2008年7月31日木曜日

きょう私に一通の手紙が届いた。赤のボールペンで「親展」と書かれていた。宛名書は筆字であった。差出人は私の知人のお母様。黒のボールペンで綴られた2枚の便せんが入っていた。知人の死を私に知らせる内容であった。娘の死の模様が淡々と述べられていた。私は繰り返しその手紙を読み直した。私は深い悲しみに捕らわれた。しかしその知人の死が意味のないこととは感じなかった。これから永遠に続く安らかな眠りは、その知人がこの数年の苦しみにじっと耐えてきた我慢の当然の代償のように思われた。

帰宅途中、週刊誌の中吊り広告が目に入った。「”死にたい人”には重労働を」という文字が私の目を引きつけた。有名な作家の投稿記事であった。

人は必ず死ぬ。どれほど生き続けたくてもいつかは必ず死ぬ。しかも死ぬ時期や死に方を選ぶ自由など誰にも与えられてはいない。死にゆく人にとっても家族にとってもほとんどすべての死は望まざるものであり、死に方もまた望まざる死に方なのだ。せめて残された人たちは、愛する者の死に価値を見いだす努力をしなければならない。たとえその死がいかなる死であったとしても・・・。死に対して意味を与えるのは死んでいく人だけの責務ではなく、死にゆく人と残される人たちとの共同作業であるべきではなかろうか。

その中吊り広告を眺めながら、そんな考えがふっと私の頭をよぎった。

0 件のコメント: