではなかろうか。

その中吊り広告を眺めながら、そんな考えがふっと私の頭をよぎった。

2008年7月29日火曜日

祖父

私は祖父母に育てられた。

喜怒哀楽の激しかった祖母とは対照的に祖父は実に温厚であった。88歳で老衰のため亡くなるまで私は祖父が怒ったり嘆き悲しむ姿を一度たりとも見たことがなかった。私が物心ついた頃、祖父は既に隠居していた。そして小遣い稼ぎに家で竹箒を作ったり畚(ふご)と呼ばれる農作物の入れ物をワラで編んでは近所の雑貨屋に持っていって売っていた。ひとつ50円か100円で買い取ってくれるということであった。竹箒や畚を古い自転車の後部座席に乗せて店に納品するために出かけていく際の祖父のガニ股姿が今でも鮮やかに思い出される。

祖父はまた、近所の人に頼まれ、雑木林の伐採にもよく出かけた。私は保育園から帰ると祖父の仕事場を訪ねてはじっと祖父の作業を見つめていた。そんな私のために祖父は休憩時間を利用して切った雑木を削って刀や剣を作ってくれた。竹とんぼを作ってくれたこともあった。

そんな雇われ仕事をしている期間中も風呂の湯沸かしは祖父の役目であった。当時のわが家の風呂は五右衛門風呂。祖父は薪を炉の中に投げ込んだあと「吹き」と呼ばれる竹製の筒で火を煽った。何かの拍子に火が消えると、私も祖父のまねをして「フー、フー」と思い切り「吹き」を吹いた。過換気症状が出て、時折、頭がぼうっとなった。風呂が沸くまで私はじっと祖父の側に座り火が燃えるのを眺めていた。

私に初めて漢字を教えてくれたのも祖父であった。当時の私の自宅には囲炉裏があった。囲炉裏の側にあぐらをかいて座っている祖父の膝の上に私はよく乗った。私を膝の上に乗せた祖父は「松」という文字と「杉」という文字を火箸を使って囲炉裏の中の灰に書いてくれた。祖父は何度も私に漢字を教えてくれたが、囲炉裏に書く字は毎度毎度「松」と「杉」だけであった。

祖父は酒が大好きであった。特に焼酎を好んだ。焼酎を一口飲み込むたびに舌鼓を打った。祖父はまたよく眠った。昼間から酒を飲んでは眠り、飲んでは眠り、の毎日であった。時折、私には聞き取れないような小さい声で歌を歌っていることもあった。70歳を過ぎてから亡くなるまでの間、祖父はずっとそのような生活を続けた。

ある日、酒とジュースとどちらがおいしいかと私が祖父に尋ねたことがある。そのとき祖父はためらいもせず「酒の方がおいしい」と答えた。まだ小学生であった私にとっては驚きであった。

祖父は1週間に1〜2升飲んだ。戦死した長男(私の父の兄)の恩給がほとんどすべて祖父の酒代に消えた。しかしそんな祖父を父が止めることはなかった。「年寄りは自分の好きなようにすればいい」というのが父の口癖であった。

祖父の晩年は穏やかであったと思う。しかしこんな祖父も大借金を背負って苦労したことがあるということをつい数年前に近所の老婆から聞かされた。親類の借金の保証人になっていたところその親類が死んでしまったのだという。その当時、近所の人たちはこれでわが家はつぶれるだろうとささやきあっていたという。しかしその老婆が言うのには、祖父は律義にその莫大な借金をきちんと返したらしい。いまわが家が栄えているのは私の祖父の積んだ徳のおかげだとその老婆は私に語った。

私はこの話を祖父からも父からも聞かされたことはない。おそらく父が死ねばこの話は永遠にこの世から消え去ってしまうであろう。

話は変わるが、私は、中学校、高校、大学と、ずっと私学に通った。地元の小学校から20キロほど離れた私立の中学校を私が受験しようとしたとき、父は猛反対した。わが家が貧しかったことが大きな理由であったのではなかっただろうか。入学試験の前日の晩も父と私は激しく口論した。そのとき、私の希望を入れて受験させてもらえたのは祖父の後押しのおかげであった。私は泣きはらした顔で受験会場にでかけた。大学に入学するときもそうであった。父は国立大学に進学するようにと私に言った。しかし私は私立大学への進学を希望していた。その歳にも祖父は私の希望を叶えてあげるようにと父に告げるとともに、祖父の財産を全て売ってもいいと言ったという。

