2020年4月11日土曜日

少年忍者 風のフジ丸

私が幼い時期、我が家は貧しかった。私は高知県内の寒村で育ったが、父親の言葉を借りれば「村で一番貧しかった」そうである。なぜそれほどまでに我が家が貧しかったのか、正確な理由は知らない。私が生まれたのは1956年(昭和31年)。まだ終戦から10年余りしか経過していなかった。どの家庭も生活が苦しい時期であったと思う。

Wikipedia によると、日本でテレビ放送が始まったのは1953年2月1日。私が生まれる3年あまり前のことであった。保育園児だったころ、私は祖母に連れられて、毎週火曜日の夜、3軒隣りにテレビを観せてもらいに行った。「事件記者」という番組が午後8時から1時間放映されていた。記憶に誤りがなければ火曜日であったと思う。その一家からはいつも歓待してもらった。雑談しながら番組を楽しんだ。当時まだ街灯はなく、月の出ていない夜の帰り道は真っ暗であった。姉が一緒だった記憶はない。姉はいつも母親と一緒であったような印象が残っている。対照的に私はいつも祖父母の側にいた。夜も、祖父母の布団の中に入り祖父母に挟まれて寝た。時折、おねしょをしたが、叱られたことはなかった。

話が逸れた。

我が家にテレビが入ったのはいつであったろうか。私が小学生の頃であったことは確かであるが、正確な時期が思い出せない。ただ、「少年忍者 風のフジ丸」というテレビアニメが放映されていた時期には、我が家にはまだテレビがなかった。Wikipedia には、この番組が放映されたのは1964年6月7日から1965年8月1日までであったと記載されている。この番組を自宅で観た記憶はない。したがって、我が家にテレビが入ったのは、早くとも1965年だったということになる。

「少年忍者 風のフジ丸」のことを今も鮮明に覚えているのは、この番組と生涯忘れることのできない嫌な記憶とが結びついているからである。私はこの番組を隣りの家で観せてもらった。日曜日の夕方に1歳歳下の幼友達と一緒にこの番組を観ることが楽しみであった。ところがテレビが置かれていた彼の家の茶の間に彼の父親が入ってくることがあると、番組の途中であってもいつもテレビを消された。彼の父親は息子の傍らに私がいるのを見るとヘラヘラと笑い、少し間を置いて私の方を見ながらテレビの電源を切った。そしてニタニタ笑いながら何も言わずに茶の間から出ていった。一回や二回ではなかった。

大の大人が、まだ小学生であった私に対してこのような嫌がらせをしたのである。

私の父親も何かにつけて彼の父親から嫌がらせをされたらしい。村の会合から帰るたびに父親は悔しさを母親にぶちまけていた。今も私が鮮明に記憶しているのは、村の農道の改修工事の打ち合わせを村民の間で繰り返し行なっている時期の出来事である。その打ち合わせの場で、彼の父親が、我が家の前の部分だけは改修する必要がないと主張しているという。会合から帰ってくる度にこのことを私の母親にす父親の唇は怒りで震えていた。

隣りの家から受けた数々の嫌がらせについて、後年、父親は、母親と私が傍らにいるときに次のように言った。「貧乏のどん底から這い上がってきている「うち」(つまり私の家)に対するしょのみがあったんだろう」と。「しょのみ」とは土佐弁で、「嫉妬」を意味する。

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