私の大学入学試験の合格発表日、私は帰郷せず東京にいた。夕方、私は合格発表の掲示板を見に三田まででかけた。自分の受験番号があるのを確認し、自宅に電話をかけた。そのとき、その朝に祖父が富士山と茄子の夢を見たという話を父から聞かされた。ちょうどその日の午後、行商人が鷹の置物を売りにやってきたのでそれを買ったと言った。「一富士二鷹三茄子」のすべてが揃ったのだ。なんという偶然であったのであろうか。わが家には既に鷹の置物があった。わが家の神棚には古くからあった鷹の置物とその日に買った鷹の置物とが今も並べて置かれている。

祖父が亡くなったのは私が大学を卒業する年の1月21日であった。その前日、東京にいる私に父から電話が入った。しかし父は特に用件を告げることもなく電話を切った。実はそのとき祖父は既に危篤状態になっていた。しかし私の国家試験の妨げにならないようにと父はそのことを私に告げなかったのだ。事情を知らない私は友人宅に泊まりにでかけた。しかし友人宅で勉強していてもなぜか心が落ち着かない。じっと本を読むこともできない。体の置き場所がない。だるい。そんな状態がずっと続いた。当時は携帯電話がなかった。

私はひょっとしたらと思い友人宅から実家に電話をかけた。受話器を取ったのは伯母であった。伯母は私の声を聞くなり「今どこにおるがでえ! おじいちゃんが死んだのに幸伸は何をしゆう! いま葬式の最中でえ!」と大きく叫び電話の向こうで泣き崩れた。

祖父の死を知った途端、私の体のだるさはとれた。不思議な体験であった。あの体調不良は祖父から私への死の知らせであったのであろうか。

祖父の死は私にとっても悲しい出来事であった。私も泣いた。しかし不思議と悲しみは少なかった。むしろ祖父を讃える気持ちが強く私の心の中で湧き上がってきた。88歳、大往生ではないか! 苦労多き88年の人生をひっそりと静かに閉じた祖父を私は讃えた。

私が墓参りのために実家に戻ったのは国家試験が終わったあとの春のことであった。祖父の墓前で私は詫びた。私をことのほか可愛がってくれた祖父の死に目に立ち会うことができないばかりか葬式にすら出席できなかったことは、その後、長く私を苦しめることになった。今週末、私は祖父母の墓参のために帰省する。

2008年7月22日火曜日

生きてありて

高知市のメインストリートは今も路面電車が走っている。このメインストリートを車で走るとひっそりと身を隠しているかのような南病院の建物が目に入る。この小さな病院に私はかつて入院したことがある。小学校2年生のときであった。確か9月。秋の運動会の前であった。病名は自家中毒(周期性嘔吐症)。

入院する2週間ほど前、食欲不振、嘔気、全身倦怠感が出現。私の実家のある土佐市内の小児科を母に連れられて何軒か受診した。しかし、どこでも「寝冷え」と診断された。そして特別の治療を施されることもなく家に帰された。そうこうするうちに病状はどんどん悪化していった。

しかし私は体調の悪さをおして毎朝登校した。自宅から小学校までは1キロ半ほど。その頃はまだバス通学をしていた。午前中はなんとか授業を受けることができた。しかし午後になると全身がだるく立っていることすらままならない。毎日のように自転車の後部座席に乗せられて教頭先生に自宅まで送ってきてもらった。

症状が出てから2週間ほど経った頃、嘔気が強く、とうとう食事がとれなくなった。そして、もう翌日は学校に行くのは無理と思われた。ちょうどその晩、評判がいいという小児科の話を近所の知り合いから父親が聞いてきた。その病院が南病院であった。翌日、私はその近所の知り合いの車に乗せてもらって自宅から30キロほど離れた南病院を受診した。当時、私の家には私が横たわって乗ることができる乗用車はなかった。病院での最初の検査は検尿であった。母親に支えられて尿の採取をしたことまでは憶えていた。しかしその直後に意識がなくなったようだ。洗面所を出たことすら記憶がなかった。

私が病室のベッドの上で目覚めたのは午後2時か3時であったと思う。周囲は明るかった。ふっと振り返ると母親が私のベッドの側にじっと座っていた。母親は私の意識が戻ったのに気づくと主治医や看護師に連絡することもなく、「受診するのがあと3日遅かったら死んでいたと言われた」と淡々と語った。そして3日間意識がなかったと告げた。当時から私の母は喜怒哀楽をほとんど表情に出さない女性であった。その日も同様であった。母の表情からは喜びも悲しみも感じ取ることはできなかった。まだ7歳であった私も自分の死が迫っていたことに大した恐怖も感じなかった。意識が戻った翌日、私はクラスメートから届けられていた見舞いと励ましの手紙をベッドの中で読んだ。

意識が戻ったあとの私はあっという間に元気を取り戻した。体のだるさも嘘のように吹き飛んだ。私は病院の中で片時もじっとしていることができなかった。当時、木造であった病院の階段を走り回っていた記憶が今も鮮明に残っている。意識が回復してから3日後に退院したが、その3日間は当時の私には気が遠くなるほど長い時間であった。

周期性嘔吐症は小児科医であれば誰でも知っている病気である。私の症状も定型的な周期性嘔吐症であったと思う。だから、なぜもっと早く正確な診断が下されなかったのだろうかと思う。しかしその一方で、自宅から遠く離れた南病院を紹介されたことも奇跡だと思う。私自身が医療に携わるようになって以来、私は診療行為はロシアンルーレットのようなものだとずっと思っている。そうはっきりと患者に告げることもある。医療には100%ということはない。逆に0%ということもない。たとえば薬を投与しても必ずしも効果があるとは限らない。副作用が出るだけのこともある。手術に関してもしかり。リスクのない手術はない。「その手術は安全ですか」と私に真剣に問いかける患者に対して私はどのように答えようかといつもとまどう。医療行為のなかに安全なものなどあるはずがないではないか。医療行為の結果はある程度、確率論的なものでしかない。

長い間、医療は精神論で語られてきた。何か問題が起きるたびに医療を提供する側に全責任がかぶせられ、医療提供者の心がけだけで安全な医療が提供できるという神話がまかり通ってきた。患者はこの不毛な神学論争に片足を突っ込んだまま、さびれゆく日本の医療の現状に単に慌てふためいているだけのように私には見える。

男性の平均寿は80歳に近づいている。そんな今、私が生きていることは決して不思議ではない。しかし必然のことでもない。高校時代の同級生もすでに何人かは亡くなった。単なる確率の問題なのだと自分自身は考えている。そんなふうにしか考えない私は生に対して淡泊すぎるのであろうか。

2008年6月16日月曜日

父の日



昨日の日曜日は父の日であった。息子が塾に行っていた昼過ぎに私は自宅を出て大学に向かった。貯まっている雑用を片付けるためである。帰宅は深夜になった。

私が家の前にたどり着いたとき、ふと目に入ったのは、我が家の花壇に新しく植えられていた花であった。薄暗かったのでよくは見えなかったが、美しい花を咲かせていた。

家に入ると家内と息子は既に寝ていた。食卓の椅子に座ってふとテーブルの上を見ると、厚紙を切って作った数センチ四方の厚紙が5枚置かれていた。それには手書きで「マッサージ5分」と書かれていた。多分、その「チケット」1枚で5分マッサージをしてくれるという意味なのであろう。思わず私は微笑んだ。

今朝、息子は私がまだ寝ている間に出かけた。したがって息子には布団の中からマッサージ券のお礼を言っただけであった。

朝食の最中、昨夜息子は私の帰りを待って夜遅くまで起きていたと家内から聞かされた。そして、昨日の昼間、「パパがよろこぶだろうね」と言いながら花壇に花を植えていたという話をした。

昨日の朝、息子が出かけた後、私は家内から父の日にまつわるちょっとした笑い話を聞かされていた。父の日に息子が3枚のマッサージ券を父親にプレゼントした。喜ぶ父親に向かってその息子はこう言った。「パパ、その券の注意書きをよく読んでよね」。そのマッサージ券には「この券4枚でマッサージを1回受けられます」と書かれていたというのだ。私の息子は塾への出がけに家内にこの笑い話をしながら「僕もそうしようかな。4枚目は今度のパパの誕生日にあげようかな」と話していたということであった。

昨年までは父の日のプレゼントも母の日のプレゼントもなかった。父の日と母の日に息子がプレゼントをくれたのは今年が初めてである。息子は昨年から少し成長したのであろう。しかし、息子が思春期を迎えると、また少なくとも父の日の贈り物はなくなるかもしれない。そうなったとしても、それもまた息子のひとつの成長の証なのだろうと思う。